戦国大名畠山氏は二本松城(二本松市郭内)を居城として安達郡の西半分と安積郡北部を支配していた。

 慶長六年(1601)八月十日の蒲生飛騨守秀行の領地改めによれば、塩の松を除いた安達郡は三万三千九百七石四斗七升と記されているので、三万五千〜四万石ぐらいの所領高であったと考えられる。

 家紋は丸の内に二つ引きを使用している。 

 畠山氏は清和源氏足利義兼の長子義純を祖とする。義純は母が遊女であったため足利家の家督を継げなかったが、元久二年(1205)鎌倉幕府の御家人であった畠山氏が北条義時によって族滅させられたときに、畠山重忠の未亡人(北条時政の娘)を妻に迎え畠山氏の名跡と遺領を継承した。

 それ以前の畠山氏は桓武平氏で秩父重綱の長子重弘を祖とし、武蔵国男衾郡畠山荘(埼玉県深谷市川本畠山)を発祥としている。

 義純のあとは三男の泰国が継いだが、泰国は北条時政の娘を母としているため北条氏の庶流として扱われ有力御家人となった。

 その子国氏以降は系図類の異同が激しく正確なところは分からないが、室町幕府成立後に国氏の孫かあるいは曾孫とみられる高国が伊勢守護となっている。

 貞和元年(1345)に高国の子国氏が奥州管領に補任され奥州多賀城(宮城県多賀城市)に下向して奥州畠山氏の祖となった。

 このとき、国氏と同じく奥州管領として幕府から派遣された人物が吉良貞家である。

 貞家は足利尊氏の弟直義の配下で幕府で引付頭人をつとめていた。一方、国氏は足利尊氏の執事高師直の配下であった。

 二人の奥州管領は多賀城の管領府に着任すると同時に、南朝の拠点霊山城(伊達市霊山町)と宇津峯城(須賀川市)に対する攻撃の準備をととのえ、貞和三年(1347)七月総攻撃を開始した。

 しかし貞和五年(1349)五月頃から、幕府内では足利直義派と高師直派との対立が激しくなり、観応元年(1350)の冬から「観応の擾乱」といわれる日本国中を巻き込んだ両派の激突へと発展した。

 師直が摂津国武庫川 (兵庫県尼崎市)で敗死したのは観応二年(1351)二月二十六日であるが、その一年後には直義も鎌倉で亡くなり、その後両派の抗争は直義の養子直冬(尊氏の長子)と尊氏・義詮父子との対立として継承され泥沼の様相を呈した。

 この抗争は奥州にも波及し吉良・畠山両氏の対立となって表面化した。観応二年一月九日、岩切城(宮城県仙台市)に籠城した畠山高国・国氏父子は吉良貞家に攻められ、二月十二日高国・国氏父子は多くの一族・家臣と共に自害して果て、わずかに国氏の遺児王石丸(大石丸、平石丸、のち国詮)が家臣に匿われて落ち延びた。

 王石丸が落ち延びた先は『松府来歴金華鈔』では安達太良山の深山と『積達館基考』では会津耶麻郡の婆堂としている。

 文和三年(1354)五月二十二日、畠山王石丸は小峰参川守朝常に書状を送り、奥州管領としての畠山氏の再興を表明している。

 永正十一年(1514)成立の『奥州余目旧記』は、畠山・吉良両氏のその後の抗争について「駒ヶ崎を根拠とする吉良方に対して畠山方は長岡郡沢田要害(宮城県大崎市古川)まで進出したが、斯波氏が吉良方として参戦し、長世保三十番神(宮城県大崎市松山)まで退き、さらに畠山方は竹城保長田(宮城県松島町)に移り、ここで吉良方を迎撃したが敗れ、海路二本松城に逃れ、そのまま二本松殿となった。」と記す。

 また貞治六年(1367)白河顕朝は将軍足利義詮の命によって吉良貞家の子治家の軍勢を討ったというが、畠山・吉良両氏の抗争にも関係するのかもしれない。

 その後国詮は二本松城(二本松市塩沢にあった田地ヶ岡館と考えられている)に拠り奥州管領としての自負をもって活動しながらも、加美・黒崎両郡(以下宮城県)などは大崎氏に奪われたままであったものと考えられる。

 至徳元年(1384)国詮が石川庄八幡宮に神領として河辺・急当・沢尻および河沼郡佐野などの村々を安堵している判物があるが、このことは国詮が南奥州の社寺に対する所領恩給権を保持し、管領として職権を行使していることが分かる。

 また、明徳二年(1391)六月、将軍足利義満は御教書を発し大崎詮持が畠山国詮の分郡である加美郡と恩賞の地である黒川郡を押領していることを止めさせ、速やかに国詮の代官に引き渡すように処置せよと伊達政宗と葛西陸奥守(満良か)に命じている。

 応永二十年(1413)伊達政宗が鎌倉公方足利持氏に叛き、大仏城(福島市杉妻町、のちの福島城)に脇屋義治(新田義貞の弟脇屋義助の子)を擁して挙兵した。

 持氏は畠山国詮に八千の兵を授け大仏城を攻撃させたが、城は容易に落ちず半年を越える兵糧攻めのすえ、同年十二月にようやく落城させることが出来た。

 国詮は鎌倉に凱旋したが、このため持氏の不興を被り出仕を停止させられたという。

 国詮から義氏に至る間の系譜については、系図類の異同が激しく正確なところは分からないが、安永三年(1774)に成立した『松府来歴金華鈔』によれば、国詮の男子のうち、長子満国は川崎村大将内の館を預かり川崎殿と号し、二男満詮は本宮村(本宮市)に城を築き本宮殿(鹿子田とも称した)と号し、三男満泰は嫡腹であり、かつ武勇に優れていたので本宗を相続し、四男氏泰は捫山村(安達郡大玉村)に新城を構えたので新城殿と号したという。
 また、居城についても国詮の子満泰が、それまでの田地ヶ岡は要害の地ではなかったので南の白旗ヶ峯に新地を求め、応永二十一年(1414)に新たに築城し、これを二本松城と名付けたと記している。

 十五世紀中葉には、幕府から奥州管領に補任されることのなくなった畠山氏は、「奥の畠山殿」と称されなくなり、かわって「奥の二本松殿」と称されるようになる。

 また、『満済准后日記』にも「二本松氏」と記されていて、二本松畠山氏に対する幕府の認識は、幕府管領畠山氏のそれとは異なり、完全に在地化した一国人領主という位置付けであった。

 文亀三年(1503)七月、芦名盛高が本宮城に迫り二本松城を攻める構えを示したので、これに対して伊達尚宗はその背後を越後守護上杉房能に牽制させたことが知られている。

 天文十一年(1542)六月に勃発した「天文の乱」には畠山義氏は伊達稙宗方であったが、遊佐美作守などの家臣は伊達晴宗に荷担し、同年九月十三日義氏は田村隆顕・石橋尚義の支援を受け逆臣を追った。

 天文十五年(1546)六月三日義氏は晴宗方であった本宮城主本宮宗頼を攻め、翌日宗頼は城を放棄して岩城に逃れ岩城重隆を頼ったという。

 天文十七年(1548)一月石橋尚義が晴宗方に転じたため、三月義氏は塩松を攻めた。 

 天文二十年(1551)七月畠山尚国(のち義国)が白河晴綱と共に芦名盛氏と田村隆顕との講和を仲介していることが分かる。

 永禄二年(1559)『異本塔寺長帳』は芦名盛氏が畠山氏を旗下としたと記す。

 また、『奥羽永慶軍記』などは永禄七年(1564)に芦名盛氏が畠山国治を攻め殺すと記す。

 元亀の頃(1570〜1573)畠山義国が信夫郡の八丁目城(福島市松川町)主堀越能登守宗範を内応させ、これに対して伊達輝宗が八丁目城を攻めるという構図があったようで、元亀二年(1571)八月伊達輝宗千騎、八丁目城の堀越方五百騎で対陣し、畠山氏が堀越方に合力するという戦況が報じられている。

 天正二年(1574)信夫郡大森城(福島市大森)主伊達実元が畠山領となっていた八丁目城を奪還したという。

 このため、畠山義継は五十騎の軍役を負担するという条件で田村清顕に伊達輝宗との講和調停を依頼し、七月和議が成立したという。

 天正四年(1576)秋、田村・大内両氏が芦名領であった安積郡片平城(郡山市片平町)を攻め、芦名・二階堂・畠山氏はこれと戦うも敗れ片平城を失い、安積郡南東部の大半は田村領となったという。

 天正十三年(1585)九月二十五日小浜城(二本松市小浜字下館)主大内氏が滅亡すると、直接伊達政宗と対峙することになった畠山義継は十月六日宮森城(二本松市小浜字上館)を訪れ、伊達輝宗に講和について政宗への仲介を依頼した。

 その晩、輝宗は政宗のいる小浜城を訪れ重臣を招集して談合したが、この時政宗は南は杉田川、北は油井川の間の五ヶ村を残し領地を全て召し上げ、また義継の子息を人質として米沢に差し出させるという厳しい条件を示した。

 これに対して、義継は召し上げは杉田川以南か油井川以北のどちらかにしてほしいと懇願したが政宗は同意しなかった。十月七日講和条件を受諾した義継は政宗と会見して、その日は塩松に一泊した。

 翌八日義継は講和を仲介してくれた輝宗に御礼を述べるため宮森城を訪れたが、帰りぎわ義継は見送りに出てきた輝宗を突然拉致し、輝宗を伴った畠山主従は城を出ると二本松領目指して国境へと走った。

 阿武隈河畔の高田原(粟の巣)に至ったとき、急を聞き駆けつけた政宗が追いつき、周囲を取り巻く伊達勢に義継を父輝宗と共に撃てと下知して義継以下畠山勢五十余人(百余人ともいう)が撃ち殺され、輝宗も共に殺害された。

 十月十五日伊達政宗は一万三千の軍勢を率いて二本松城攻撃を開始した。これに対して畠山方は、すでに同月八日本宮・玉井・渋川城の兵を二本松城に結集して、十二歳の畠山義継の遺児国王丸(梅王丸)を譜代の家臣が守り立て、義継の従弟新城弾正少弼盛継が実質的な総大将となって籠城していた。

 伊達政宗は二本松城が天険に拠る堅城のため思うように攻撃できず、また大雪のため作戦続行が困難となり十月二十一日小浜城に軍勢を引き揚げた。

 十一月上旬畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 安積郡内の伊達方の諸城砦を攻略しつつ北上し、十一月十六日前田沢の南の原に野陣を張った。

 翌十七日人取り橋周辺に進撃した連合軍は南下してきた伊達勢と激戦となり、数に勝る連合軍は優勢のうちにその日の戦闘を終えたが、その夜連合軍の軍師役を務めていた佐竹義政が、馬の手入れのことで叱責した家僕に刺殺されるという事件が発生し、さらに安房の里見義頼と水戸の江戸重通が佐竹領に侵攻したとの急報が届けられたため、総大将佐竹義重は急遽帰国を決断し、他の諸将もそれに倣って兵を引き揚げたので、畠山氏を救援するという目的を果たせない結果となった。

 天正十四年(1586)三月十一日、畠山家臣の箕輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波守・遊佐源左衛門・堀江式部が伊達方に内応し人質を差し出してきた。

 その夜、伊達政宗は箕輪館に片倉景綱の軍勢を派遣し城下に火を掛けさせたが、畠山方の反撃に遭い敗れた。

 四月上旬伊達政宗自ら二本松城攻めに出馬し、五日にわたり二本松城を三方から攻撃するも落城させることは出来なかった。

 その後の攻撃をあきらめた伊達政宗は城を囲む兵を残して小浜城に引き揚げた。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。

 同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。

 その後、国王丸は元服して義綱と名乗り、会津の芦名氏が滅亡したのちは芦名義広(のち盛重)に従い常陸国江戸崎(茨城県稲敷市江戸崎)へ移ったが、十六歳のとき盛重の命により沼沢出雲守父子に討たれたという。
 義綱の弟二本松右京義孝(国次)は上杉・蒲生・加藤家に仕え、その後水野忠元の長男忠善(下総山川四万五千石→駿河田中四万五千石→三河吉田四万五千石→三河岡崎五万石と転封)の客分となった。その子孫義元は宝暦十二年(1762)水野家が三河岡崎から肥前唐津六万石へ移封されてから家老職を勤め、その子義廉も城代家老となるが、文化十四年(1817)遠江浜松六万石への移封に異を唱え自害している。

 その後、藩主水野忠邦は天保十年(1839)一万石を加増されているが、天保十四年(1843)「天保の改革」での上地令の失敗が致命傷となって老中職を免ぜられ、さらに弘化二年(1845)九月鳥居耀蔵らの不正の責任を問われて二万石減知のうえ隠居・逼塞を命ぜられ、家督は忠精が継いだが十一月出羽山形五万石に左遷されている。

 また寛文九年(1669)の「岡崎藩水野家分限帳」によれば、二本松右京七百石、二本松将監三百石とみえる。

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戦国大名畠山氏