夕映えの中に 第3回


森亜人《もり・あじん》



「朝美、あの時を思い出さないか?」

 和幸は、小学生などと思えないほど充実していた朝美の少女時代をつかの間思い出して言った。

「あの時って?」

「いや、いいんだ…」

 和幸は、こと改めて思い出させることもないと思い直し、朝美の腰を抱き寄せて歩を進めた。

あの時はまだ十二才の少女だった。和幸は、今の朝美と同い年の二七才だった。ずいぶん時が流れたようにも感じ、逆に、つい数年前のようにも思えた。

 和幸の腕にしっかりしがみついて死の恐怖から生の喜びに戻ったことが彼女の瞳を突然滂沱と涙で覆った。その大きな涙に秋の空が映っていたことをまざまざと思い出す。

 今回、朝美と再会して知ったことだが、あの折、彼女の後ろを歩いていた弟が石に躓いて、前を行く姉にしがみついていったところ、ちょうど川の縁だったので、そのまま川に落ちてしまったのだという。

「ねえ、和幸さん、本当にこれで良いのかしら」

 朝美が少し憂い顔になって言った。

 数ヶ月前、和幸は記憶から決して消えたことのない蓼科の林間に足を染めた。十数年という歳月が経たというのに、そこは当時とまるきり同じだった。人の手が入らないということは、自然を幾十許も育むことになるのだ。

 ただ違っていることは、少女を救った時は秋だったが、今回は初夏だった。その少女にまさか遭遇することなど夢想だにしていなかったので、木陰でぱったり顔を見合わせた瞬間、和幸は、言葉の全てを失い、ひたすら樹木と化していた。

 あの時の少女は秋の果実さながら熟し切った女になっていた。初め、和幸は、そこに人がいたことに驚いて相手の顔を凝視していたのだが、女は、和幸を見るなり、たちまち炎に包まれたように顔を輝かせ、いきなり和幸の体にぶつかってきたのだ。

「わたしです。どうしてあの時、黙って行ってしまわれたのですか?」

 女は、和幸の胸を拳でバタバタ音を立てて叩きながら声を振り絞って訴えた。そして、水面の外へ顔を出した時のように、大粒の涙をほろほろとこぼしたのだった。

 それが、死の淵から救った少女であることを認識するまでには時を要した。しばらく、和幸は精神を虚ろにさせていなければならなかった。

 和幸は、あの時のままの少女だったら無条件で胸にかきいだいただろう。だが、今、胸に飛び込んできた女は、あまりにも成熟した肢体を持っている女になっていた。それでも、形ばかりのしぐさで和幸は豊かに成熟した女の肩にそっと手を置いたのだった。

 そんな和幸の精神など彼女の念頭にないらしく、よく見知った最もちかしい人を見つけた時の様で、和幸の体を揺すりながらじっと和幸の目を覗き込んでいた。

 しばらく興奮に身を震わせて早口にしゃべっていたが、やっと心に落ち着きを取り戻した彼女は、十五年前のように逃げられまいと、彼の腕をしっかり掴まえて別荘へ誘った。

 十数分ほど林の小道を辿っていくと、木の間隠れに周囲の緑に染まって二階屋の洋館があった。手入れはしてあるものの、自然の風格を漂わせている立ち木の陰に、赤いポルシェがそこだけ華やかな雰囲気をかもし出していた。

 建物の中は、外から見た姿とは異なり、地面から生えている木に壁を塗布したのではないかと思われるもので、柱というより、立ち木そのものと言ったほうが的を射ていると思われた。

 十数坪もあるサロンの隅に暖炉があり、朝のあいだは使用されていたのだろう、室内に暖気が保たれていた。

 和幸は、朝美が茶の支度を整えるためにキッチンへ行っているあいだ、少し贅沢と感じる室内を見回していた。ワインセラーに納められた中に、一度も口にしたことのないドンペリやロマネコンティの姿も見られた。それだけでも彼女の家庭環境が知れるというものだろう。

 いったい、彼女の夫とはどんな人物なのだろうか?いや、彼女の父親かもしれないが、和幸の住む世界とはあまりにも隔てられているように思われた。

 やがて、朝美は盆にコーヒーの用意を整えて戻ってきた。そして、和幸の座っているソファの向い合いのアンティークな安楽いすに身を沈め、燃えるような瞳に懐かしみと、ある種の恥じらいを込めて和幸を見つめ続けた。

 朝美は胸の前に両の手の指を組んでじっと見つめていた。走り去るように山を下っていった和幸に、取り縋ろうとして彼の濡れた上着の裾に掴まろうとしていた少女の時の目の輝きに、大人としての力の込った挑みの視線をぴたりと当てていた。

 和幸は、年甲斐もなくおくする思いで想念をかき乱していた。いつもの放埓ともいえそうな風情は飛散していた。十五年の年月が、たちまち風化していく思いだった。

 すっかり大人になっている目の前の女と、たとえ、標準より生育していたとはいっても、まだ小学生だった少女の朝美と和合しないのだ。

 だが、朝美のほうは、十五年という歳月はまるきり無意味に感じているらしく、二日前、三日前に飛び出していった恋人を掴まえたように、和幸の視線を決して外すまいと、燃える相貌をぴくりとも動かさずに見つめ続けていた。

 そんな朝美に圧倒され、何を言えば良いのか戸惑うしまつだった。それでも、どうしてあんなところにいたのかと尋ねることができた。

 朝美は満面に深い喜びを湛えて頬笑み、この十五年間を一気に語ってくれた。

 それによると、朝美や彼女の家族の者たちは、春のゴールデンウィークや、夏休み中、また秋の連休には別荘へ来ては、もしかしたら和幸がくるかもしれないと思ってそれとなく林の中を歩いていたという。

 今回も朝美一人だけ別荘へ来ていたのだという。もちろん、彼女は独身で、エアロビクスのインストラクターの仕事をしているという。

 ずぶ濡れの和幸と朝美を川岸で迎えたのは、彼女の祖父母と彼女の弟だった。その時点では彼女の両親は別荘に来ていなかったのだ。

 あの時、和幸は引き止める朝美の家族を振り切って山を下りた。もちろん、名前も所も言わなかったと記憶している。

 もし、あの折、名乗っていたら、それなりに接待を受けていたなら、十五年ぶりに再会したあとに、あやなされた二人の関係は生まれなかったかもしれない。

 あの密やかな思いのままでいたなら、今、朝美がもらした言葉など言わせずにいられたはずだった。それなのに、たった数ヶ月のあいだに、二人の関係は男と女になってしまっていた。

 和幸は、自分の家庭事情が事情だけに、独身の朝美と徒ならぬ関係を結んでしまった愚かさに当惑こそすれ、若い女性を手に入れたという男の自惚れなど毛筋ほどもなかった。

 朝美の言う

「本当にこれで良いのかしら」

 という言葉は、彼を攻める言葉ではない。彼の決心に呼応した朝美の真の憂いだった。それは、和幸が東京での生活の一切を放棄しても良いと朝美にもらしたからだ。

 十五年も経た今日、二人の娘たちも成長し、長女は高校生に、自分とのあいだに生まれた次女も中学生になっていた。妻とのあいだもかなり以前から冷え切っていて、夜を共にしたのがいったいいつであったか思い出せないほどになっていた。

 妻は妻で、仕事を持っていて、和幸の収入など彼女の足元にも及ばなかった。このまま離婚の意思を伝えても差ほどの抗いもなく受け入れてくれると確信していた。むしろ、和幸から言うのを待っている節も見え隠れしていた。

 男性としては決断力に欠けるところのある和幸だった。夕立ちの中に立って、降る雨粒に見入っているような人間だった。人との争いや、社内での競争などとんでもないことだった。その性格は、たとえ朝美と結ばれても変わるはずもない。ということは、経済的に彼女を満足させてやれることは絶対にあり得ない話だった。

「俺のことより、朝美こそ後悔しないかなぁ」

 どうしても生活力の点に頭が向いてしまう。人と交わらずに、寺の境内でも掃除をしていられればと思ってしまう。そんな自分と生活をともにすることは、悪く言えば、自殺行為ではないだろうかと、明るく屈託のない朝美の笑顔を見るにつけ、つい考えてしまうのだった。

 水中でむしゃぶりついてきた時は十二才という少女だった。今、腕を組んで歩いている朝美は、男なら誰でもがつい、視線を奪われてしまいそうな胸をしていた。それは、ただ大きいだけでなく、均整の取れた美を感じさせていた。

 初めて和幸が彼女の胸に手を這わせた時、朝美は驚いたように身を固くして身をのけぞらせた。

「ごめん」

 と、和幸が謝ると、

「違うのよ。わたし、電車の中で男の人に何回か胸を触られて鳥肌が立ったの。道を歩いていても、前からくる男の人の視線がわたしの体に巻きついてくるようで、とてもたまらなかったわ。それなのに、和幸さんに触られたとたん、胸の奥から体の深い部分に電気が走ったの。今まで感じたことのない喜びみたいな感じだったものだから…。いやぁん! 恥ずかしい!」

 朝美はそう言うと、耳まで朱に染めて和幸の胸に顔を埋めてきたのだった。

 それから数ヶ月後、いつの間にか男と女の味わう喜悦を楽しむまでになっていた。和幸が海を渡ってきたり、朝美のほうから八丈島へやってくることもあった。

 だが、和幸の心の内壁には苦悩と喜びとが綯い交ぜになっていた。今も、朝美に腕を取られながら、ふと川面に反映している秋の斜光の中に垣間見た光の織り成す濃淡に暗鬱な翳りを感じ取ったのも年齢という垣根に愁傷狼狽したからだった。

 年の違うカップルは幾らでもあろう。しかし、自分の場合は、世間のそれとは違う。朝美の命を救ったという理由が介在しているだけに、朝美の両親の心は複雑を極めているに相違ない。それを思うと、自分が悪いことをしているように思えてならなかったのだ。

 東京にいる妻や娘に対する負い目をまるきり感じないわけではないが、妻や娘の日頃の態度を思うと、何か吹っ切れる。ただ、朝美や彼女の家族の者たちに顔向けができないのだ。まるで、恩着せがましい行為に思えて仕方なかった。

「ねえ和幸さん、わたし、あなたが心配するほどやわじゃないわよ。だから、もう年の差がどうのということや、わたしの両親のことなど慮ることないのよ。それより、わたし、こんなにプクプクしているでしょ。和幸さん、あなた、こんな体いやじゃないの?」

 朝美は、ややもすれば和幸を圧倒してしまう巨躯をぶつけて、不安そうに目を覗き込んだ。

―― 決して十二才の体つきではなかったが。あの時のまま成長したのだろう。 ――

 和幸は、その豊満な彼女の全てを左胸でしっかり受けとめながら、

「人は体形で考えてはいけないよ。『山椒は小粒でもぴりりと辛い』という言葉とは裏返しになるけれど、『寄らば大樹の陰』という諺もあるくらいだからね」

 和幸は、ハワイの海で一緒に泳いでくれたイルカを思い出していた。太っていると本人は気にしているが、脂肪太りではない。運動で鍛えられた肉体にはギリシャ彫刻を思い出させる美が備わっていると思っていた。でも、そう言ってみて、ちょっと意味が違ったかなと思わないでもなかった。

「えっ! それって、わたしは和幸さんの保護者ってこと? いやぁん。わたし和幸さんに甘えていたいもん…」

―― やっぱり自分の言った言葉はおかしかったか。 ――

 和幸は、思わず右手を頭に持っていって、ぼりぼりと掻いた。

 朝美は、小鼻にちょっと小皺を作って、それでも嬉しそうに和幸の頬に自分の火照る頬を押しつけてきた。

―― さっき、土手道は視線の及ぶ限り、どこまでも続いているわけではない。 ――

 と思っていたはず。

『それなのに道は永遠に続いていると錯覚していたことも事実だった』

 その目に見えない道こそ、これから朝美と共に歩んでいくべき不透明な愉楽の道であり、不安な道でもあるのだ。

 和幸は、周囲に視線を走らせてから、渓流から掬い上げた時と同じように、真剣な思いを込めてそっと朝美の顎に手を掛けて引き寄せた。


 ――了――





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