戦国大名芦名氏
 戦国大名芦名氏は黒川城(福島県会津若松市)を居城とし、会津四郡(耶麻郡・河沼郡・大沼郡・会津郡)・安積郡西部・岩瀬郡長沼地方を支配していた。芦名氏の所領高は、江戸時代の会津藩(松平氏)の石高が二十三万石であったことから推定すると、二十五〜三十万石の間と考えられる。家紋は三浦三つ引きを使用している。

 芦名氏は鎌倉幕府の有力御家人桓武平氏三浦氏の庶流佐原氏の分流とされる。相模国の三浦半島西海岸にあった芦名村(神奈川県横須賀市芦名)が芦名氏発祥の地である。江戸時代の史書や系図では、文治五年(1189)佐原十郎義連が源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功により陸奥国会津地方に所領を与えられたとするが、その確証はない。

 宝治元年(1247)六月の宝治合戦によって三浦一族の多くが滅亡するわけであるが、佐原義連の子盛連の子息らは北条時頼と縁戚関係(三浦義村の娘矢部禅尼は北条泰時に嫁ぎ時氏を生んだが、のち離縁され佐原盛連の後妻となっていた。因みに時氏の子が時頼である)にあったため北条方に味方し、その結果盛連の四男光盛が芦名氏を称し、盛連の五男盛時は三浦介を継承し三浦氏惣領家となったという。佐原盛連には六人の子がいたが、下の三人が矢部禅尼の子とされている。長男経連が猪苗代城(耶麻郡猪苗代町)を拠点とする猪苗代氏、次男広盛が北田城(河沼郡湯川村北田)を拠点とする北田氏、三男が藤倉館(会津若松市藤倉)を拠点とする藤倉氏、六男が新宮城(喜多方市慶徳町新宮)を拠点とする新宮氏となったという。

 鎌倉時代末の会津地方は北条氏の所領であることが知られているが、芦名氏は北条得宗家の被官として、この所領の管理を行うことで会津地方に関わりを持つ端緒としたのではないかと推測されているが、これも確証があることではない。

 芦名光盛の曾孫盛員とその子高盛は、建武二年(1335)八月、中先代の乱で足利尊氏と鎌倉で戦い討ち死にし、芦名氏の家督は盛員の弟直盛が継承したとされる。

 また系図などによれば、芦名氏が会津に本格的に移住するのは、康暦元年(1379)芦名若狭守直盛が会津に下向し、至徳元年(1384)小高木(東黒川)館(黒川城の前身)を居城としたことに始まるとされている。

 しかしながら、系図上の芦名氏歴代の名前で、根本史料などから実在が確かめられるのは、応永・永享期(1394〜1441)に活躍した芦名修理大夫盛政からである。

 盛政は会津守護と称し、会津盆地一円にわたって検断権を行使し、北田・新宮・猪苗代氏などを攻め破り芦名氏の覇権を確立した。それ以降芦名氏は代々会津守護を称したといわれる。

 この会津守護という職は正式には存在しないが、天文七年(1538)後奈良天皇宸筆の「般若心経」が国別に下賜された際、会津の芦名遠江守盛舜にも届いたことは、朝廷からも国の守護に準ずると認識されていたのであろう。

 『塔寺八幡長帳』は、応永二十七年(1420)新宮城が落城し、永享五年(1433)越後国に逃れた新宮氏が滅亡したと記す。

 長禄四年(1460)十月に出された将軍足利義政の御内書では、芦名下総守とともに猪苗代刑部大輔の名前があり、猪苗代氏が芦名氏から独立した有力な国人領主と認識されている点が興味深い。

 文明十一年(1479)芦名盛高は渋川義基の高田城(大沼郡会津美里町)を攻め落とす。

 明応二年(1494)四月、伊達成宗とその嫡男尚宗が対立し、尚宗は会津猪苗代に逃れ芦名盛高を頼った。

 文亀元年(1501)芦名盛高・盛滋父子が猪苗代盛頼父子を討伐する。

 文明十六年(1484)八月〜九月にかけて芦名盛高は岩瀬郡に侵攻して二階堂氏と長沼周辺で戦っている。また文亀三年(1503)七月、芦名盛高は安達郡本宮・二本松に出陣しょうとしていることが、越後蒲原郡の国人領主中条藤資に背後から盛高を攻めるように要請している伊達尚宗の書状から知ることができる。このように外征を繰り返していることから、この頃までには芦名氏は奥会津を除く会津地方をほぼ統一したものと考えられる。

 しかし永正二年(1505)になると、有力な家臣の富田・佐瀬両氏が同じく家臣の松本氏と対立し、芦名盛高・盛滋父子がそれぞれの側を支援して争ったことから、再び家中を二分する内訌となった。十月十四日芦名盛高に敗れた盛滋は伊達氏をたより出羽国長井(山形県置賜郡)に逃れた。しかし翌年十一月芦名盛高・盛滋父子の間で和議が成立し盛滋は会津に帰国した。

 永正十四年(1517)十二月八日、芦名盛高が亡くなった。

 永正十七〜十八年(1520〜1521)にかけて伊達稙宗が最上領を攻めた際、芦名盛滋は稙宗を支援しているので、この頃までには伊達・芦名両氏の講和がなったものとみられる。伊達稙宗の正室は芦名盛高の娘といわれているので婚姻によって関係が修復されたのであろうか。

 大永元年(1521)二月七日、四十歳で芦名盛滋が亡くなり、弟の盛舜が家督を継いだ。同年四月芦名盛舜は家臣の松本氏を誅殺し、六月反乱した猪苗代氏を撃退している。

 大永八年(1528)芦名盛舜は伊達稙宗に援軍を送り葛西氏を攻めている。

 天文十一年(1542)六月、天文の乱が起こると伊達稙宗の娘婿であった芦名盛氏は稙宗方として戦う。

 天文十二年(1543)七月、芦名盛氏は奥会津伊北郷を支配する山内氏の本拠地中丸城(大沼郡金山町横田)を攻めるが大敗している。

 天文二十年(1551)七月、安積郡をめぐって対立していた芦名盛氏と田村隆顕が、畠山尚国・白河晴綱の調停によって講和した。その講和条件から芦名方が優勢であったことが伺い知れ、安積伊東氏の名跡を芦名氏からの入嗣によって継承し安積郡を支配下に置いた。

 天文二十二年(1553)八月二十一日、芦名盛舜が亡くなった。

 『異本塔寺長帳』は、永禄二年(1559)芦名盛氏が畠山氏を旗下としたと記し、『奥羽永慶軍記』は永禄七年(1564)芦名盛氏が二本松城(二本松市)主畠山国治を攻め殺したとする。

 永禄元年(1558)伊北郷の山内俊政・俊範が、芦名領の滝谷・岩谷両城を攻めるが敗北し、これ以降山内氏は芦名氏に従属した。これと前後して伊南郷の河原田氏も芦名氏に従属したと思われる。

 永禄四年(1561)には奥会津田島(南会津郡田島町)の長沼氏を従属させ会津地方を完全に統一した。

 『異本塔寺長帳』元亀元年(1570)の条によれば、芦名盛氏が二本松で戦い旗下の沼沢左近・山内政勝が討ち死にしたとある。この頃信夫郡の八丁目城(福島市松川町)主堀越能登守宗範を支援する畠山氏と伊達氏が激しく対立していることから、これは旗下である畠山氏を支援する芦名盛氏の軍事行動であったと考えられる。

 弘治元年(1555)芦名盛氏は娘を白河義親に嫁して白河氏と同盟を結んだ。
 
 永禄七年(1564)芦名盛氏は武田信玄と連携して越後国菅名荘に侵攻した。

 永禄八年(1565)芦名盛氏・盛興父子は岩瀬郡の横田・松山両城(須賀川市長沼大字横田)を攻め落とし横田城主を捕らえる。翌年正月、二階堂盛義と和議を結び盛義の嫡男(のちの盛隆)を人質にとって二階堂氏を旗下とした。

 永禄十年(1567)芦名盛氏は黒川城を嫡男盛興に譲り、大沼郡向羽黒の岩崎城(大沼郡会津美里町)に隠居した。

 元亀二年(1571)芦名盛興は後北条氏と同盟し北進する佐竹氏の挟撃を企て、佐竹勢二千が籠もる羽黒山城(東白川郡塙町)を攻撃し五百人を討ち取った。
 
 天正二年(1574)三月、芦名盛興は岩瀬郡越久(須賀川市大字越久)で田村清顕と戦う。同年五月、安積郡福原・富田(郡山市)で再び田村清顕と戦い八百人が討ち死にする大敗をした。同年六月五日、芦名盛興が二十六歳で亡くなった。
 芦名盛興が亡くなると、芦名盛氏は盛興の後室を自分の養女として、人質として会津にあった二階堂盛隆をその婿として芦名家を継がせ、盛氏は岩崎城から黒川城に戻り盛隆を後見した。

 天正八年(1580)六月十七日、芦名盛氏が六十歳で亡くなった。

 天正十二年(1584)六月十三日、芦名盛隆が東光寺に参詣に出かけた隙に、家臣の松本太郎行輔と栗村下総守盛種が謀反を起こし黒川城を占拠した。盛隆は直ちに松本・栗村を討ち黒川城を奪回した。

 天正十二年(1584)十月六日朝、芦名盛隆は家臣の大場三左衛門によって殺害された。

 天正十三年(1585)十一月、人取り橋の合戦に芦名氏も参陣。

 天正十四年(1586)十一月二日、芦名盛隆の遺児亀若丸が三歳で亡くなった。

 天正十五年(1587)三月三日、白河義広(佐竹義重の次男)が白河から会津に移り、芦名盛隆の娘(実は盛興の娘)と結婚し芦名家を継いだ。

 天正十六年(1588)四月、芦名義広は人取り橋付近で伊達勢と戦う。同年六月、郡山合戦に芦名義広も参陣。

 天正十七年(1589)六月五日、摺上原の合戦で伊達政宗に大敗した芦名義広は、黒川城を落ち白河を経て実家の佐竹家に帰った。ここに会津の戦国大名芦名氏は滅亡した。

 天正十八年(1590)芦名義広は豊臣秀吉から土岐氏の旧領常陸国江戸崎(茨城県稲敷市江戸崎)四万五千石(芦名家譜には四万八千石とある)を与えられ大名家として復活した。この時、名前を盛重と改めた。しかし豊臣政権における芦名氏の立場は、佐竹氏領の一部を分領された佐竹氏の与力家臣であって、江戸崎領も本家である佐竹氏の領国と見なされていた。その点では江戸時代の内分分家大名と同じとも考えられる。

 慶長七年(1602)佐竹氏の与力家臣であった芦名盛重は、関ヶ原の戦いでは兄佐竹義宣と行動を共にしたので除封され、義宣と共に出羽国(秋田県)に移り、翌年(1603)角館城(秋田県仙北市角館町)代として一万五千石(芦名家譜には一万六千石とある)を領し、名前を義勝と改めた。

 元和二年(1616)七月、芦名義勝の嫡男盛泰が二十二歳で亡くなった。

 寛永八年(1631)六月、芦名義勝が五十六歳で亡くなった。

 慶安四年(1651)六月、芦名盛俊(義勝の側室の子)が二十一歳で亡くなった。

 承応二年(1653)六月、芦名盛俊の遺児千鶴丸が四歳で早世し角館城代芦名氏は断絶した。

 芦名氏一門の針生盛信は、天正十八年(1590)常陸国竜ヶ崎(茨城県龍ヶ崎市)で一万八千石を領していたが、慶長七年(1602)芦名氏が改易されると、伊達政宗に客分として仕え準一家に列し扶持方百口を賜る。

 元和元年(1615)五月、胆沢郡下衣川村張山(岩手県奥州市衣川区)で六百石を賜り、翌年盛信の嫡男盛直の子重信と盛信の次男実信に三百石ずつ分領された。

 延宝四年(1678)伊達綱村の命により、針生姓を改め芦名姓を称した。

 その嫡孫は亨保二年(1717)十月、盛連の代に加美郡中新田村(宮城県加美郡加美町)で家禄千五百石に加増され、盛寿の代に栗原郡石越村(宮城県登米市石越町)に移った。