大里城籠城戦
大里城は別名牛ヶ城、武隈城とも呼ばれ、大里川を外堀として武隈山に築かれた山城である。三方が断崖絶壁で本丸、二の丸、三の丸、北小屋、西小屋などからなる天然の要害である。
戦国大名二階堂氏の時代には大里村は矢田野氏の所領で大里城には城代として桑名因幡守が派遣されていたという。
須賀川城落城後の翌天正十八年(1590)四月十五日に伊達政宗は片倉景綱、白石宗実、原田宗時ら百騎と共に会津黒川城を発ち小田原へ向かった。
伊達政宗が小田原底倉に到着したのは六月五日のことであったが、伊達政宗が留守にした間隙をついて矢田野城主矢田野藤三郎義正を大将に泉田館主泉田将監、明石田館主明石田左馬助など二階堂旧臣が大里城に籠城した。
伊達政宗に臣従した矢田野伊豆守隆行は小田原参陣に同行していたが、これを知って密かに逐電した。
大里城籠城を知った黒川城の留守居役伊達藤五郎成実は須賀川城と二階堂旧臣を与力として与えられていた三芦城主石川大和守昭光ならびに白河城主白河上野介義親入道不説斎に大里城討伐を命じ、伊達郡、信夫郡、刈田郡、柴田郡の兵にも援軍として赴くように命じた。
羽黒山に陣を布いた石川勢が大里城に攻撃を開始したのは六月二十三日で、その後も続々と伊達の援軍が到着し攻撃を仕掛けるが落城することなく、七月四日になり伊達成実、片倉景綱の軍勢も大里城に到着している。
しかし、数に勝る伊達勢が幾ら攻撃をしても城の守りは堅く一向に落ちる気配もなかった。
それどころか七月十九日に力攻めにより確保した水曲輪さえ、夜に紛れ忍んできた城兵により攻撃され討ち死にする者を出す有様であった。
このころには、三春城主田村孫七郎宗顕も参陣しているようで、周囲の大名は全て大里城攻めに動員されている。
岩瀬郡、安積郡、会津四郡を召し上げられた伊達政宗は七月十日前後には黒川城を豊臣秀吉の家臣木村弥一右衛門尉清久と浅野六右衛門正勝に明け渡し米沢城に移っているが、八月二日に伊達政宗が軍勢の総引き上げを命じるまでは大里城に対する攻撃は続いていたようである。
七月五日に小田原城が開城すると、豊臣秀吉は七月二十六日に宇都宮に到着し、八月九日には白河から長沼を経由し勢至堂峠を越え黒川城に入城した。
黒川城に入った豊臣秀吉は直ちに小田原に参陣しなかった大崎義隆、葛西晴信、石川昭光、白河義親、田村宗顕の領地を没収し、会津四郡、岩瀬郡、石川郡、白河郡、安積郡を蒲生氏郷に与えるなどの奥州仕置を行った。
この間、大里城籠城の経緯を知った豊臣秀吉は大里城の明け渡しを矢田野義正に命じたが、その武勇を賞め安房守の受領名を与るとともに、新領主蒲生氏郷に「本領を安堵してやれ」と下知したとのことである。
あわせて奥州矢田野安房守領内に於いて乱暴狼藉、火付けなどを禁止する命令が下されたことが、秋田久保田藩士矢田野家に伝わる豊臣秀吉の御朱印状によって分かる。
この大里城籠城戦は天下人豊臣秀吉にも知られ戦国大名二階堂氏の最期を飾るのに相応しい戦いとなった。
矢田野安房守義正はその後佐竹氏に仕え引渡二番座の家柄を与えられたが、元和九年(1623)六月三日、五十九歳で戦国武将としての一生を終えた。