雪解け 第15回(最終回)




森亜人《もり・あじん》

 きょうも吹雪になっていた。粉のような雪が走っていることだろう。間もなくバシャが訪ねてくる。私の脳裏を南フランスのランド地方の荒涼とした原野がよぎる。

 荒野を渡っていく風の音には人のぬくもりがない。大自然の荒々しさのみが私の肌にぶつかってくる。荒涼とした原野とはこういうものかと改めて思ったものだ。

 私は荒涼とした大地そのものだった。ランド地方の林の中で夜を過したとき、たしかに孤独だった。生き物の原始を想像するに充分すぎるほどの静寂さだった。しかし、今の私よりはまだ人のぬくもりがあった。

 この絶え難い焦燥感は自分自身の精神から生じたものだ。誰のせいでもない。全て己の身勝手さから出てきたものだ。こんな自分を誰が許してくれるだろうか。

 別れた女の言った言葉が、私の心を貫いたことを、今になって思い知らされる。

「ごめんなさい。自信はないけれど、わたしはキリストを選ぶと思います」

 この一言が己を打ち砕き、更に神の存在をも否定していったのだ。あのとき、彼女が、「もちろんあなたを選びます」と言ってくれていたら、結婚もしたろうし、まかり間違えば彼女の信じている神も信じたかもしれない。

 私の精神は愚そのものであることがわかる。それゆえに私は己を呪いたくなるのだ。そして、自分だけでなく、周囲の者までも憎み、反動的に神までも憎むようになったのだ。

 彼女は神を選んだ。障害者を選ぶよりはるかに光栄ある道だろう。私は彼女の態度をそう思い続けてきた。だが、その確信めいた感情が脆くも崩れたのだ。

 彼女は、私が障害者だからそんなものを選ぶより神のほうが美しいと感じていたのではないことを知ったのだ。今になって……。

 別れてしまった女を紹介してくれた親友が言ったことを思い出す。

「お前は自尊心さえ傷つけられなければ立派な紳士だよな。そのお前がだよ、ちょっとでも自尊心を傷つけられでもすれば梃子でも動かなくなるし、へたをすればアシュラみたいになるんだよな」

 酒を飲みながらの話だったが、冷水を浴びせられた思いだった。多分、親友だから彼の言葉を苦言として聞けたのだろうが、ほかの者なら私のことだ、逆襲に転じたであろう。

 親友はそう言った。声に出して言ったのだ。だが、今回は違う。私に無言で語りかけたものがいる。ニェポカラヌフで。あの粗末で小さな部屋で聞いた。いや聞いたというよりも体の中に染み込んできたといったほうが的を射ているだろう。

「ご気分はいかがかしら?外は吹雪よ。春の前ぶれの吹雪だわ」

「バシャ、雪解けが始まったら私は日本へ帰ることにした。これ以上、君たちに迷惑を掛けるわけにいかない。申しわけないが手続きを取ってくれないだろうか。二週間もすれば雪が解け出すだろうから」

 自分でもとっさに出た言葉だった。ポーランドで骨を埋めてもいいなどと思ったこともある。バシャと結ばれることを考えたこともある。しかし、幻影の彼方に安穏な道を選択してはならないという啓示に似た強い意思がどこからともなく湧き上がってきた。このままワルシャワに留まれば生活も幸せな日々も約束されている。しかし、それを選んではいけないという思いが私の顔を前に向けさせた。

「そう」

 バシャは小さく言って黙り込んでしまった。バシャの視線を頬に感じる。

「そうね、あなたの決心が強いみたい。とても寂しいけれど日本にお返しするわ。それに」

 バシャは何か言い澱んでいたが

「あなたには何も言わなかったけれど、高熱で魘されていたとき、どなたかの名前を呼びつづけていらしったみたい。お母さまの名前かとも思ったけど、それは違うわよね」

 窓を叩く吹雪の音がいつの間にか途絶えていた。室内の暖房がやけに強く感じる。

「済まないねバシャ。実は」

 私は彼女のことを語ろうかと思ったが、やめにした。バシャの考えている理由で帰国しようとしているのではない。そのことを言おうと思ったが、私は首を横に振って言葉を飲み込んだ。

 私にどこまでやれるか、大海の木の葉より頼りない決意かもしれない。それでも私は漕ぎだしてみたかった。アウシュヴィッツの収容所へ向かう列車の先頭に立って、しっかり頭を上げて歩いていった人のように。







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