戦国大名石川氏
 戦国大名石川氏は三芦(みよし)城(福島県石川郡石川町)を居城として、石川郡の大部分を支配していた。

 家紋は松の苗木を咥えた舞鶴(家紋帖のものとは異なり飛び鶴に分類されるか)を使用したと伝わる。

 因みに赤坂氏は松の苗木を咥えた立ち鶴を使用している。また中畑(中畠)氏も丸に鶴の紋を使用したと伝わるが具体的な形はわからない。

 文禄三年(1594)七月の『蒲生領高目録』では石川郡の石高が三万百二十七石九斗七升とあるので、石川氏の所領高は一〜三万石であったと考えられる。

 石川氏はその系譜で清和源氏頼親流を称し、大和守源頼親の三男頼遠の子有光を始祖とする。有光は摂津国物津荘に生まれ、はじめ物津冠者と、のち柳津に移住し柳津冠者と称した。のちには福田源太有光とも号した。
 永承六年(1051)陸奥守源頼義に従い父頼遠とともに奥州に下向し、その軍功により源義家の代官として陸奥国石川郡泉荘の支配を委ねられたという。

 康平六年(1063)十月、有光がこの地に下向し三芦城を築城して居住し石川氏を称したのが土着の始まりという。有光の長子基光の子孫が戦国大名石川氏となるが、有光の子光家の子孫が蒲田氏や赤坂氏となったとみられている。

 元弘三年(1333)五月二十一日、鎌倉幕府が崩壊すると、翌々日の二十三日北条得宗領奥羽支配所であった笹川城(郡山市安積町笹川)を石川一族の石川大炊余四郎光隆などが攻撃し落城させている。

 鎌倉末期には石川庄の地頭職は北条氏が掌握しており、石川氏はその地頭代の地位にあり北条氏の被官(御内人)となっていることが知られている。

 そのため建武新政において石川氏の所領は「元弘没収地」の対象となり、陸奥守北畠顕家によって白河宗広に与えられたのではないかと考えられる。

 また石川庄のうち板橋・千石は伊達氏領であったという史料もあり、「元弘没収地」として板橋・千石は一時的に伊達氏が領有した可能性もある。

 その後石川一族の多くは一貫して北朝方に属し各地を転戦するが、その軍功により足利尊氏より改めて石川庄の支配を委ねられたと考えられている。ただ石川一族の千石大和権守時光は南朝方であったことが知られている。

 建武四年(1337)二月、石塔義房が奥州総大将として奥州に入部すると、石川一族の石川蒲田兼光が石塔氏奉公衆として活躍している。

 応永十一年(1404)七月、稲村公方足利満貞と笹川公方足利満直とに忠誠を誓った傘連判状に面川掃部助光高、中畠上野介師光、小貫修理亮光顕、炭釜源貞光、小高源藤光、左近将監政光、松川源朝光、蒲田長門守光重、牧源盛光、八俣沙弥長源という石川一族とみられる十人の名前がある。

 笹川公方が幕府と結んで、鎌倉公方足利持氏・稲村公方と対立するようになると、石川氏は鎌倉府方として京都扶持衆の白河氏と対立した。

 その結果、正長元年(1428)十二月、石川氏惣領家である石川駿河守義光が白河氏朝に攻められ敗死している。
 義光の子駿河孫三郎(中務少輔)持光はその後も白河氏との戦いを継続していたようであるが、奥羽の国人層のうち鎌倉府方はわずかに石川氏ら二、三の国人のみとなりつつあった。

 永享十二年(1440)三月結城合戦が勃発すると、六月笹川公方足利満直が南奥州の国人に攻め殺されているが、これに石川氏が何らかの形で関与していたのは確かであろう。

 文明十六年(1484)石川一族の赤坂・大寺・小高氏が石川氏を離れ白河氏の旗下となったという。

 明応五年(1496)に石川成光を盟主とする竹貫・面川・蓬田・曲木・中畠・板橋・小高・牧・大寺・小平氏など一族十六人が連署して熊野三山衆徒に提出した書状があるので、この頃には小高・大寺両氏は石川氏に帰属していたのであろうか。

 このように鎌倉期には一族の分立が著しかった石川氏も南北朝の争乱をへて、十五世紀後半には全盛期を向かえた白河氏に対抗するため、徐々に石川氏惣領家の一族支配が進行し戦国大名としての基礎を固めつつあったとみられる。 

 天文三年(1534)伊達稙宗は芦名・二階堂・石川氏を糾合して白河・岩城両氏を攻めている。
 天文十年(1541)頃には石川郡竹貫(石川郡古殿町字竹貫)の領主竹貫氏が石川氏を離れ岩城氏の旗下となっていた。
 天文十四年(1545)二月頃、石川・二階堂両氏は田村氏と抗争している。

 永禄八年(1565)二月十八〜二十四日にかけて、石川晴光は芦名盛氏と同盟する田村隆顕・清顕父子と岩瀬郡小作田で戦い、石川勢七百騎は船尾兵衛尉昭直を将とする佐竹氏の加勢を得て、田村勢千騎に勝利した。
 永禄十一年(1568)四〜五月にかけて芦名盛氏は田村隆顕と連合して石川晴光を攻めている。この年、石川晴光は伊達晴宗の四男親宗を娘婿に迎え昭光と名乗らせた。

 晴光は実子奥太郎(後の彦三郎光専)の後嗣を断念し、伊達氏の後盾を得ることによって石川氏の存立をはかったのである。

 元亀元年(1570)頃には石川郡蓬田(石川郡平田村字蓬田)の領主蓬田隠岐守法光(有信)が石川氏を離れ田村氏の旗下となったという。

 元亀三年(1572)石川晴光は佐竹義重の調停に従い三芦城を離れ白石城(石川郡浅川町字里白石)に入った。これにより三芦城は芦名氏の支配する所となったと考えられている。

 元亀四年(1573)二月、石川昭光は佐竹義重に反旗を翻したが、その年の内には浅川城(石川郡浅川町字浅川)主浅川大和守義純の勧めにより再び佐竹氏に服属した。

 佐竹氏への服属の条件は三芦城主への復帰と領土の回復であった。白石城には佐竹家臣和田安房守昭為が入ることとなった。

 天正元年(1573)十一月十日、石川昭光は三芦城内の八幡社に帰城後の寄進を約束している。

 天正二年(1574)正月四日、白河勢が和田昭為、浅川義純と浅川に於いて戦っている。同年二月五〜七日、田村清顕の攻撃により白石城が落城し三十人が生け捕りになったという。

石川昭光が三芦城に復帰出来たのは天正二年(1574)十月頃と考えられ、伊達輝宗がその祝儀として馬を贈っている。しかし、石川晴宗はそのまま白石城に留め置かれたと考えられている。

 天正三年(1575)芦名・田村・二階堂・白河氏の連合軍一万余が佐竹・石川氏の軍勢と石川郡の雲霧城(石川郡玉川村字川辺)近くの金波川北方で戦い、連合軍は川辺以北の地(大寺郷)を攻め取るという。

 天正五年(1577)四月、浅川義純は佐竹氏に反逆したため浅川城を追われ、浅川城は石川昭光に預けられ城代として矢吹薩摩守光頼が入った。

 翌六年(1578)三月、白河勢が浅川城を攻撃し、同年六〜七月には田村清顕が浅川城を攻撃している。この時、石川昭光は浅川城にあって三芦城は再び芦名氏の支配下にあったと考えられている。

 天正九年(1581)四月、田村氏に服属していた蓬田法光・下野守利光(椎義)父子が田村氏を見限り、芦名・佐竹・二階堂・白河・石川氏の連合勢力に帰属した。

 天正九〜十年の間には、石川昭光が芦名盛隆の承認を得て三芦城に復帰し領土を回復したことは明らかで、浅川義純・次郎左衛門尉豊純父子が浅川城に復帰したのもこの頃と考えられている。

 天正十年(1582)十月七日、大寺城(石川郡玉川村字南須釜)主大寺中務大輔清光が二階堂氏の加勢を得て三芦城の石川昭光を攻撃するも敗れる。当時、大寺郷の領主大寺氏は二階堂氏の旗下となっていた。

 天正十七年(1589)十一月、石川大和守昭光は伊達政宗に服属した。

 天正十八年(1590)四月、石川勢は佐竹方の滑津城(西白河郡中島村字滑津)主船尾山城守昭直を攻撃している。

 天正十八年(1590)八月、豊臣秀吉の奥羽仕置によって石川氏は所領を没収され戦国大名として終わりを遂げた。この時、家老溝井六郎右衛門義信は石川昭光に徹底抗戦を主張したが容れられず自刃したという。

 天正十九年(1591)石川昭光は伊達政宗に仕え一門の首座に列し志田郡松山館(宮城県大崎市松山)に居住し六千石を領した。
 慶長三年(1598)には伊具郡角田城(宮城県角田市)に移り一万石となり、延宝六年(1678)宗弘の代には二万一千三百八十石余を領した。
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