渋川合戦
永禄二年(1559)二月二十五日早朝、三春城主田村大膳大夫清顕が千余騎を率いて安積郡富岡に侵攻して来た。
田村清顕は軍勢を二手に分け、一手を叔父田村宮内大夫顕頼入道月斎に預け鍋山方面に向かわせ、自らは渋川を前に陣取り岩瀬勢を待ち受けることとした。
これに対し、今泉城主矢部周防守、同伊勢守、舘ヶ岡城主須田備前守、新田館主浜尾右衛門大夫行泰入道善斎、子息駿河守、明石田館主明石田左馬助、越久館主越久豊前守の軍勢その他守屋、柱田、袋田、谷沢、畑田の援兵が渋川の対岸に馳せ集まり、二階堂照行公が来援するまでと防戦し、数では劣る岩瀬勢ではあったが身命を惜しまず戦ったので、田村勢この勢いに押され一旦八幡まで退却を余儀なくされた。
丁度その時分、田村月斎の陣所に石沢弥惣という者が訪れていた。
彼は元田村家臣であったが罪を犯し田村家を追放になり、今は今泉城主矢部周防守の家臣となっていた。
彼が言うには、もし元の田村での在所を与えて頂けるならば、今泉城に案内し導き入れる手筈を整えましょうということであった。
これを聞いた田村月斎は大いに悦び望みの通り叶えようと言った。
石沢弥惣に案内された今泉城には兵が出払っていておらず、田村月斎は難なく城を乗っ取ることが出来た。
城中に残っていた婦女子は矢沢、畑田、舘ヶ岡を目指して落ちて行った。
今泉城に入った田村月斎はそのまま城主となり岩瀬郡今泉を支配下に置いた。彼の支配は天正十年(1582)まで続いた。
今泉城主であった矢部周防守は、この城を失ったのち浜尾館の館主となり、彼が亡くなった後はその跡式を弟の矢部伊予守が嗣いだという。