江藤氏 市野関館主は和田城主須田美濃守秀信の二男須田佐渡守秀泰のあと、須田氏家臣江藤万力正勝が入り、別名万力館と呼ばれたとされる。「藤葉栄衰記」では江藤万戸となっているが江藤万力の間違いであろう。その系図では桓武平氏北条氏流を称し、鎌倉幕府滅亡時に顕時が奥州に下向し田村輝定に仕え、勝則の代に二階堂氏に仕えたという。家紋は始め三鱗のみであったが、その後丸に三文字または三鱗、丸に三引きまたは酢漿草さらに三引きに酢漿草二つ合わせ、丸に酢漿草に改めたという。
江持氏 江持村を所領とし江持館に居住したので江持氏を称したと考えられる。須田氏系図では江持・堤両村は和田城主須田美濃守秀信の五男源蔵秀顕が領したとなっているので、その一族の可能性が高い。須賀川城に籠城した武将に江持近江守(藤)がいる。在原姓佐藤氏系図によれば佐藤但馬守勝義の女子が江持近江守室と、吉田氏系図によれば国顕の二男是顕が江持館主江持近江守養子とある。
遠藤氏 為氏に従った四天王に遠藤(藤)遠藤大和介(白)、侍に遠藤対馬守(藤)が、須賀川城に籠城した武将に遠藤雅楽頭、遠藤壱岐守、遠藤内蔵頭、遠藤右近大夫、遠藤弥右衛門、遠藤左馬助(藤)がいる。
寛永元年(1624)の笹山家の古文書によれば、横手城代須田伯耆盛久の家臣に遠藤庄右衛門、御小姓頭遠藤八右衛門がいる。また元禄三年(1690)に須賀川衆と明記されている横手大番士には遠藤八右衛門、遠藤勘右衛門、遠藤三郎兵衛、遠藤新右衛門がいる。
正徳四年(1714)の「御国中分限帳」によれば、横手諸士分限の戸村十太夫組下本町給人に遠藤新左衛門70石(本田50石、開田20石)、遠藤勘左衛門61石(本田40石、開田21石)、遠藤四郎兵衛15石3人扶持(開田15石)、遠藤八右衛門10石2人扶持(開田10石)、遠藤孫九郎(2人扶持)、向源左衛門組下横手羽黒分限に遠藤八兵衛5石3人扶持(開田5石)とあり、天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によれば、横手の戸村十太夫組下に遠藤隼之助(44石1斗5升6合)、遠藤新左衛門(33石7斗6升)、遠藤四郎兵衛(15石3人扶持)、遠藤順平(3石3合2人扶持)、遠藤運治(3人扶持歩行並)、小鷹狩(向)左近組下に遠藤久四郎(10石2升3合3人扶持)とあるが須賀川衆であろう。
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