慶長五年(1600)「関ヶ原の戦い」の当時、佐竹義宣は常陸・下野・陸奥の国内に於いて五十四石五千八百十石余(芦名盛重に与えられた常陸国江戸崎・竜ヶ崎四万八千石を含む)を領していたが、戦後徳川家康よりその日和見的な姿勢を厳しく叱責され、何らかの処分を覚悟する状況にあった。
一門の佐竹義久が徳川家康から交付された「家康一代中務一代国替ノ儀是アルベカラズ」という誓紙の効力か、何の沙汰もなく月日が流れたが、慶長六年(1601)十一月二十四日佐竹義久が亡くなると、翌七年(1602)五月八日伏見邸に於いて出羽国移封の命を受けた。
佐竹義宣の父義重は、六月五日太田城を出て陸奥国南郷の赤館に引き移った。六月十四日佐竹義賢と小貫頼久が立ち会い水戸城を、翌十五日太田城を上使島田利政と花房道兼に引き渡した。その後佐竹方の城の接収が無事終了したのを確認し、七月二十七日に出羽国の内秋田・仙北両所を与えるという知行判物が正式に交付され、八月二日には佐竹家臣和田昭為と川井忠遠に湊城が引き渡された。これにより、佐竹義宣は秋田(秋田郡・檜山郡・豊島郡)と仙北(雄勝郡・平鹿郡・山本郡)の計六郡を支配することとなったが、石高は明示されていなかった。
それから六十二年後の寛文四年(1664)四月の知行判物によって、出羽国六郡で二十万石、下野国河内・都賀両郡内に五千八百石余、都合二十万五千八百石余の石高が初めて幕府から正式に認められた。これは二代藩主佐竹義隆の時代である。
寛文四年に久保田藩が幕府に提出した「六郡領地之高目録」は三十一万九千八百四十七石、「下野国之内二郡領地之高目録」は五千九百四十六石とあり、合計すると三十二万五千七百九十三石の検地高となっている。
佐竹義宣は慶長七年七月二十九日伏見を発ち、途中江戸に立ち寄り徳川秀忠に拝謁し、九月九日土崎の湊城に入った。
慶長八年(1603)の夏〜秋にかけて、浅利氏や小野寺氏の残党が各地で一揆を起こしたが、いずれも鎮圧された。
同年五月佐竹義宣は梶原政景を普請奉行に任じ、保戸野村久保田神明山を城地と定め、新たな居城の築城に着手した。翌九年(1604)八月二十八日本丸御殿が完成すると佐竹義宣は湊城から新城に移った。この城は久保田城(当初は窪田城)と称された。
江戸時代は藩名も久保田藩が通用されたが、明治四年(1871)に久保田藩から秋田藩と改称し、その年に廃藩置県となり秋田県が新たに成立する。
当サイトでは理解し易いように秋田久保田藩と称することとした。
秋田久保田藩の成立