岩瀬御台
 岩瀬御台というのは二階堂盛義の後室大乗院が芦名盛隆の次女を請うて二階堂家の養女とした姫のことである。

 大乗院は二階堂行親亡きあと、この姫に婿を取らせ二階堂家の当主とするつもりでいたのであろう。

 この姫がのちに佐竹義宣公の側室となり岩瀬御台と呼ばれることとなる。

 天正十七年(1589)十月の須賀川城落城時にはすでに大乗院のもとにあったとされ、落城後大乗院とともに伊達家、岩城家、佐竹家と転々とした。

 佐竹氏が出羽国に移封されたのち佐竹義宣公の側室となるが、不縁となり若くして隠居し、久保田城から横手城の須田美濃守盛秀に預けられ横手に居住した。

 秋田県横手市字岩瀬は岩瀬御台の住居があった所で地名は岩瀬御台に因むと言われている。

 岩瀬御台は隠居後昌寿院と称し、また佐竹義宣公から化粧料として横手の大沢村に二百石を与えられた。

 横手で隠居することになった昌寿院に対して須賀川衆は、日々お世話をし、お慰めしたとのことである。

    
 元禄十一年(1698)、久保田藩士須田忠右衛門が記した岩瀬御台に関する覚書

 寂しい日々を過ごしていた昌寿院は寛永十六年(1639)八月八日逝去し天仙寺に葬られた。

 法名は昌寿院殿光円正瑞大姉である。

 年齢は五十五歳とも六十余歳ともいわれ判然としないが、五十五歳であれば天正十三年(1585)の生まれとなり、前年の十月に芦名盛隆が亡くなっていて、九月には亀若丸が生まれているので可能性は低いと考えられる。

 側室の子であれば五十五歳でも可能ではあるが、私の考えでは六十歳前半とするのが妥当と考えている。
 横手に居住する須賀川衆はさらに昌寿院の菩提を弔うため、春光寺を中興開基し新たな位牌を春光寺に安置し天仙寺にある墓の土を春光寺に分けて廟所とした。
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