松山合戦
 永禄五年(1562)八月二十四日、今泉城主田村宮内大夫顕頼入道月斎を大将に千余騎の田村勢が岩瀬郡松山城を落とし立て籠もる。

 この松山城は、松山という高所にあって城館というよりは臨時の砦という性格が強く横田城を間近に見下ろす位置にある。

 岩瀬勢は横田城に援兵を送り込み対峙するが進んで戦いを仕掛けることもなく、また松山城の城兵も城を出て戦いを仕掛けることがなかったので膠着状態となった。

 安心した田村月斎は松山城に千余の兵を残し、その他の兵は田村に帰し、自らも今泉城に帰ってしまった。

 その後、田村勢が今泉城より夜に紛れて兵糧を松山城に入れていることを知った岩瀬勢は、各所に伏兵を置き兵糧が入らないようにした。
 
 今泉城の田村月斎は、松山城の城兵を救うため五・六百騎を率いて松山城を囲む岩瀬勢に馳せ向かうが、逆に多くのものが討たれる結果となり、松山城の城兵も城を捨て今泉城に退却した。

 この戦いで十八歳になる須田源次郎が、兜の鉢を鉄砲で撃ち抜かれ討ち死にしたと伝わる。
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