郡山合戦
天正十六年(1588)六月十一日、佐竹氏・芦名氏・岩城氏・二階堂氏・白河氏・石川氏の反伊達連合軍は伊達方の郡山太郎右衛門尉頼祐(朝祐)が守る郡山城攻めのため安積郡に進撃した。
この時の総勢は「奥羽永慶軍記」では二万余、、「政宗記」では八千余とある。
連合軍の主力は佐竹常陸介義重、嫡男右京大夫義宣、芦名平四郎義広の軍勢である。
連合軍が郡山城に押し寄せたとの急報を宮森城で聞いた伊達政宗は、翌十二日宮森城を出馬し杉田と本宮の中間にある上の山(成実記では杉田にとある)に本陣を移した。
最上・大崎表、相馬表に兵力を割いているので僅か六百騎であった。
六月十三日、伊達勢から郡山城に大町宮内少輔、中村主馬助宗経、塩森六左衛門尉、小島右衛門尉を物頭とする三十騎が鉄砲二百挺を添えて遣わされた。
六月十四日、伊達政宗は本宮城に本陣を移し、自ら山王山に物見に出馬したが、その帰途安積山で伊達藤五郎成実、桑折播磨守宗長入道点了斎、小梁川中務盛宗入道泥蟠斎、白石右衛門佐宗実、浜田伊豆守景隆、原田左馬助宗時、富塚近江守宗綱、遠藤文七郎宗信、片倉小十郎景綱、伊東肥前守重信らと軍議を催した。
この日、宮城郡高森城主留守上野介政景入道雪斎と名取郡北目城主粟野大膳亮国顕(重国)が軍勢を率いて到着し総勢千余騎となった。
伊達勢の主力は逢瀬川の北にある山王館に布陣した。
一方、連合軍は麓山に本陣を置き、逢瀬川の南方に一番手佐竹勢、二番手二階堂勢、三番手芦名勢、四番手岩城・白河勢が布陣し逢瀬川を挟んで山王館に対峙した。
郡山城の南には佐竹二郎左衛門尉義尚、須田美濃守盛秀などの軍勢が五番手として布陣した。
六月十五日、伊達政宗は再度山王山に出馬し、山王館には飯坂右近大夫宗康・大嶺式部少輔信祐を、大鏑館には瀬上中務景康を、高倉城には大條尾張守宗直を遣わし、本丸を受け取ると共に城主から人質を取った。
また、郡山城主郡山頼祐からも人質を取った。
その夜、伊達政宗は一旦本宮城に帰ったが、翌十六日には福原の南に本陣を移した。
六月十八日、芦名勢の尾熊因幡守が二・三百人を率いて山王山の麓の用水堀を埋めて道普請を始めた。
これを見て伊達成実が鉄砲を撃ち掛け、尾熊因幡守の腕に玉が当たったので道普請は止められた。
六月二十三日、連合軍が総出で打って出て郡山城と山王館の間に砦を築いた。
砦の守備は、以後芦名四天王(富田、平田、佐瀬、松本)が廻り番でこれを勤めた。
この日の戦いで、連合軍側に五十余騎、伊達側に同じく五十余騎の戦死者が出たという。
六月二十六日、連合軍は先に築いた砦の東側にもう一カ所砦を築き、守備には片平大和守親綱が当たった。これにより郡山城と山王館の間は遮断された。
伊達勢も六月二十七日より逢瀬川と山王館の間に砦の普請を始めた。
七月一日、この普請も終わり、山王館の前方に堀が掘られ、土塁が築かれ、土塁の上には柵が結ばれた。
この砦は窪田砦と呼ばれた。
窪田砦の守備は、浜田景隆、富塚宗綱、原田宗時、遠藤宗信、片倉景綱、伊達成実、白石宗実、田村孫七郎宗顕が二人ずつ廻り番で行った。
七月四日、長沼城主新国上総介貞通が馬上侍五・六騎、足軽百ほどを率いて郡山城の南より出て、芦名勢の守備する砦と窪田砦の間を通過していたが、当日窪田砦の守備を担当していた伊達成実と片倉景綱がこれを見て、片倉景綱の異母兄片倉藤左衛門尉重継に足軽二百を預け新国貞通を追撃させた。
しかし、勝ちに乗じて深追いした片倉藤左衛門は、敵砦から出て来た加勢により窮地に陥った。
これを救わんと窪田砦からも伊達成実と片倉景綱の軍勢が出て一旦敵を砦内に押し込めたが、逢瀬川の南に布陣する連合軍の各陣所より総出で軍勢が押し寄せ、伊達成実と片倉景綱は退却することも叶わず逆に苦戦に陥った。
これにより、伊達勢も総出で馳せ向かい、伊達政宗自ら砦の外郭まで出馬し采配を揮った。
朝辰の刻(午前八時)に始まった戦いは、未の刻(午後二時)には両軍とも引き上げ終わった。
この戦いが、一ヶ月以上に渡る長期の対陣中で最大の戦いとなり、連合軍側に五十余騎、伊達側に八十余騎の戦死者が出た。
この戦いで、二階堂勢の矢田野藤三郎義正が伊達勢の伊東肥前守重信を討ち取ったという。
その後、両軍は小競り合い程度の戦いしかなく膠着状態となり、岩城・石川両氏の仲介により七月十八日和議が成立した。
七月二十日夜、連合軍は総引き上げした。
伊達政宗も連合軍が引き上げたのを確認して、七月二十一日早朝宮森城に帰陣した。