椎名氏 「白方大明神社記」は椎冬となっているが、椎名の書き誤りではないか。
為氏の下向に従った侍に椎名典膳(白)椎名(藤)がいる。
下総国千葉荘椎名郷(千葉県千葉市)発祥の桓武平氏千葉氏族か。
塩田氏 須賀川城に籠城した武将に塩田右近大夫一類(藤)がいる。
その系図によると、清和源氏石川氏族を称す。石川光祐の子光家が祖父有光の養子となり光頼と称し松山城に入り石背山田郷を食邑としていたが、有光の隠居後光頼は三芦城に移り、その五男光幸が松山城を相続し塩田殿と称したという。さらに光則の代に二階堂為氏公に仕え客将となる。天正十七年(1589)十月因幡守重政は嫡男右近大夫政繁とその子光繁を須賀川城に派遣し籠城させ、自らは居城細桙城(須賀川市大字塩田字細久保)の守備についていた。政繁は須賀川城籠城戦に於いて大黒石口の守将として奮戦後自害し、重政は須賀川落城後細桙城を自焼して山中に落ち、同年十一月塩田村で帰農することを石川昭光に願い出て許され、光繁は八幡山の麓に草庵を造り居住したという。
文禄四年(1595)重定が兄光繁より家督を譲られ、その子孫は代々塩田村の肝煎役・名主役・庄屋役を勤めた。また政繁の弟光政は石川昭光に仕え、天正十九年(1591)志田郡松山に移住し、さらに慶長三年(1598)伊具郡角田に移住したという。家紋は抱え鸚鵡を使用する。
志賀氏 須賀川城に籠城した武将に志賀木工助(藤)がいる。
鹿山氏 長沼彦左衛門尉宗教の家臣に鹿山加(喜)右衛門(奥)がいる。
鴫原氏 天正五年(1577)浜尾善九郎と共に相馬へ武者修行に出た鴫原思之介(藤)がいる。「藤葉栄衰記」では鴨原となっているが、現在須賀川市に居住する名前から推測すると鴫原の書き写し間違いであろう。
宍草氏 為氏の下向に従った侍に宍草与市郎(藤)宍草与治郎(白)がいる。
下枝氏 須賀川城に籠城した武将に下枝掃部(藤)がいる。田村郡下枝村(郡山市中田町下枝)が発祥であろう。下枝氏については応永十一年(1404)七月に結ばれた一揆連判状に下枝沙弥性善という名前がある。庄司系なのか平姓なのかは判然としないが田村氏族とみられている。天文十五年(1546)六月下枝治部大輔は田村隆顕に攻められ岩城に逃れたという。
倭文氏 為氏に従った侍に倭文半内(白)(藤)がいる。
志波氏 長沼彦左衛門尉宗教の家臣に志波左吉(奥)がいる。
沙茂氏 須賀川城に籠城した武将に沙茂孫十郎(藤)がいる。
白葉氏 為氏の下向に従った侍に白羽因幡守(白)(藤)、須賀川城に籠城した武将に白葉因幡守(藤)がいる。
進藤氏 滑川合戦で討ち死にした侍に進藤十郎右衛門(藤)がいる。
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