御代田城攻囲戦
天正九年(1581)暮れ、芦名三浦介盛隆を総大将に芦名・二階堂勢は佐竹氏、岩城氏、白河氏、石川氏の加勢を得て田村郡の御代田城攻めを開始した。
翌年には、御代田城を三重四重に取り巻き完全に包囲した。この城は小さいながらも堅城であったので長期の攻囲戦となった。
城の周りの各陣所には方々から物を売りに来る者が集まり市のようであったという。またこの城は低地に築かれた平城であったので、攻囲勢は城中を見渡すため井楼を二つ建て攻撃したとのことである。
田村勢は攻囲勢が大軍勢であったため手出しが出来ず、籠城当初この城が阿武隈川に望む地に築かれているのを利用して、夜中に水練の達者な者に白米を背負わせ阿武隈川の川上より泳いで渡らせ城中に兵糧を入れさせていた。
しかし、これは間もなく攻囲勢の知るところとなり、川縁に弓・鉄砲を持たせた番衆を多数配置し泳ぎ来る者を討ち取らせたので、その後は兵糧の補給は完全に絶たれた。
田村大膳大夫清顕は岩城氏、畠山氏が後方より田村領に侵攻する構えを示したので、これ以上の戦いは困難と判断して和議を望んだ。御代田氏の菩提寺高安寺は須賀川普応寺の末寺であったので、田村清顕は高安寺の僧を普応寺に遣わし仲介を依頼した。
これは、芦名盛隆公の耳にも達したが、初めご承知されずにいたのを二階堂家の四天王が説得して漸くご承知願ったとのことである。
天正十年(1582)四月十八日和議が成立して、田村側は岩瀬郡のうち今泉、安積郡のうち守屋、富岡、鍋山、八幡、川田、成田、多田野、大槻、田村郡のうち谷田川、栃本、糠塚、御代田の十三ヶ村を芦名・二階堂側に引き渡した。
これにより籠城していた御代田城の将兵ならびに女子供は城を出て無事に田村領に落ちて行った。
御代田城には須田備前守が、今泉城には浜尾駿河守盛泰が城主として入り、新田館には遠藤対馬守、富岡館には須田三郎兵衛尉高真が遣わされた。
田村郡の数ヶ村は遠藤右近大夫と遠藤内蔵頭が知行した。多田野・大槻両氏からは人質を取って引き上げた。