芦名盛隆
芦名盛隆はもともとは二階堂盛義の長子である。天正十二年(1584)に亡くなり二十四歳であったというので逆算すると永禄四年(1561)の生まれということになる。
永禄十年(1567)、二階堂氏と芦名氏の和睦の条件として人質として会津に遣わされた。わずか七歳であったという。
ここのところは今川家に人質として遣わされた松平竹千代、後の徳川家康のことが思い出される。しかし松平竹千代と違って芦名氏は二階堂氏の御曹司を大切にしてくれたようである。
天正二年(1574)六月五日、芦名家の当主芦名盛興が二十六歳で突然病死した。盛興には継ぐべき男子はなく幼少の女子(後の芦名義広の正室、小杉山御台)が一人あった。
このため向羽黒山城に隠居していた芦名盛氏は黒川城にもどり当主に復帰したが、まもなく盛氏は盛興の室を自分の養女として二階堂盛隆をその婿に迎え芦名家を継がせることとした。
盛隆は当時まだ十四歳であり盛氏が後見していたであろうと考えられる。また盛興の室(彦姫)は伊達晴宗の四女(伊達輝宗の養女として輿入れ)で盛隆の母の妹にあたり叔母と結婚したことになる。
他家の人質から、その大名家の当主になるということは戦国時代を通じても他には例がないであろう。それだけ盛氏は盛隆の武将としての素質を買っていたということであろう。
芦名氏の当主が二階堂氏から迎えられたということで、それまで敵対関係にあった佐竹氏との関係が好転し、天正五年(1577)頃には芦名・佐竹・二階堂・岩城・白河・石川・畠山・大内氏の連合勢力が成立する素地が出来上がった。
実際、芦名氏と二階堂氏は佐竹・石川氏の加勢を得て、それまで劣勢であった田村氏との戦いで攻勢に転じている。天正十年(1582)には田村氏との間で有利な条件で和議を結び、多くの領地の割譲を勝ち取っている。
しかし、天正八年(1580)六月十七日、盛隆を後見してきた盛氏が亡くなると家臣団にも動揺がみられ、天正十二年(1584)六月十三日、盛隆が黒川城近郊の羽黒山東光寺に参詣に出かけた隙に、家臣の松本太郎行輔と栗村下総守が謀反を起こし黒川城を占拠した。
この報告を受けた盛隆は直ちに家臣を集め黒川城に松本・栗村両人を攻め討ち死にさせている。
天正九年(1581)、盛隆は織田信長のもとに使者を送り、三浦氏の嫡流であることを示す三浦介に任ぜられた。
これは三浦氏の嫡流が永正十三年(1516)に北条氏によって滅亡させられているとはいえ、三浦氏の傍流である芦名氏にとっては類を見ない破格の待遇であった。
天下統一を目指す織田信長が奥州に兵を進めるための布石を打ったといえばそれまでだが、単に機嫌をとるということだけであればそれ相当な官位官職を与えれば良いことで、あえて三浦介という由緒ある称号を与えたということは、盛隆の武将としての器量を織田信長も高く評価した結果だったのかもしれない。
これから戦国武将としての花が開こうとしていた盛隆であったが、天正十二年(1584)十月六日朝、屋形の縁側で鷹の餌付けをしていたときに家臣の大場三左衛門によって背後から刀で刺され絶命してしまう。
この大場三左衛門はもともとは他家に仕えていた者で、男色趣味があった盛隆がわざわざ他家から譲り受けて小姓にしたという。
また岩瀬郡牛袋村にあった神炊館神社の社家大場氏の出であるともいわれている。
事件の原因は盛隆と男色の相手であった大場三左衛門との関係が疎遠になったためといわれている。
盛隆には三人の実子があったが、上二人が女子で一人は二階堂氏の養女となり、のちに佐竹義宣の側室となった岩瀬御台で、もう一人はのちに相馬利胤の正室となった江戸崎御前である。
一番下が盛隆が亡くなる直前の九月十八日に生まれた亀若丸(亀王丸)である。この亀若丸は天正十四年(1586)十一月二十三日、三歳で早世しているが疱瘡で亡くなったという。