塚原氏 為氏に従った侍に塚原(藤)塚原左膳(白)が、須賀川城に籠城した武将に塚原次郎右衛門(藤)がいる。鉾衝館(須賀川市長沼大字鉾衝字古館)は、南北朝時代に二階堂時藤入道道存が築城し塚原伊予守が居館したといわれているが、その子孫にあたるか。
常松氏 常松氏系図によれば、本姓は村上源氏赤松氏で、田村郡常葉城(田村郡常葉町)主常葉氏の支流という。義時の代に故あって田村郡を退去し二階堂家臣となり前田川村(須賀川市大字前田川)平館に居住して常松氏を称したという。さらに享禄元年(1528)義清の代に前田川館を佐藤但馬守に渡し岩淵村(須賀川市大字岩渕)館に移ったという。家紋は二つ巴である。
「岩瀬郡誌」には常松氏は保土原藤顕の七世の孫貞長の二男行隆を祖とし、行隆は佐竹義重に仕え常陸の松川館に居住したが、弘治元年(1555)帰国して常松氏(常陸国と松川館より取る)を称し保土原村に居住したとある。その子行紀に至り保土原左近将監行藤入道江南斎の弟義久を養子として家を継がせ、天正元年(1573)義久は岩淵館に移った等の記載があるが、出典が不明であり、「須賀川市史」もこれを採録しておらず、常松氏系図とはまったく異なる系譜となっているので、その信憑性はわからない。
円谷氏 為氏に従った侍に円谷若狭守(白)(藤)が、須賀川城に籠城した武将に円谷与三左衛門と円谷右馬亮(丞)(藤)がいる。
寺川氏 長沼彦左衛門尉宗教の家臣に寺川治兵衛(奥)がいる。長沼宗教の次男亀千代を伴って羽石刑部と共に須賀川城を落ち延びる時に、鉄砲の弾に当たって討ち死にしたとある。
土岐氏 為氏に従った侍に土岐左衛門尉(藤)土岐右近大輔(白)がいる。
富岡氏 須田佐渡守頼隆が安積郡富岡(郡山市三穂田町字富岡)を領し、在名を冠して富岡佐渡守と名乗ったという。しかし確かに富岡佐渡守宛ての古文書はあるが、名字としていたかはかなり疑わしい。
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