第一次人取り橋の合戦
天正十三年(1585)十一月上旬、佐竹氏、芦名氏、岩城氏、相馬氏、二階堂氏、白河氏、石川氏の反伊達連合軍総勢三万は、安達郡の二本松城主畠山氏を救援するため一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。安積郡内の伊達方の諸城砦を攻略しながら北上し、十一月十六日には前田沢の南の原に野陣を張った。
途中、二階堂勢は佐竹家臣川井甲斐守久忠(忠脩)と共に勧降に応じない中村図書一族三百の守る中村館を攻落した。
小浜城にいた伊達政宗はこの急報を受け十一月十三日小浜城を出馬し岩角城に入った。また高倉城の加勢として富塚近江守宗綱、桑折治部大輔宗長、伊東肥前守重信に旗本衆と鉄砲三百挺を添えて遣わした。
本宮城には瀬上中務景康、中島伊勢守宗求、浜田伊豆守景隆、桜田右兵衛元親を、玉井城には白石右衛門佐宗実を遣わした。
伊達成実は二本松城の備えとして渋川に在陣していたが、青木備前守、内馬場日向守など三十騎を残し十一月十六日岩角城に参陣した。
伊達成実はその夜糠沢に宿営したのち、翌十七日の早朝には兵千を率いて観音堂の南にある瀬戸川館に入った。
さらに南の荒井・五百川辺りには、高野壱岐守親兼と本宮城から進出した浜田景隆、玉井城から進出した白石宗実が布陣した。
観音堂山には留守上野介政景、原田左馬助宗時、片倉小十郎景綱、鬼庭周防守良直入道左月斎、亘理兵庫頭元宗入道元安斎と二本松の備えとして在陣していた杉田から進出してきた国分彦九郎盛重ら伊達勢の主力四千が布陣した。
伊達政宗自身も兵を率いて十一月十六日の夜には岩角城を出て本宮城に進出し、翌十七日には本陣を観音堂山に移した。
十一月十七日連合軍は三方面から北上を開始し、高倉城方面には佐竹、岩城、二階堂、白河、石川の軍勢が、荒井・五百川方面には芦名、佐竹、相馬の軍勢が、会津街道には佐竹、芦名の軍勢の主力が進撃した。
高倉城方面に進撃した部隊は、高倉城を出て馳せ向かってきた伊東重信を追い散らし二・三十人を討ち取り、城兵を城中に押し込めたのち、さらに北進して瀬戸川館の伊達成実勢と戦いながら、阿武隈川沿いに観音堂山の敵本陣へと向かった。
荒井・五百川方面に進撃した部隊は伊達勢を追い上げながら、人取り橋(瀬戸川に架かる橋で当時一本橋と呼ばれていた)と瀬戸川館へと殺到した。
また、会津街道を北進した佐竹、芦名勢の主力部隊は青田原に布陣した伊達勢の先鋒泉田安芸守重光、七宮伯耆守憲光、柴野弾正丞、青木修理亮らを撃破、荒井・五百川辺りに布陣した伊達勢を追い上げながら、人取り橋を越え観音堂山を目指して戦った。
人取り橋一帯は両軍入り乱れてのすさまじい白兵戦が展開された。伊達勢のうち鬼庭良直は老年のため兜をかぶらず綿帽子をかぶり六十騎を率いて人取り橋付近で戦っていたが壮烈な討ち死にを遂げた。また伊達成実の郎党伊庭野遠江守広昌も殿をつとめて退却中討ち死にした。
劣勢となった伊達政宗は一旦本宮城に退却するが、その後も観音堂山の留守政景、原田宗時、片倉景綱などの軍勢四千と瀬戸川館の伊達成実勢千は良く持ちこたえ、日没を迎えたため連合軍は戦闘を中止して宿営地に軍勢を返した。
窮地を脱した伊達政宗は、その夜のうちに阿武隈川を渡って岩角城へ移動した。
その夜、連合軍の軍師役を務めていた佐竹義政が、馬の手入れのことで叱責した家僕に刺殺されるという事件が発生し、さらに安房の里見義頼と水戸の江戸重通が佐竹領に侵攻したとの急報が届けられたため、総大将佐竹常陸介義重は急遽帰国を決断し、他の諸将もそれに倣って軍勢を引き上げた。
これにより、二本松城主畠山氏を救援するという目的は果たせない結果となり、翌十四年七月十六日畠山氏が滅亡してしまう。
これが俗にいう人取り橋の合戦と言われるものであるが、高倉合戦、安積合戦と言われることもある。