中島氏 長沼彦左衛門尉宗教の家臣に中島弥兵衛(奥)がいる。
長瀬(永瀬)氏 和田城主須田美濃守の家臣(須田七騎の一家)に長瀬氏(藤)(奥)がいる。須賀川落城後須田美濃守盛秀に従い常陸国に落ち、その後出羽国横手(秋田県横手市)に移る。寛永元年(1624)の笹山家の古文書によれば横手城代須田伯耆盛久の家臣に家老職をつとめる長瀬吉右衛門がいる。
長沼氏 須賀川城に籠城した武将に長沼彦左衛門尉宗教(藤)(奥)、その嫡男長沼又四郎宗綱(奥)、二男亀千代(奥)と長沼源五左衛門秀光(奥)がいる。宗教は釈迦堂口、秀光は南ノ原口の守備についている。秀光は須賀川落城後須田美濃守盛秀と共に常陸国に落ち佐竹氏の家臣となり、出羽国移封では茂木百騎の一家として横手(秋田県横手市)に入った。
また、宗教の二男亀千代は後に国分胤賢の養子となり国分采女(勘解由)胤則と名乗ったという。
正徳四年(1714)の「御国中分限帳」によれば、横手諸士分限の戸村十太夫組下本町給人に長沼五郎左衛門80石(本田25石開田55石)と根岸分限に長沼主水180石(本田80石開田100石)、長沼四郎兵衛50石(本田45石開田5石)とある。
天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によれば、横手の戸村十太夫組下に長沼五郎左衛門(四十七石九升)、長沼四郎兵衛(四十四石三斗三升四合)とある。
長沼氏は秀郷流藤原氏で小山政光の二男宗政が、元暦元年(1184)下野国芳賀郡長沼庄(栃木県芳賀郡二宮町長沼)に居住して称した。宗政は源頼朝に従い功をあげ陸奥国長江庄南山郷(福島県南会津郡下郷町、田島町)を与えられた。南山郷の国人領主長沼氏は南北朝期頃に楢原(南会津郡下郷町)辺りに入部し、長禄三年(1459)頃に鴫山城(南会津郡田島町)を居城にしたという。また岩瀬郡長沼庄(須賀川市長沼、岩瀬郡天栄村)も長沼氏に因むという説もある。正和三年(1314)宗政の四代の後裔宗行が岩瀬郡に移住したという。二階堂氏家臣はこの系統であろうか。家紋は左三つ巴を使用している。
中村氏 須賀川城に籠城した武将に中村助七郎(藤)(奥)がいる。中村氏の系譜では、二階堂為氏の下向に先祖中村助七郎秀顕が従って来たという。その五代の後裔三郎秀顕は天正十年(1582)七月御殿河原に於ける田村勢との戦いで討ち死にし、その弟助七郎秀治が天正十七年(1589)十月須賀川城に籠城し馬場口に於いて奮戦するとある。落城後秀治は民間に入り、その子孫が須賀川の町年寄に召し出され帯刀を許された。家紋は九曜、丸に剣酢漿草である。
行方氏 大里城に籠城した侍に行方筑前(岩)がいる。この子孫を称する家が、今でも岩瀬郡天栄村字大里に居住する。陸奥国行方郡(福島県相馬郡)発祥の桓武平氏岩城氏族か常陸国行方郡行方郷(茨城県行方郡麻生町)発祥の桓武平氏大掾氏族であろうか。
滑川氏 須賀川城に籠城した武将に滑川藤十郎(藤)がいる。岩瀬郡滑川村(須賀川市大字滑川)を所領とし、柏木館(須賀川市大字滑川字東町)を居城としたという。
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