戦国大名伊達氏
 戦国大名伊達氏は、米沢城(山形県米沢市)を居城として伊達郡・信夫郡・出羽国米沢地方(長井荘・屋代荘)・刈田郡・名取郡・柴田郡・(伊具郡)・(宇多郡の一部)などを支配していた。

 さらに桃生郡深谷保・志田郡松山庄・宮城郡高城保・黒川郡大松沢に進出し、亘理郡の亘理氏、宮城郡の留守・国分両氏、黒川郡の黒川氏、桃生郡の長江氏を旗下とし、大崎・葛西領にもその勢力を拡大した。

 旗下の大名領を除いた伊達氏が直接支配した所領高は、伊達・信夫両郡と出羽国米沢地方で三十万石、刈田・名取・柴田・伊具の四郡で十一万石、その他の地を合わせて四十数万石ではなかったかと推定される。

 伊具郡と宇多郡の一部は「天文の乱」の結果、伊達氏と相馬氏との係争の地となったのでカッコ書きとして、一応伊具郡だけ所領高に合算している。
 戦国末期に、伊達政宗は安達郡・安積郡・岩瀬郡・会津地方四郡・宇多郡の一部を支配下に置いたが、支配した期間が数ヶ月〜五年と短いため、それ以前の本領とは区別して今回は合算しなかった。また田村郡の田村氏・白河郡の白河氏・石川郡石川氏を旗下としたが、これも所領高には加えていない。

 家紋は仙台笹(竹に雀)を使用している。

 伊達氏は藤原姓で、藤原鎌足より八代目の後裔三位中納言藤原山陰が先祖で、さらに山陰から六代目の後裔実宗が常陸国真壁郡伊佐荘中村(茨城県筑西市中村)に居住し伊佐氏あるいは中村氏を称したという。この子孫朝宗が文治五年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征伐に四人の子供を従軍させ、その功により陸奥国伊達郡(福島県伊達郡)に恩賞の地を与えられ、これ以降伊達氏を称したという。

 朝宗の長男常陸冠者為宗は常陸の本領を相続し、二男宗村(為重か)が伊達郡の所領を相続したという。初期の伊達氏の系譜については諸説があるが、永正十一年(1514)頃に作成されたとされる『余目氏旧記』にも「伊達氏は、関東伊佐より文治五年に被下候」と記されていて、江戸幕府に提出した『伊達家譜』の記述内容がある程度正確であることを示している。

 康暦二年(1380)伊達宗遠は出羽国長井荘の長井氏を滅亡させ長井荘を支配下に置き、翌年亘理郡の亘理行胤を攻め伊具荘をも支配下に置いた。

 応永二十年(1413)四月十八日、二階堂信濃守・二階堂信夫常陸介から伊達松犬丸(後の持宗)と懸田播磨守定勝入道玄昌が信夫郡の大仏城(福島県福島市)に立て籠もって反旗を翻したという報告が鎌倉府にもたらされた。鎌倉公方足利持氏は畠山修理大夫(国詮か)を大将に討伐軍を派遣したが、容易に城は落ちず、同年十二月二十一日になって兵糧が尽きてようやく陥落した。

 長享二年(1488)大崎義兼は内訌をさけて伊達成宗のもとに亡命したが、成宗は三千騎を派遣して義兼を大崎氏当主に復帰させたという。伊達氏は十五世紀には名取郡を支配下に置いたとみられるが、何らかの関連性があるのかもしれない

 永正十七年(1520)六月、伊達稙宗は最上氏と戦っている。

 大永二年(1522)冬、伊達稙宗は陸奥守護職に補任された。

 享禄元年(1528)九月、伊達稙宗は芦名氏の援軍とともに葛西領を攻めている。

 天文元年(1532)伊達稙宗は居城を梁川城(福島県伊達市梁川町)から西山城(福島県伊達郡桑折町)に移した。

 天文三年(1534)伊達稙宗・晴宗父子は芦名氏・二階堂氏・石川氏と連合して、白河・岩城両氏と戦っている。

 天文五年(1536)四月、伊達稙宗は「伊達氏御成敗式目塵芥集」を制定した。

 天文五〜六年(1536〜1537)伊達稙宗は三千騎を率い大崎義直の要請で大崎領に出兵している。

 天文七年(1538)頃、伊達稙宗は石川稙宗に田村・岩城両氏と二階堂・安積伊東両氏の抗争を調停するよう申し送っている。

 天文十年(1541)伊達稙宗は二階堂照行の白河攻めに対して僧を使わし軍を返すように要請し、五月には田村氏と安積伊東氏との抗争を調停し、十月頃には芦名氏と猪苗代氏の抗争を調停するなど陸奥守護職として働いている。

 天文十一年(1542)六月、伊達晴宗が父稙宗を西山城に幽閉した。「天文の乱」の始まりである。稙宗の側近小梁川宗朝が稙宗を西山城から救い出し、稙宗の娘婿懸田俊宗・相馬顕胤・田村隆顕・二階堂照行・芦名盛氏が懸田城(福島県伊達市霊山町掛田)に集結し西山城を攻撃する構えを示した。稙宗方に相馬・田村・二階堂・芦名・懸田・畠山・石橋・亘理・国分氏ら、晴宗方に岩城・本宮・留守・白石氏らが味方し、九月に至って二本松付近で両党が武力衝突し、近隣の諸氏を巻き込んだ「天文の乱」という大乱に発展した。

 天文十七年(1548)九月、伊達稙宗・晴宗父子は和睦した。稙宗は伊具郡丸森城(宮城県伊具郡丸森町)に隠居し近辺五ヶ村を領した。また稙宗党の有力な拠点懸田城は破却された。一方晴宗は伊達家の家督を継ぎ居城を西山城から米沢城に移した。

 天文二十一年(1552)秋、「天文の乱」により居城を破却され領地を削られた懸田城主懸田俊宗・義宗父子が晴宗に反抗した。翌年七月十日晴宗は懸田俊宗・義宗父子を斬り懸田氏を滅亡させた。

 永禄八年(1565)伊達晴宗は杉目城(福島県福島市)に隠居し、伊達輝宗が家督を継いだ。

 永禄九年(1566)相馬盛胤によって伊具郡の金山城・小斎城(宮城県伊具郡丸森町)が落とされる。

 永禄十年(1567)八月三日、梵天丸(後の伊達政宗)が誕生した。

 永禄十一年(1568)伊達輝宗は伊達郡小島まで侵攻してきた相馬盛胤と戦っている。

 元亀元年(1570)四月、伊達輝宗は中野宗時と牧野久仲の謀反を鎮定した。同年相馬盛胤によって伊具郡の丸森城が落とされる。

 天正十年(1582)伊達輝宗は伊具郡に侵攻し小斎城を攻略し、さらに同年四月金津城(宮城県角田市金津)を奪った。

 天正十一年(1583)五月、伊達輝宗は丸森城を落とした。

 天正十二年(1584)伊達輝宗は金山城を奪還し、相馬氏に奪われた伊具郡の失地を全て回復した。

 同年五月、逆襲を断念した相馬義胤は伊達輝宗と和議を結び、ここに伊具郡は伊達領と確定された。

 同年十月、伊達輝宗は隠居し、家督は伊達政宗が継いだ。

 天正十三年(1585)五月、伊達政宗は檜原峠を越え芦名領を攻めたが敗退した。

 同年八月、大内氏の安達郡塩松地方を攻める。九月二十五日大内定綱は居城小浜城(福島県二本松市小浜)を出て会津に逃れ、大内氏が滅亡した。

 同年十月八日、伊達政宗の父輝宗が、二本松城主畠山義継によって拉致され殺害される。

 同年十一月十七日、畠山氏を救援するため北上してきた佐竹・芦名・岩城・相馬・二階堂・白河・石川氏の連合軍三万の軍勢と人取り橋(福島県本宮市・郡山市)付近で戦い、大きな犠牲を払いながらも、かろうじて退けることが出来た。

 天正十四年(1586)四月〜七月、伊達政宗は二本松城を包囲した。

 同年七月十六日、二本松城が開城し、ここに畠山氏は滅亡した。

 天正十六年(1588)一〜二月、伊達政宗は留守政景と泉田重光を大将に五千の軍勢を大崎領の中新田城(宮城県加美郡加美町)攻めに向かわせたが、黒川晴氏の離反もあり大敗した。

 同年四月十八日、人取り橋付近で芦名・二階堂両氏の連合軍と戦う。

 同年六〜七月、郡山城(福島県郡山市)をめぐる戦いで、佐竹・芦名・岩城・二階堂・白河・石川氏の連合軍と対峙する。
 天正十七年(1589)四月、芦名領の安子島城(福島県郡山市熱海町安子島)を降し、高玉城(福島県郡山市熱海町高玉)を落城させた。
 同年五月、相馬領に侵攻し駒ヶ嶺城(福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺)・蓑頸城(福島県相馬郡新地町谷地小屋)を落城させた。

 同年六月五日、伊達政宗は二万三千の軍勢を率い、一万六千の芦名義広の軍勢と摺上原(福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯町)で戦い大勝利し、同月十一日芦名氏の居城黒川城(福島県会津若松市)に入った。ここに芦名氏は滅亡した。
 奥会津の横田中丸城主山内氏と久川城主河原田氏はなおも抵抗を続けていたが、伊達政宗はほぼ会津四郡を手中にした。

 同年七月頃、白河郡の白河氏が伊達氏の旗下となった。

 同年十月二十六日、岩瀬郡の二階堂氏の居城須賀川城(福島県須賀川市)を攻め落城させる。ここに二階堂氏は滅亡した。

 同年十一月頃、石川郡の石川氏が伊達氏の旗下となった。

 天正十八年(1590)八月、豊臣秀吉の奥羽仕置によって、伊達氏の所領は安達・伊達・信夫・刈田・名取・柴田・亘理・伊具・宮城・黒川・桃生の十一郡・出羽国米沢地方と宇多郡の九村に限定された。これとは別に秀吉の蔵入地(直轄領)となった田村郡のうち五万石は、伊達政宗の家臣片倉小十郎景綱に与えられたが、景綱が固辞したため伊達領に編入されたという。
 それでも奥羽仕置で独立した領主権を否定された亘理氏・留守氏・国分氏・黒川氏・長江氏の所領を併合したため、全部合わせると六十三万五千石余の所領高となっている。

 同年十月になると、大崎氏と葛西氏の旧臣が蜂起し大崎・葛西一揆が勃発した。

 天正十九年(1591)一〜二月、伊達政宗は大崎・葛西一揆扇動の件で釈明のため上洛した。
  
 同年七月三日、大崎・葛西一揆を鎮圧。

 同年八〜九月頃、伊達政宗は大崎・葛西一揆に内通した結果、豊臣秀吉から伊具・亘理・名取・柴田・宮城・黒川・桃生の七郡を除く旧領を召し上げられ、新たに大崎氏の旧領(志田・加美・玉造・栗原・遠田の五郡)と葛西氏の旧領(牡鹿・登米・本吉・磐井・胆沢・江刺・気仙の七郡)三十六万九千石余を替地として与えられ、五十六万六千石余に減知移封を命じられた。

 同年九月二十三日、伊達政宗は米沢城から岩出沢城(宮城県大崎市岩出山)に移り、名前を岩出山城と改めた。
 
 慶長五年(1600)七月二十二日、徳川家康は伊達政宗に伊達氏の旧領七郡(四十九万五千八百二十二石余)を加増するという証文を与えた。これがいわゆる「百万石のお墨付き」というものである。

 同年七月二十四日、伊達政宗は上杉領に侵攻して甘糟景継が城主である白石城(宮城県白石市)を攻め、翌二十五日開城させている。さらに政宗は本庄繁長が城主である福島城(福島県福島市)に矛先を転じて攻め寄せたが、後方を梁川城主須田長義によって攪乱され、福島城の囲みを解いて撤退した。

 一方、伊達政宗は奥羽仕置で改易された和賀郡の旧領主和賀忠親を扇動して、南部領となっていた和賀郡で一揆を起こさせ、同年九月二十日北信愛が城主である花巻城(岩手県花巻市)を攻めさせたが、和賀勢は攻めきれず岩崎城(岩手県北上市和賀町岩崎)に立て籠もった。両軍は積雪のため対峙したまま越年し、翌六年(1601)三月から南部勢が岩崎城に攻め寄せ、四月二十四日落城させている。また政宗は同じく南部領となっていた稗貫郡でも一揆を扇動している。

 このような伊達政宗の企ては、徳川家康の知るところとなり、関ヶ原の戦いが終わると家康は政宗に和賀忠親を吟味のため上洛させるように命じた。政宗は忠親を自害に追い込み窮地を脱したものの、「百万石のお墨付き」は反故にされ、わずかに刈田郡二万石と近江国内に五千石を加増されただけという結果になった。

 同年四月十四日、伊達政宗は居城を岩出山城から仙台城(宮城県仙台市)に移した。

 慶長十一年(1606)三月三日、常陸・下総両国内に一万石を加増される。

 慶長十九年(1614)十二月二十八日、伊達政宗の庶長子秀宗が伊予国宇和島(愛媛県宇和島市)十万石に封じられる。
 寛永十一年(1634)八月二日近江国内で五千石を加増されるとともに、同月四日将軍徳川家光から六十一万五千石の判物を賜り、仙台藩の表高六十二万石はここに定まった。
 因みに正徳二年(1712)に於ける仙台藩の表高は六十二万石五十六石五斗四升四合となっている。

 寛永十三年(1636)五月二十四日、伊達政宗が死去した。

 伊達政宗を藩祖とする仙台藩六十二万石は奥州の雄藩として明治維新まで存続した。