戦国大名大内氏
戦国大名大内氏は小浜(おばま)城(二本松市小浜字下館)を居城として、安達郡の東半分(塩松地方)と伊達郡の一部を支配していた。
慶長六年(1601)八月十日の蒲生飛騨守秀行の領地改めによれば、安達郡とは別に塩の松三万五千二百八斗八升と記されているので、それに近い所領高であったと考えられる。
小浜城主大内氏は中国地方の大内氏と同族であるとして多々良姓を称している。家紋は大内菱を使用している。
大内氏の系譜によれば百済斉明王の第三子琳聖太子が周防国佐渡郡多々良浜(山口県防府市)に着岸し多々良氏を称したという。
さらに、その子孫が長門国吉敷郡大内県(山口県山口市)に居住して大内氏を称し、平安末期に盛房が周防介に任ぜられてからは、鎌倉時代には在庁官人として周防介または周防権介を世襲し、大内介とも称されたという。室町時代には周防国・長門国・石見国・豊前国・筑前国などの守護職を与えられ大守護大名に発展した。
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小浜城主大内氏は、もとは塩松地方を支配していた戦国大名石橋氏の家臣(四天王)であった。奥州石橋氏は幕府引付頭人石橋和義の嫡子棟義が貞治六年(1367)将軍足利義詮に反する奥州管領吉良治家らの鎮圧と奥州管領制を補強する任務を担って奥州総大将として奥州に派遣されたことに始まる。
当初石橋棟義の所領はおそらくは名取郡やのちの大谷保(以下宮城県)であったとみられるが、応永七年(1400)奥州探題で四本松城(宮森城)主宇都宮氏広が鎌倉公方足利満兼の命で大崎詮持・石橋棟義らによって滅ぼされると、その功により塩松地方が大崎詮持に与えられ、詮持の自害後は石橋棟義に与えられたと考えられている。御内書などをみると、当時幕府からの重要な伝達事項は奥州探題大崎氏から塩松石橋氏に、さらに石橋氏から二本松畠山氏へと伝えられているようである。
『小浜郷土読本』によれば、石橋氏の居城は初め上長折村の四本松城(古館)(二本松市上長折字古館)であったが、文明三年(1471)五代義衡(家博)の時に上太田村の四本松城(住吉城)(二本松市上太田)に移り、八代義久(尚義)の時に再び上長折村の四本松城に居城を移したという。
また、大内氏は元来、若狭国(福井県)小浜に居住していたが、晴継の代に塩松地方に来住し石橋棟義の家臣となり、その子宗政が文明年間(1469〜1487)に小浜城(下館)を築いて居城としたという。
しかしながら、大内氏はおそらくは石橋棟義の奥州下向に随行して来たと思われる。石橋氏は足利一門の斯波氏の庶流で、下野国河内郡石橋(栃木県下都賀郡石橋町)を発祥とするが、石橋和義が足利尊氏に従い功があり若狭守護に任ぜられているので、それから石橋氏と大内氏の主従関係が出来た可能性もあるのではないか。
名取熊野新宮社(宮城県名取市)の一切経の奥書には永和五年(1379)五月二十九日の日付で「奥州石橋殿御執事大内伊勢守致登仙道」と記されている。
また木幡山弁天堂の文明十四年(1482)十月の棟札には「大旦那源朝臣家博」とともに「大内備前守宗政」「大内備後顕祐」の名が、延徳二年(1490)四月戸沢熊野神社の棟札にも「大内備前宗政」と記されている。
天文十一年(1503)六月に勃発した「天文の乱」では、当初石橋尚義は伊達稙宗方であったが、天文十七年(1548)一月伊達晴宗方に転じたため、三月二本松城主畠山義氏に攻められた。その時の功によるものか、天文二十二年(1553)一月石橋尚義は伊達晴宗から伊達郡川俣五十沢を与えられている。
大内氏が戦国大名石橋氏を滅亡させ塩松地方を掌中にする過程はまさに下剋上そのままである。
『観集直山章』には「永禄十一(1568)、大内備前守(義綱、安達地方の史書によれば定治あるいは顕徳)田村隆顕に内応し、四本松大乱」とあり、おそらくはこの直後に石橋氏は大内氏のために滅亡したものと思われる。
伊達晴宗が本宮宗頼に宛てた書状によれば、石橋尚義の要請で伊達晴宗が出馬したことや、岩城重隆の協力を催促していることが知られており、また元亀二年(1571)田村郡蒲倉大祥院が「塩松旦那熊野参詣先達職」を安堵されていることは、これを裏付けるものとなるであろう。
永禄十二年(1569)には四天王の宮森城(上館)(二本松市小浜字上館)主大河内備中守が同じく四天王であった大内備前守・石川弾正・寺坂信濃守に攻められ滅亡したとされる。
また、天正二年(1574)六月、畠山義継と伊達輝宗との調停にあたって田村清顕は大内備前守を使者として伊達家に派遣しようとしているが、すでにこの頃には大内氏は塩松地方を統一し田村氏の旗下となっていたと考えられる。
天正四年(1576)田村清顕は大内備前守義綱を先陣として安積郡の片平城(郡山市片平町)主伊東大和守祐時を攻め、片平城を攻略すると城を大内義綱に与え、義綱の二男親綱を片平城主としたという。
また、翌五年とみられる大内太郎左衛門尉(のち備前守定綱)宛ての畠山義継の書状によれば、大内義綱が伊達輝宗を助けて相馬表に出陣していることがわかる。
天正十年(1582)四月、大内定綱は伊達輝宗に書状を送り伊具郡小斎城(宮城県伊具郡丸森町)の攻略を祝している。この頃はまだ大内氏が伊達ー田村ラインに留まっていたことは明らかである。
その一方で、大内氏はその息女を畠山氏の子息に嫁し両家は婚姻を通じて関係を深めていった。当時、畠山氏は芦名氏の旗下であり、、大内氏が田村氏から離反するよう畠山氏が働きかけたのは、二階堂氏と連合して田村氏と戦っている芦名盛隆の意向でもあったのであろう。
天正十一年(1583)春、ついに大内備前守定綱は畠山氏の後援を受け岩角城(本宮市和田)主石橋玄蕃允と共に田村方であった百目木城主(二本松市百目木字本館)石川弾正国久を攻めた。
これに対して、田村清顕は大内領の唐矢城を攻めるが敗れ、次いで糠沢城(本宮市糠沢)を攻め勝利した。翌十二年には田村清顕は橋本刑部少輔顕徳を大将に西新殿(二本松市西新殿)まで攻めさせたが、十石畑で大敗した。田村方の百五十余りの首は国境に林のごとく切り掛けられたという。
その後、田村方は青石(田村郡三春町青石か)に砦を構えたが、逆に五・六十人が討ち死にし、さらに田村方は初森(二本松市初森)に砦を構えたが、富沢式部少輔が生け捕られ三十人が討ち死にしたという。勝ちに乗じた大内定綱は自ら稲沢村滑津(本宮市稲沢字滑津)に出馬し押しかけた田村勢を破った。
同年八月、田村清顕は自ら千石森まで出馬し城を築いた。
同年十二月、大内定綱自ら出馬し城を攻撃し、田村勢は清顕の弟氏顕以下八百人が討ち死にした。この大敗を目の前にした田村清顕は「今は田村の命運も尽きた」と敵中に駆け入ろうとしたが、家臣の新田民部少輔が諫めて三春城(田村郡三春町)に退いたという。
天正十三年(1585)になると田村清顕から塩松退治を要請された伊達政宗は、七月大内定綱の家臣で刈松田城(伊達郡飯野町大字飯野字苅松田)主青木修理亮が内応を約束したので、八月上旬小梁川盛宗・白石宗実・浜田景隆・原田宗時を刈松田城近郊の飯野に、伊達成実を立子山(福島市立子山)に在陣させた。
伊達政宗自身も八月十二日信夫郡の杉目城(福島市杉妻町、のちの福島城)に到着し、同月十七日川俣(伊達郡川俣町)に本陣を移し、蕨平(伊達郡川俣町字山木屋)で田村清顕と対面して、来たる二十三日菊池顕綱が守る小手森城(二本松市針道字愛宕森)を攻めることを約した。
伊達勢は大雨のため予定より一日遅れの二十四日小手森城攻めを開始した。二十七日伊達勢によって小手森城が”総撫で”で攻略されると周辺の諸城が戦うことなく自落した。二十九日伊達政宗は築館城(二本松市鍛冶山)に本陣を移した。
九月二十二日伊達政宗は田村領の黒籠に本陣を移し、二十四日大場内館(本宮市白岩)を攻め、二十五日岩角城の状況を見回った。
このため、二本松への退路を断たれることを恐れた大内定綱は、その夜小浜城を放棄し二本松城に逃れ、さらに芦名氏を頼って会津に落ち延び、ここに戦国大名大内氏は滅亡した。
翌二十六日伊達政宗が小浜城に、父輝宗が宮森城に入城し、塩松地方は完全に伊達領に組み込まれた。十月八日阿武隈川畔の高田原(粟ノ巣)に於いて伊達輝宗を拉致しようとした畠山義継によって輝宗が殺害された。
十月十五日一万三千の伊達勢は畠山氏の居城二本松城(二本松市)攻めを開始したが落城させることが出来ず、二十一日大雪のため一旦小浜城に兵を引き揚げた。十一月上旬畠山氏を支援する佐竹・芦名・岩城・二階堂・白河・石川・相馬氏の連合軍三万が北上し、十七日人取り橋周辺で合戦となった。
天正十四年(1586)四月上旬、伊達政宗は再び二本松城を攻めるが、またしても落城させることが出来ず押さえの兵を残し小浜城に引き揚げた。
七月十六日相馬義胤・白河義親の仲介により、二本松城は無血開城することになり畠山国王丸は芦名氏を頼り会津に逃れ、ここに二本松畠山氏は滅亡した。
七月下旬、白石宗実がその功により安達郡塩松地方三十三郷を給され、刈田郡白石城から宮森城に移り、寺坂山城守・大内能登守などの大内旧臣を与力として預けられた。百目木城主石川国久には小手森城が与えられた。
八月上旬、伊達政宗は米沢城に帰還したが、同月下旬大内・畠山の旧臣で伊達に内応した諸士に対する論功行賞があった。
天正十六年(1588)二月十二日、大内定綱は片平城・高玉城・安子島城(以下郡山市)の兵を率いて苗代田城(安達郡本宮町)に押し寄せ籠もった地下人百人ほどを討ち殺し、守将本内主水を自害させた。
同年四月十二日、大内定綱と実弟安積郡の片平城主片平大和守親綱は伊達成実と片倉景綱の仲介により伊達政宗に内応した。
伊達政宗は三月二十日付で大内定綱に保原・懸田(以下伊達郡内)など数ヶ村の所領を充行うことを約束した判物を与えていた。その後大内定綱・片平親綱兄弟は、摺上原の戦い、須賀川城攻め、葛西・大崎一揆に従軍し軍功を上げている。
天正十九年(1591)大内定綱は胆沢郡二十余郷(石高は不明であるが一万石以上はあったとみられる)を与えられ前沢村(岩手県奥州市前沢区)に居住した。
定綱の子重綱は慶長十五年(1610)十五歳で家督を継ぐが、柴田惣四郎の家臣庄子下記を殺害したため千石に減禄され、寛永二十一年(1644)八月登米郡西郡村(宮城県登米市東和町西郡)に移住し、一族に列し千二百六十四石を領した。
その子孫は千三百石ほどを知行し、なかには奉行職に就く人物も輩出して明治維新を迎えた。なお伊達家臣には一族に列した大内氏の他に複数の分流とみられる家がある。
また定綱の弟片平親綱も天正十八年(1590)一族に列して千石を給され、加美郡谷地森村(宮城県加美郡加美町)に居住したが、その子孫は千百九十一石ほどを知行した。