下小山田合戦
 天正八年(1580)三月十二日、三春城主田村大膳大夫清顕の舎弟田村孫八郎重顕を大将に田村勢二千余が岩瀬郡塩田に侵攻して来た。

 これを知った河東郷の岩瀬勢が和田・浜尾・塩田の高所に集まり法螺貝を吹くと、これに応じて矢部下野守義政を始め河東郷の兵が各地から馳せ集まった。
 ただ当初より田村勢を難所に引き入れる考えで下小山田には兵を向かわせなかった。

 知らせを受けた須賀川城でも早鐘を突き、妙見山に烽火を上げ、牛袋より法螺貝を吹けば、これに応じた岩瀬郡北部の白方郷の兵が先を争って江持の渡しを渡って堤に陣取った。

 しかし、集まった百四・五十騎では田村勢には叶わないと考えた河東郷の兵は、紙の小旗を老若法師を問わず持ち運ばせ山陰あるいは森陰に立ち置かせ遠目からは数百騎に見せかけた。

 これを遠目に見た田村勢は北からの敵の備えに塩田の滝川の下辺りに二百騎を残し、岩瀬勢主力に四百余騎で馳せ向かった。

 岩瀬郡西部の広戸郷からは旗本衆が伏見の瀬を渡って二・三十騎馳せ集まって来た。

 二階堂盛義公は小山田の関、八幡山の陰、小作田の大六など方々に伏兵を置き、自らは僅か百騎を率いて賀須内川を前に陣取り御旗を立てた。

 これを見た田村勢は小勢と侮り、二階堂盛義公の馬印を目指し旗本衆に怒濤の勢いで襲い掛かってきた。
これに対して旗本衆は、兼ねての計画通り大六と北ノ内の間の難所に田村勢を誘い入れようと謀った。

 時を計っていた二階堂盛義公が賀須内川を越え兵を進めれば、各所に隠れていた伏兵も一同に田村勢に襲い掛かった。

 また、北に陣取った岩瀬勢も押さえとして塩田に残っていた田村勢二百騎に馳せ向かい、真っ先に突っ込んだ小倉の佐久間弥右衛門が討ち死にした。

 田村勢は南北より挟まれ、周囲より攻撃を受け、八幡山に登り逃げようとしたが叶わず、西も阿武隈川の岸が高く、所々に淵があって川も深く、船も橋もないので退く所がないと知った田村勢は逃れぬ所と観念して、子孫に恥を残すなと身命を惜しまず切って出たので敵味方入り乱れての乱戦となった。

 矢内和泉守は三騎を討ち取った。
 遠藤勘解由は度々高名している者であるが、終いに逃げる者は討ち取らず、しかし大勢と渡り合い多くの首を得た。
 田村勢の大将田村重顕は浜尾内蔵助と馬から落ちて組み打ちとなったが、田村重顕の郎党三十余人が主人を討たすなと切って掛かかる。

 これを見て浜尾内蔵助の子息善九郎と郎党が防戦したが、多勢に無勢のため危うくなった所に浜尾内蔵助父子を討たすなと一門衆が馳せ集まり、浜尾内蔵助は見事田村重顕を討ち取った。

 この浜尾善九郎は十七歳のとき武者修行に出かけ、相馬義胤の感状を取り十九歳になった去年十一月帰参した者である。

 田村勢は、阿武隈川の川下にある二叉の瀬より渡る所がないと知り、そこに人馬とも一気に押し寄せたが、和田城主須田美濃守、浜尾館主矢部伊勢守父子の軍勢が待ち構え、川より上がろうとしている敵を二・三十騎討ち取った。

 逃げ場を失った田村勢は、さらに中州を下り、砂山・車渡戸を目指して落ちて行ったが、戦い疲れた岩瀬勢は小勢なこともあり追撃しなかった。

 塩田に陣取った田村勢二百騎も田村勢の主力が壊滅したのを見て、塩田から谷田川あるいは小倉から栃本を目指して落ちて行った。

 戦いが終わり、二叉の河原で休息された二階堂盛義公のもとに二百余の首が到着した。
 味方で討ち死にした者は四・五十に過ぎなかった。

 二階堂盛義公は、西方衆をお伴に須賀川城に御帰陣した。

 翌十三日早朝、御一門保土原左近将監行藤入道江南斎、浜尾右衛門大夫行泰入道善斎、浜尾内蔵助、矢田野四郎左衛門尉、その他御一家衆、四天王、諸侍が登城して首実検の式が作法にのっとり丁重に執り行われ、田村重顕の首と死骸は杉の板で作られた箱に入れられ田村に送り返された。

 この合戦により浜尾内蔵助は三河守の受領名を賜り、浜尾善九郎は内蔵助の官途名を賜った。
 矢内和泉守と浜尾内匠は太刀を賜った。

 遠藤対馬守、矢部主膳、浜尾志摩守、浜尾筑前守(筑後守の誤りか)、朝日伊勢守、大波石見守、遠藤壱岐守、矢部伊予守もこの合戦により受領名・官途名を賜った者どもである。
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