第二次人取り橋の合戦
 天正十六年(1588)四月十八日、かつて安達郡の小浜城主であった大内備前守定綱と安積郡の片平城主片平大和守親綱兄弟が伊達方に寝返ったのを知った芦名平四郎義広は、会津・岩瀬勢からなる軍を催して安積郡に進撃した。

 高倉城主高倉近江守義行から急報を受けた二本松城主伊達藤五郎成実と大森城主片倉小十郎景綱は、玉井城と本宮城の城兵を糾合して観音堂山に陣を布いた。
 高倉城には伊達成実勢から馬上侍二十騎を鉄砲五十挺と共に加勢として遣わした。

 会津・岩瀬勢の先陣は畠山旧臣鹿子田右衛門佐継胤がただ一騎で足軽五十ばかりを従えて来たが、高倉城からは石川弥兵衛尉実光が出てこれを追い返さんとする。
 鹿子田継胤は鹿子田和泉守の嫡男で武勇に優れた剛の者であったので、石川実光とその加勢として馳せ向かった伊達成実の郎党羽田右馬助実景の軍勢を追い崩す働きをした。

 その後に、渋川介左衛門尉、須田小十郎、新屋敷平左衛門尉、沢井越中守、三橋大蔵丞、浜尾内蔵助、浜尾十郎、佐久間主殿介、大槻与一郎、須田左近大夫、日照田大学、吉成監物、前田川信濃守、円谷与三左衛門、小原田内膳、小川和泉守、鈴木帯刀、江持近江守、山寺淡路守、荒木田清右衛門、横沢内膳、熊沢四郎右衛門、宮崎内記、根本左馬丞、志賀杢介、佐藤主水、下枝掃部らの会津・岩瀬勢続々と人取り橋を越え観音堂へ押し寄せるが、伊達勢これを押し返さんと防戦し、両軍入り乱れての激戦となる。

 この戦いで岩瀬勢のうち保土原左近将監行藤入道江南斎の十八歳になる嫡男保土原山城守重行が討ち死にした。このとき浜尾十郎が山城守の首を敵から奪い取って名誉の働きをしたという。

 終日戦ったが決着がつかず、会津・岩瀬勢は片平親綱から人質を取って軍を退いた。はっきりとした合戦名はないが第二次人取り橋の合戦と呼ぶのが一番相応しいのではないか。

 軍記物によっては俗に言う人取り橋の合戦と混同されて語られている。
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