坂地(坂路)氏 須賀川城に籠城した武将に坂地五郎右衛門(藤)がいる。坂地(坂路)氏は石川郡坂路村(福島県石川郡石川町字坂路)を発祥とする清和源氏石川氏族であろう。坂路氏系図によれば、石川師光の次男坂路左近将監守光が石川郡宇田谷城主となり、これが坂路家の太祖であるとしている。また坂路五郎右衛門の実名を光方としている。
相良(相楽)氏 大里城に籠城した武将に相良(相楽)平次(治)がいる。「奥羽永慶軍記」の巻九佐竹勢伊達安積出陣事に相楽(相良)と巻十三会津須賀川両勢働安積表事に相楽勘解由と記載がある。『芦名四代』によれば、安積郡大槻村(郡山市大槻町)の堂山館は相楽包頼が築城したと、永禄二年(1559)二階堂氏の旗下であった相楽勘解由は大河原弥平太と共に田村氏に内通し、二階堂氏を後押しする芦名氏に攻められたとある。遠江国佐野郡相良荘(静岡県榛原郡相良町)発祥である藤原南家の相良氏であろうか。
佐久間氏 為氏の岩瀬郡下向に従った侍に佐久間丈吉(白)、佐久間(藤)がいる。また下小山田合戦で討ち死にした武将に小倉村(須賀川市字小倉)の佐久間弥右衛門(藤)が、須賀川城に籠城した武将に佐久間十右衛門、佐久間主殿介、佐久間弥右衛門(藤)がいる。「船引町史」所収の藤姓佐久間氏の系譜によれば、その先祖藤原遠江守盛清が播磨国佐久間郷の佐久良城主となり、これにより佐久間氏を称したという。播磨国守護赤松氏が滅亡したため長禄年間(1457〜1460)盛重の代に陸奥国に移り須賀川城主二階堂氏の家臣となったという。さらに天文年間(1532〜1555)盛秀の代に常葉城主赤松甲斐守の世話によって三春城主田村氏に仕え田村郡実沢村に移住したという。小倉村の刑部内館の東の台地に松が館があるが、「石川郡誌」は佐久間主殿助が居住したとする。家紋は左二つ巴を使用している。
笹山氏 和田城主須田美濃守の家臣(須田七騎の一家)に笹山金兵衛秀幸がいた。須賀川落城後須田美濃守盛秀に従い常陸国に落ち、その後出羽国横手(秋田県横手市)に移る。同家の由緒書には「笹山 二階堂遠江守家老也 土岐也 笹山ニ住ス 笹山ト称ス」とある。清和源氏頼光流土岐氏族ということか。岩瀬村大字守屋字笹山に笹山城址があり、「岩瀬郡誌」によれば坂東氏の重臣笹山権之進の古墟といい、ここが発祥地と考えられている。寛永元年(1624)の笹山家の古文書によれば、横手城代須田伯耆盛久の家臣に御納戸役笹山四郎兵衛がいる。また明治三年(1870)十月に須田新三郎によって提出された「陪臣家筋取調書」には笹山鉄之助源秀静、高二十八石とある。また須賀川市字和田の曹洞宗金剛院に笹山家の墓石と位牌が残されているが両方とも江戸期のものという。この笹山家は和田村で帰農した系統で江戸中期まで続いたが、その後断絶したという。家紋は丸に蔦を使用している。
佐藤氏 須賀川城に籠城した武将に佐藤主水(藤)、佐藤助七郎(藤)、佐藤雅楽丞(藤)がいる。
「岩瀬郡誌」によれば、上ノ台館(前田川館)(須賀川市前田川字前上の台)は二階堂家臣の佐藤氏の居城であったとする。常松氏系図にも享禄元年(1528)常松義清が岩渕館に移り前田川館を佐藤但馬守に渡すとあり、それ以降佐藤氏が居城としたのであろうか。その後裔を称する佐藤氏の系図によれば、是雅の先名が信濃とあり前田川信濃守と同一人物であるかもしれない。また在原姓を称していて家紋は源氏車である。
また「白河風土記」によると、須賀川の郷士に佐藤氏がある。先祖は佐藤大隅守といい相模国中郡に領地があったが、為氏の下向に従いこの地に来たという。この大隅守の孫に佐藤主水と佐藤左馬助という兄弟があり、須賀川城に籠城し大黒石口で討ち死にし、その後佐藤主水の子小平太が会津侯加藤嘉明によって召し出され割頭になったという。吉田氏系図に帯刀峯清が大桑原佐藤主水正正綱の養子となり、矢沢村の戸内館主とあるので、大桑原村・矢沢村に佐藤主水の所領があったかと考えられる。ただ佐藤大隅守が為氏に従ってこの地に来て、その孫が須賀川城に籠城したというのは年代から考えると合わない。また「大隅守」という受領名を称する佐藤氏が白河氏の家臣にもいるので、それとの関係が気になる。
沙茂氏 須賀川城に籠城した武将に沙茂孫十郎(藤)がいる。
三瓶氏 為氏に従った侍に三瓶治部兵衛(白)三瓶次郎兵衛(藤)が、須賀川城に籠城した武将に三瓶太郎左衛門(藤)がいる。
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