戦国大名岩城氏
戦国大名岩城氏は大館(いわき市好間町大館)を居城として岩城郡、岩崎(磐前)郡、楢葉郡、菊田庄(郡)などを支配していた。
文禄四年(1595)の太閤検地では岩城氏の所領高は十一万四千六百五十一石八斗五升三合であった。
岩城氏は桓武平氏常陸大掾平良望(後の国香)の後裔を称していて、これは信憑性が高いと考えられている。
家紋は岩城櫺子に月を使用している。
平国香の子貞盛の二男陸奥権守繁盛(国香の二男とする系図もある)は常陸国府中に居住していたが、その孫則道(高久三郎忠衡)が岩城次郎を称して岩城氏の祖となったと考えられていて、十一世紀末には岩城郡に土着していたとみられる。
ただ、岩城氏系図は多種多様なものが伝えられており、また応永年間(1394〜1428)頃に一族の白土氏が岩城惣領になったこともあり、その系譜を連続的に確実に辿れるのは十五世紀中葉の岩城下総守隆忠以降であるといわれている。
つまり、戦国大名に発展するのは岩城白土氏であり、系図の多くはこの白土氏の系譜を伝えるものが多く、白土氏が岩城惣領になる以前の岩城惣領家の系譜を知るには「岩城国魂系図」がもっとも信用が於けるものであろうと佐々木慶市氏はその著書『岩城惣領譜考』のなかで論述している。
それによれば高久三郎忠衡が岩城氏の祖であり、これに岩城二郎忠清、岩崎三郎忠隆、荒河四郎直平の三子があり、忠清が岩城惣領となり、忠隆が岩崎氏の祖、直平が荒河氏・富田氏・国魂氏の祖となったとされている。
応永十七年(1410)岩城氏の庶流で岩崎郡の有力な国人であった岩崎隆綱を岩城氏が退治して幕府から賞されている。また、永享十二年(1440)結城合戦に岩城左京大夫が参陣して将軍足利義教から感状を受けている。
嘉吉三年(1443)岩崎氏に内訌があり、岩崎左馬助が自害して、その弟彦次郎清隆が岩崎氏惣領となったが、岩城隆忠と白河直朝は岩崎清隆側を支援した。
両者の和睦が成立した翌年の文安五年(1448)には、菊田庄の代官職を白河直朝が獲得していて白河氏の勢力が岩城地方にも伸びたことが察せられる。
この内訌により岩崎氏の力は衰え、惣領である岩城氏の力は増したと考えられる。
このことは、文正元年(1466)十一月の青滝寺棟札に「大旦那 郡主岩城殿隆忠」とあることからも伺い知れる。
この岩城隆忠は岩城白土氏系と考えられている。
その後岩城氏は岩城地方の統一を目指し岩崎・白河両氏と岩崎郡・菊田庄をめぐって抗争したと推測されている。
長禄四年(1460)の御内書には岩崎氏の名があるが、文明三年(1471)の御内書には岩崎氏の名が消えており、岩城氏と岩崎・白河両氏の抗争は岩崎・白河氏側が敗れ岩崎氏は没落したとみられている。
文明六年(1474)正月、岩城親隆と白河政朝とが兄弟の契約を結んでいるが、この契約は白河氏からの働きかけで実現したとみられており、この抗争の最終的な終結を意味するのかもしれない。
このように、十五世紀の諸抗争に勝利した岩城氏は戦国大名の地位を確立して明応年間(1492〜1501)には佐竹氏と山入氏の抗争に、永正七年(1510)には白河氏と小峰氏の抗争に介入するなど周辺国にも大きな影響力を及ぼした。
岩城氏は重隆・親隆(はじめ宣隆)の代に最盛期を迎えたが、重隆の代には北は楢葉郡から南は常陸国多珂郡、西は石川郡の一部にまで領国を広げた。
ただ、明応元年(1492)標葉郡の標葉氏が相馬盛胤によって攻め滅ぼされると岩城氏は相馬氏と直接対峙することとなり、大永年間(1521〜1528)には相馬顕胤によって岩城領の木戸城と富岡城を奪い取られてしまう。
しかし、元亀年間(1570〜1573)には相馬氏が伊達氏との抗争に忙殺されている間隙をついて木戸城と富岡城を奪還している。
その後も、相馬氏と岩城氏の抗争は繰り返されていたようで、『藤葉栄衰記』によれば天正六年(1578)三月に両氏が松本権現堂(双葉郡浪江町権現堂のことか)に戦ったとき、二階堂氏は岩城氏を支援し須田大膳大夫を将とする軍勢を派遣している。
重隆を継いだ親隆は伊達氏からの養子であるが、これには複雑な経緯がある。重隆には男子がなく娘二人がいた。重隆の長女久保姫は絶世の美人と周辺国に知られていたという。
白河義綱の嫡男晴綱は久保姫との結婚を重隆に申し込んで婚儀が整っていたが、その後伊達稙宗の嫡男晴宗からも結婚の申し込みがあり重隆は晴綱との約束を守りこれを拒否したという。
しかし、晴宗はあきらめず是非とも物にしようと考え、久保姫が白河へ向かう日を探り、馬上侍三百騎と軍兵二千を遣わし途中で略奪させたという。
『奥羽永慶軍記』にも「滑井合戦の事」として記載されているが、天文三年(1534)のことであったと考えられる。
重隆は晴宗の暴逆無道を憤り敵対したが、晴宗と結婚した久保姫からの訴えにほだされ、ついにはこの結婚を許したという。ただ重隆には嫡子がなかったので、もし伊達家に男子が生まれたら、たとえ嫡子であろうと岩城氏の継嗣にするという契約を結んだという。
のち晴宗に長男が生まれたが、これが重隆の養子となった親隆である。
久保姫の妹は佐竹義昭に嫁していたが、その長女が親隆の室となった。
この結果、伊達氏・佐竹氏・岩城氏は婚姻を通じて関係を深めることとなった。
親隆は芦名・田村氏と戦う二階堂氏を支援して岩瀬郡内を転戦していることが古文書から知られているが、時期は永禄年間(1558〜1570)ではないかとみられる。なお親隆の子常隆の室は二階堂盛義の娘である。
天正十二年(1584)五〜九月にかけて岩城常隆は田村郡小野地方に侵攻し、十月には小野城(田村郡小野町)にせまったが相馬氏が岩城領に侵攻するという報に接し納馬した。
天正十三年(1585)十一月、岩城常隆は第一次人取り橋の戦いに反伊達連合軍側として参陣している。
天正十六年(1588)六月、郡山合戦に岩城常隆は反伊達連合軍側として若松紀伊守と船尾右兵衛尉を将とする軍勢を派遣している。
その後、戦いが長期に渡ると岩城常隆は芦名・佐竹側と伊達側との間を仲介して和議を成立させた。
天正十七年(1589)四月十五日、岩城常隆は田村郡小野地方に出陣して二十一日には鹿股城(田村市滝根町神俣)を落とした。
また、大越紀伊守顕光が内応したので大越城(田村市大越町)に兵を入れ大越以東の地を支配下においた。
五月二十七日には岩城勢三千余は門沢城(田村市船引町門沢)を攻撃し伊達氏からの加勢千人余のうち茂庭駿河守定直、中島右衛門宗意など二十騎を討ち取り、さらに門沢城主以下四百人を討ち取り落城させた。
天正十七年(1589)十月、伊達政宗が須賀川城を攻めた際、二階堂氏を支援するため植田但馬守隆堅、竹貫中務大輔尚忠を将とする軍勢を送っている。
岩瀬郡の二階堂氏が滅亡すると、同年十二月岩城氏は伊達氏と講和した。
天正十八年(1590)岩城常隆は小田原に参陣していたが、同年六月二十四日鎌倉郡星ヶ谷で急病のため死去した。
この時すでに、常隆の正室(二階堂盛義の娘)は懐妊していたが、生まれてくる子が男女いずれかわからないこともあり、家老白土摂津守隆祐と増田左衛門隆秀は豊臣秀吉の許可を得て佐竹義重の三男(実は四男)能化丸を養子として岩城氏を継がせた。これが後の岩城貞隆である。
これ以降、豊臣政権下では岩城氏は佐竹氏の与力大名として位置付けされた。
文禄四年(1595)太閤検地が行われた際、岩城領内の検地は奉行石田三成の配下寺内織部が監査し、佐竹義憲が実施しているが、これは岩城氏が佐竹氏の与力大名であったからであろう。
翌慶長元年(1596)の春には佐竹氏の主導のもと岩城氏家臣の所領替えが行われていて、岩城領は佐竹氏の領国に組み込まれた感すらある。
慶長五年(1600)九月の関ヶ原の合戦前後に佐竹義宣の命に従って行動した貞隆はその所領を没収され改易されてしまう。
しかし、元和二年(1616)八月大阪の陣に従軍した功により、信濃国高井郡川中島(長野県長野市川中島町)で一万石を与えられ大名に復帰した。
元和八年(1622)十月、貞隆の子吉隆は出羽国由利郡亀田(秋田県由利本荘市岩城)に一万石を加増され都合二万石となった。
翌九年、亀田に国替えを命じられ川中島一万石の代わりに出羽国由利郡内に一万石を与えられた。
寛永元年(1624)、吉隆は初めて亀田に下向した。
以後明治維新まで岩城氏は亀田藩主(二万石)として存続した。
天正十八年七月三十日常隆の正室は無事に男子を出生したが、その子は幼名を長次郎(のち隆道)といった。
慶長十二年(1607)岩城隆道は十八歳のとき伊達政宗に仕え千石を賜った。
同十五年、伊達姓を許され一門に列し、伊達政宗より諱字を賜り名を政隆と改め栗原郡清水城(宮城県栗原市一迫清水)に居住した。
宗規の代に江刺郡岩谷堂城(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)に移住し四千二百三十九石を、さらに村隆の代には江刺郡、黒川郡、加美郡、栗原郡の内に五千十五石を領した。