長禄寺所蔵の二階堂藤原系図は長禄寺に古くから伝わる系図ではない。

 『須賀川市史』『福島県史』にも記述があるが、二階堂盛義の四男行栄の子孫を称する二階堂俊雄氏が三百年大遠忌に持参してきたものであるという。

 須賀川城落城から数えて三百年としても明治二十一年(1888)のことである。またこの系図は郷土史家の有我氏が作成したものであるという人もいる。

 何れにしても長禄寺に古くから伝わる系図ではないことだけは確かである。

 また、『鎌倉管領所役考応仁武鑑』の二階堂系図も、その記述内容からして後世の作(盛義で終わっていることから応仁期の成立ではない)であろうと考えられる。
 製作者を推測するに、行続−盛重−輝行−盛義と年代も考えないで繋げていることから、須賀川二階堂氏に精通している人物ではなさそうであるし、大系図・軍記物・古文書について知識がある歴史マニアといったところか?
また、江戸時代末期に成立したという『系図纂要』がこれを引用していることから、江戸時代中期〜末期の成立と考えてほぼ間違いないのではないか。

 『戦国大名系譜人名辞典』の二階堂氏系図は、この応仁武鑑の二階堂氏系図をもとに年代が合わないところに数代書き加えて、為氏の父を行続とし、応永十一年(1404)南奥州の豪族二十名が一揆契約を結び笹川公方・稲村公方に忠誠を誓った連判状に名前がある須賀川刑部少輔行嗣(結城神社所蔵の結城古文書写では行嗣、証古文書では行副とある)に比定しているようである。

 さらに、ここで繋げた行続・為氏父子を、下に記した御内書に出てくる治部少輔・藤寿父子に比定しようと試みているが、明らかに年代的には矛盾がある。

 私は今回為氏以降の二階堂氏の系譜を作成するにあたり、『長禄寺開基家年譜』と『普応寺伝』とを比較検討した結果、『普応寺伝』の方を採録することとした。

 また、書籍の中には、『仙道表鑑』なる書物を引用して、須賀川二階堂氏は足利持氏から二階堂行続が岩瀬郡を恩賜され須賀川城を築城して居住したことに始まるという記載をするものがある.。

 『仙道表鑑』とは『奥陽仙道表鑑』のことを指すと思われるが、そこには「足利左兵衛督持氏の時奥州岩瀬の郡を二階堂三河守に恩賜有りければ則奥州に下着し須賀川の城を築て在住す」とだけあり、二階堂行続という名前は何処にも出てこない。

 行続と記載のあるのは軍記物か応仁武鑑の二階堂系図だけである。

 『奥陽仙道表鑑』では、この二階堂三河守の子を為氏とし嘉吉三年(1443)に家督を相続したとしている。

 この『奥陽仙道表鑑』は、正徳四年(1714)に二本松藩士木代定左衛門が桃山時代から江戸初期頃に成立した『藤葉栄衰記』や『白河風土記』などを底本に、口碑・古文書に記載のある名前などを織り交ぜ、さらに作者が創作した名前・話も挿入しながら、読みやすく校正し直した軍記物であり、史料的価値があるかといえば否であろう。


藤原照行と署名がある書状(東京大学白川文書)
年号はないが、四月六日とあり、天文年間(1532〜1555)に出されたと考えられている。
岩渕館主岩渕紀伊守が二階堂照行によって討たれたことがわかる。


二階堂照行の嫡男盛義の元服に際して、白河氏から送られた祝儀に対する返礼状(東京大学白川文書)
年号はないが、臘(ろう)月十四日とあり、弘治二年(1556)十二月十四日に出されたと考えられている。弾正大弼照行と署名がある。

 二階堂照行の名前を輝行と記す書籍を見ることもあるが、古文書で輝行と署名されたものは一切認められない。そして将軍足利義輝から諱を送られ照行から輝行に改名したということも伝えられてはいない。
また、『藤葉栄衰記』『伊達家治家記録』『伊達正統世次考』の記述、『普応寺伝』と『長禄寺開基家年譜』も照行とだけある。

 輝行と書かれているものは軍記物に多く、一部の系図にも記載がある。
このことから、それらの軍記物と系図がそう遠くない時期に前後して成立したとも解することができるかもしれない。

斎藤報恩会所蔵の『仙道人取橋合戦之図』に岩瀬輝隆三百五十騎と記載があるが、それを見たとき、一体誰のことかと思ったが、その類かもしれない。

 須賀川二階堂氏を考える上で重要な根本史料が幾つか残されている。

 それは享徳三年(1454)に始まった「享徳の乱」の最中に、将軍足利義政から下された御内書、御教書である。

 長禄四年(1460)四月二十一日、将軍足利義政が関東・奥州の諸将に下した古河公方足利成氏討伐の軍勢催促の御内書には二階堂小滝四郎の名があるが、これは須賀川二階堂氏ではなく、上総国小田喜(千葉県大多喜町)発祥の二階堂氏であろう。  

 同年(1460)四月二十八日、将軍足利義政が二階堂須賀川藤寿に下した御内書では、前年十月上野国佐貫庄羽継原の合戦で父治部少輔が戦死したことを褒め太刀一腰を賜ったことが分かる。
 この御内書に登場する二階堂治部少輔と藤寿父子は、二階堂為氏が実在したとすれば、、文安元年(1444)に岩瀬郡に下向したとされる為氏、あるいはその子孫にあたり、須賀川二階堂氏の当主と考えられるが、現存する二階堂氏の系図とは年代・名前とも一致しない。年代的には治部少輔が為氏で、藤寿が行光にあたると思うが・・・

 同年(1460)閏九月、足利義政が白河直朝とともに二階堂駿河守に下した御教書では、、先に下した御教書に従って進発する旨を報じたことを褒めている内容である。
この二階堂駿河守は、岩瀬郡西方に所領がある二階堂一族であろうが、須賀川二階堂氏ではないと考えられる。二階堂駿河守が誰なのかは、さらに検討が必要である。

 同年(1460)十月二十一日、将軍足利義政が下した古河公方足利成氏討伐の軍勢催促の御内書では、多くの奥州・北関東の諸将とともに二階堂次郎という名があるが、これは間違いなく二階堂須賀川藤寿のことであろう。
その内容には、二階堂氏は白河氏と相談して参陣し戦功を抽ずるようにという文言がある。

 もう一つ仮説を立てるとしたら、長禄三年(1459)十月に討死した治部少輔を為氏の父に比定し、須賀川藤寿を為氏に比定してみることであるが、この場合為氏の文安元年(1444)の代官討伐のための下向という話は史実でないことになり、また父が討死した以降の須賀川下向というシナリオも描き難いことになる。

 享徳三年(1454)十二月、足利成氏は関東管領上杉憲忠を謀殺し、翌年(1455)一月山内・扇谷両上杉軍と相模国島河原で戦い、その後各地を転戦したのち、同年三月下総国古河に入っているが、同年六月鎌倉に幕府軍が入り鎌倉は焼亡している。
このような状態の中で、二階堂氏が鎌倉に留まっていた可能性は極めて低い。

 長禄四年(1460)四月二十八日の御内書では、宛所が二階堂須賀川藤寿とあり、藤寿はすでに須賀川に居住していた可能性が高く、そして前年まで父である治部少輔も生きていたということになる。

 長禄三年(1459)十月に、幕府方として討死した二階堂治部少輔は、前年に伊豆国堀越に下向してきた堀越公方足利政知に呼応するために戦っていたのであろうか。

 古河公方足利成氏は、京都では康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明と改元されるが、享徳年号を二十七年(文明十年、1478)まで使用したという。
 文明十四年(1482)足利成氏は幕府と講和し、堀越公方足利政知の料所となった伊豆国を除く関東九ヶ国を再び支配することを認められ、明応六年(1497)九月三十日卒した。

 文正元年(1466)六月三日、将軍足利義政は再度関東・南奥州の諸将に足利成氏討伐の軍勢催促の御内書を下した。この御内書には二階堂遠江守という名があるが、二階堂須賀川藤寿、二階堂次郎と同一人物と考えられる。

 南奥州の諸将の多くは、幕府の度重なる催促にもかかわらず、幕府、古河公方ともに積極的には荷担してはいなかったようである。

 応仁元年(1467)には「応仁の乱」が始まり、幕府は関東の乱をかえりみる余裕はなくなった。

 年代的に行嗣と治部少輔の間にもう一人いそうなので、永享十年(1438)八月一日に南奥州の諸将に出された「笹川公方の手に属して上杉安房守憲実に合力のこと」という内容の幕府奉行人奉書(本願寺本足利将軍御内書并奉書留)にある二階堂遠江守をあてると、下のようになるが・・・

 須賀川刑部少輔行嗣−二階堂遠江守−二階堂治部少輔−二階堂須賀川藤寿(次郎・遠江守)と直線的に繋がるかどうかが問題である。

 『伊達家治家記録』の天正九年七月二十三日の条には、
「晴宗君の御婿奥州岩瀬主二階堂遠江守殿藤原盛義卒せらる。盛義は弾正大弼殿照行の子なり、其先家系不伝或云う左大臣武智麻呂卿第四の男参議従三位乙麻呂卿七代の裔維幾の一男二階堂遠江守為綱の子孫式部大輔某鎌倉管領持氏の時奥州岩瀬郡を領し其子遠江守為氏始て入部し郡内川中郷須賀川城に住せしより世々相嗣て盛義に至ると云い」とある。

 二階堂照行・盛義二代にわたって伊達家より室を迎えていて、伊達家と二階堂家は深い姻戚関係にあるが、この記述内容からして、伊達家に於いても須賀川城主二階堂氏は為氏以前の系統と為氏以降の系統に連続性はないと見ていたことがわかる。

『伊達治家記録』にいう式部大輔とは、鎌倉府の政所執事職を務めた二階堂式部大輔行詮入道及政のことであろうか。

 なお、二階堂盛義がもうけた男子は盛隆と行親だけという説が有力であるが、今回は『須賀川市史』などの説をとって行久と行栄を加えた。

 母親が大名家を継ぐのに相応しくない家格の出であれば可能性もあるかということで加えたが、『白河風土記』はこれに疑問を呈していて、おそらくは二階堂氏の支族ではないかとしている。
 これに関してはさらに検討する必要がありそうです。
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