武将名 人物伝 辞世
冷泉隆豊 戦国大名大内義隆の家臣。正五位下。安芸国銀山城主。義隆に最後まで従い、天文二十年(1551)十月一日長門国の大寧寺で義隆を介錯したのち、自らは深手を負いながら討手と戦い、腹を十文字にかき切って最期を遂げた。 見よや立つ 煙も雲も 半空(なかぞら)に
さそひし風の 音も残らず
三浦義同 相模国の国人三浦氏最後の当主。入道号道寸の方が知られているか。後北条氏の攻撃を受け、永正十三年(1516)七月十一日子義意とともに三崎城に於いて自刃し、鎌倉以来の名族三浦氏は滅亡した。 討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ
くだけて後は もとの土塊(つちくれ)
清水宗治 備中国東南部の国人。はじめ高山城に拠り、永禄八年(1565)から高松城主となったとされる。天正二年(1574)から小早川隆景に属した。天正十年(1582)中国平定のため兵を進めてきた羽柴秀吉によって高松城は水攻めにされた。本能寺の変の直後、秀吉から毛利氏に講和条件が示され、天正十年(1582)六月四日城主宗治の切腹をもって城兵は助けられ開城された。 浮き世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して
別所長治 播磨国東部の戦国大名。天正六年(1578)織田信長に反旗を翻し三木城に籠城した。羽柴秀吉は三木城を兵糧攻めにして苦しめ、天正八年(1580)一月七日、ついに兵糧が尽きた長治は城兵の助命を条件に降伏し自刃した。 今はただ うらみもあらじ 諸人(もろひと)の
いのちにかはる 我身と思へば
平塚為広 美濃国垂井一万二千石の領主。豊臣秀吉の馬廻。慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで討ち取った首一つを添え、日頃の約束を果たし今こそ討死にいたすという手紙とともに大谷吉継のもとに送った辞世 名のために すつる命は 惜しからじ
ついにとまらぬ うき世と思へば
大谷吉継
   (吉隆)
越前国敦賀五万七千石の大名。従四位下刑部少輔。佐和山城で石田三成から挙兵のことを打ち明けられ、強くこれに反対するも、三成の意思が固いことを知った吉継は、悩んだ末これまでの友誼により行をともにする決意をした。これ以降吉隆と改名した。慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで自刃を前に平塚為広の使者に返書とともに送った辞世 契りあれば 六つの衢(ちまた)に 待てしばし
遅れ先だつ ことはありとも
高橋鎮種 戦国大名大友義鎮の家臣。入道号紹運(じょううん)。筑前国岩屋・宝満両城の城督。吉弘鑑理の次男であったが、義鎮の命により筑前国の国人高橋氏の名跡を継いだ。天正十四年(1586)七月十四日、岩屋城を島津軍が攻撃、島津忠長は鎮種に開城をすすめたが、同月二十七日辞世と島津義久宛ての遺書を残し、櫓に登り敵味方が見守るなかで自刃した。 屍をば 岩屋の苔に 埋みてぞ
雲居の空に 名をとどむべき
吉川経家 石見国福光城主吉川経安の嫡男。天正八年(1580)九月、羽柴秀吉に屈した因幡国鳥取城主山名豊国を追放した家老の請願を受け、毛利一門の吉川元春は経家を鳥取城主に任じた。翌年二月経家は四百ばかりの兵を従え鳥取城に入ったが、六月秀吉軍は鳥取城を完全に包囲し兵糧攻めにした。十月二十四日、ついに兵糧が尽きた経家は降伏の意向を秀吉に伝えた。当初の秀吉の降伏条件は「経家を含めた芸州勢の無事帰国を認め、家老の森下・中村の切腹と出城の塩谷・奈佐の首を刎ねる」というものであったが、大将たる自分が命助かり国人のみ自刃させるのは武門の恥として、他の士卒の命に代えて自分一人が切腹すると申し出た。秀吉から送られた酒肴で決別の宴を張り、翌二十五日自刃した。 君の名を あだになさじと 思ふゆへ
末の世までと 残し置くかな
黒田孝高 天文十五年(1546)播磨国姫路城主小寺職隆の嫡男として出生。通称名を官兵衛と称した。永禄四年(1561)主君である御着城主小寺政職に召し出され近習となる。天正五年(1577)羽柴秀吉に自らの居城姫路城を提供。天正八年(1580)主君政職が出奔したため、黒田姓に復する。その後、秀吉の軍師竹中半兵衛が三木城攻めで陣没したあと、秀吉の軍師として活躍。天正十四年(1586)従五位下勘解由次官に叙位任官し、翌十五年(1587)九州征伐の功で、豊前国十二万五千石を与えられる。天正十七年(1589)家督を息子長政に譲り隠居する。
文禄二年(1593)文禄の役で朝鮮に渡るが、石田三成らと対立し無断で帰国、豊臣秀吉の勘気をこうむり、剃髪入道して如水円清と号し謹慎する。慶長五年(1600)西軍挙兵を知ると、九月〜十月にかけて九州北部の諸城を次々に攻略し、九州北部をほぼ平定。関ヶ原の戦いで、東軍として活躍した息子長政に、筑前国五十二万三千石が与えられ福岡藩が成立した。
慶長九年(1604)三月二十日伏見の藩邸で没する。
おもひおく 言の葉なくて つゐに行
道はまよはじ なるにまかせて 
トップへ
戦国武将の辞世