戦国期における奥州の交通
天文五年(1536)に伊達稙宗が制定した伊達家の分国法『塵芥集』では、公道の幅を一丈八尺(三間、5.45m)と定めている。

これは側溝を含む道幅が四間(7.27m)、通行幅は二間半〜三間(4.55〜5.45m)であったとされる中世の鎌倉〜奥州に至る主街道「奥大道」を踏襲して整備されたものであろうか。

また天正十六年(1588)頃、伊達領内では一般の荷物は一駄(米俵2つを馬の背に左右に振り分けて積んだ量)につき二百文の関銭(通行料)を科し通行を認めるが、鎧・玉薬・焔硝は一切通過を禁ずるという規則が各関所に令達されている。

伊達領以外の奥州諸大名の領国における主要な街道の規格もほぼ同じであったと推察でき、街道の要所には関所が設けられ、人・荷物の出入りが厳しく監視・制限されていたと思われる