大乗院
 二階堂盛義の継室で阿南方(おなみの方)と呼ばれていた。夫である二階堂盛義が亡くなってから大乗院と称した。

伊達晴宗の長女で輝宗の姉である。伊達政宗からすると叔母にあたる。大乗院には二男一女の三人の子供があった。

 長男は永禄九年(1566)七歳のとき人質として芦名家に遣わされ、のち芦名家の養子となった盛隆である。

 二男は行親といい二階堂盛義亡きあと二階堂家の当主となるが、天正十年(1582)春十三歳で早世している。長女は戦国大名岩城常隆に嫁している。

 天正十七年(1589)十月二十六日、大乗院は最後まで徹底抗戦を主張して須賀川城に籠城した。

 須賀川城落城時に自害しようとしたが家臣に止められ、実家である伊達家の庇護のもと城を出た。

 その後は、二階堂旧臣である新田(仁井田)の遠藤対馬守の館に十日間滞在し、次いで福島の杉ノ目城に移された。

 伊達家を嫌った大乗院はその後甥で娘婿の岩城常隆のもとで暮らしたが、天正十八年(1590)七月岩城常隆が小田原参陣中に急死してから、やはり甥である佐竹義宣のもとに身を寄せた。

 慶長七年(1602)佐竹氏が出羽に移封されたのに伴って久保田に向かったが、途中病気となり須賀川に留まった。

 須賀川の二階堂旧臣は大乗院を長禄寺に住居を建てて住まわせ手厚く看病したとのことである。しかし看病の甲斐もなく同年六月十四日、四十二歳で波乱の生涯を閉じたという。

 亡くなった長禄寺に大乗院の墓があり、法名は大乗院殿法岸秀蓮大姉である。 

 しかし大乗院の亡くなった時期は、佐竹氏が秋田に移封になり家臣達が移動した時期と微妙に合わない気もするので、そこら辺の経緯もさらに検討されるべきであろう.。

 それと亡くなった年齢が「須賀川市史」などには四十二歳とあるが、慶長七年(1602)に亡くなり四十二歳というのであれば永禄四年(1561)の生まれとなり、長男である芦名盛隆が天正十二年(1584)に亡くなっていて二十四歳であったと言われているので、同じく永禄四年(1561)の生まれとなってしまいまったくあり得ない話である。

 また、弟である伊達輝宗が天正十三年(1585)に亡くなり四十二歳であったことから考えると天文十年(1541)頃の生まれで五十歳後半から六十歳前半で亡くなったと推定するのが正しいのではないか。

 ただ何故、須賀川では四十二歳で亡くなったとしているのか疑問である。墓所である長禄寺の記録に誤りがあるのであろうか。

 岩城常隆に嫁した長女は常隆が亡くなったあと、一子政隆(幼名長次郎、のち隆道)を生んでいる。

 十八歳になった政隆は、慶長十二年(1607)伊達政宗に仕え千石を給され、同十五年には一門に列し伊達姓を許されている。

 政隆の母二階堂氏(岩城御前)は、伊達政宗の命により伊達安房守成実に再嫁して女子を一人生んだが六十日で亡くなり、その後子供はできなかったようである。
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