戦国大名白河氏
戦国大名白河氏は白河城(福島県白河市)を居城として白河郡(西白河郡)、高野郡(東白川郡)などを支配していた。
文禄三年(1594)七月の『蒲生領高目録』によれば白河郡の石高は三万九千九百二十石四斗八升となっている。
当時の高野郡の正確な石高はわからないが、棚倉藩主内藤氏の寛文四年(1664)の領地朱印状では白川郡八十八ヶ村で高三万二千五百十四石五斗四升となっていて、これには現在の東白川郡全域に石川郡古殿町も含まれているので、それを除いた高野郡の石高は二万数千石(文禄四年六月に豊臣秀吉から佐竹義宣に交付された朱印状では奥州南郷の石高は二万六千八百石余となっている)であったと考えられる。
それから類推すると白河氏の所領高は白河・高野両郡で七万石ほど、佐竹氏に高野郡を奪われてからは四万石ほどであったと考えられる。
白河氏は秀郷流藤原氏を称し家紋に左三つ巴を使用している。
平安末期に大田氏の支流大田行政の子政光が下野大掾となって下野国都賀郡小山庄(栃木県小山市)に下向して小山氏を称した。政光が陸奥国岩瀬郡司に任ぜられていたことが古文書からも確認出来る。
政光の三男朝光は寿永二年(1183)に源頼朝から下総国結城郡を与えられ結城氏を称したが、さらに文治五年(1189)の奥州藤原氏追討の功で陸奥国白河庄を与えられたという。
正応二年(1289)に朝光の子朝広の次子祐広が初めて白河庄に移住し白河氏と称した。これとは別に朝広は白河庄において出家したという伝承があり、朝広の代には白河庄に移住する基盤が出来ていたのかもしれない。
鎌倉末期の段階では、白河庄の中心部荒砥崎村一帯は本宗である下総結城家の惣領結城朝祐の所領であり、白河庄の北部と南部も下総結城家一族の所領で、白河宗広の所領は白河庄の三分の一ほどにあたる阿武隈川流域の村々に限定されたものであったという。
千種忠顕に属して六波羅を攻撃した白河親光は宗広の次子という。建武新政において、後醍醐天皇は白河宗広・親朝父子に陸奥国依上保、宇多庄、金原保の惣地頭職を与えている。
さらに建武二年(1335)七月、「中先代の乱」に呼応して宗広の従兄弟結城盛広・舎弟祐義・上野左衛門大夫広光ら白河郡の下総結城一族・高野郡の小田一族・石川郡の石川一族らが石川郡長倉城に挙兵すると、陸奥国府(宮城県多賀城市)の式評定衆兼引付頭人であった親朝は、十月その混乱に乗じて白河郡・高野郡・岩瀬郡・安積郡・石河庄・田村庄・依上保・小野保の八郡検断職を手に入れる。
この職を得た親朝は、北朝方であった下総結城一族を白河郡内から駆逐するとともに、南朝の料所であった依上保の奉行となり、その年貢の沙汰を任され、さらに北朝方であった二階堂備中守時藤入道道存の岩瀬郡西方の所領が藤原英房と北畠顕信の料所として処分されると、その管理を任されるなど、奥州南部に於ける新たな権益を獲得していった。
このように宗広・親朝父子は、鎌倉末期には白河郡の一部しか支配していなかった白河氏が飛躍を遂げる基礎を築いたといえる。南朝方の武将として勢力を伸ばした白河氏であったが、康永二年(1343)八月、親朝は建武二年以前に支配していた所領の安堵と、南朝によって任ぜられた八郡検断職を足利尊氏が追認するという条件で北朝方に転じている。
しかし、この約束は室町幕府によってなかなか履行されなかった。
親朝は幕府に対して約束を果たすよう度々求めたが、貞和二年(1346)奥州管領として下向してきた吉良貞家・畠山国氏によって白河庄・岩瀬郡・小野保の検断職だけがようやく親朝に安堵された。
しかし、他の約束は依然としてなしのつぶてであった。
「観応の擾乱」が起こると、観応二年(1351)二月白河顕朝は足利直義派であった吉良貞家に味方して岩切城で戦っている。
戦いに勝利した吉良貞家は、足利尊氏が長年無視してきた建武二年以来の所領を約束通り白河顕朝 に安堵した。
これに対して、足利尊氏も同年八月白河顕朝・小峰朝常らの白河一族を自派に取り込むため同様に安堵している。
顕朝のあとは満朝、氏朝、直朝と継ぐが、満朝は小峰政常の子、氏朝は那須資朝の子、直朝は小峰朝親の子と、分家あるは他家からの養子である。
正長元年(1428)、京都扶持衆の白河氏朝は鎌倉府方の石川義光を攻め敗死させているが、幕府方である笹川公方足利満直はこれを追認して石川義光ならびに一族の所領を白河満朝・氏朝父子に与えている。
一方鎌倉公方持氏は石川義光の子持光に父の所領を安堵し、さらに稲村公方足利満貞は海道五郡とその他の諸氏に御教書を下して石川・相馬両氏の支援を要請している。
これは、同年白河氏の所領であった陸奥国宇多庄に於いて白河氏と相馬・懸田両氏が戦っていることに対してのものであろう。
当時、白河氏は南奥州の中小国人に対して強大な権力を有していて、嘉吉二〜三年(1442〜1443)には岩城岩崎氏の内訌に白河氏朝が介入している。
このように氏朝・直朝の代に白河氏は最盛期を迎えたが、永正七年(1510)九月九日、岩城氏と結んだ小峰氏による内訌により白河政朝が失脚すると、それ以降は各地にあった領地を失い、その所領はほぼ白河郡と高野郡に限られたものになり勢力は徐々に衰えていった。
応永二十九年(1422)に佐竹山入与義が自害すると、山入氏の所領であった常陸国の依上保と町田郷(山入城周辺)などは鎌倉公方持氏から料所として氏朝に預けられたが、永正元年(1504)佐竹義舜が山入氏を滅亡させると、同七年(1510)依上保は常陸守護佐竹義舜の所領となり陸奥国から常陸国に編入され、白河氏の所領は高野郡以北に限られてしまう。
天文十年(1541)、内訌を克服し常陸国奥七郡の支配を確立した佐竹義篤が高野郡の東舘(東白川郡矢祭町)を攻撃し、さらに油館方面に侵攻してきた。
これに対して白河晴綱は佐竹氏と東舘を破却するという条件で和議を結ぶ一方、一門の筆頭であった小峰隆綱(のち義親)の室に芦名盛氏の娘を迎え芦名氏と同盟し、さらに小田原の北条氏とも同盟して佐竹氏の北進を食い止めようとした。
しかし、永禄七年(1564)には佐竹義昭によって羽黒山城(東白川郡塙町)も攻略されてしまう。これ以降、佐竹氏は赤館(東白川郡棚倉町)以北を北郷と、それより以南を南郷と呼ぶようになる。
佐竹義重の代になると羽黒山城の北にある寺山城(東白川郡棚倉町)と赤館に対する攻撃が始まり、永禄十三年(1570)に寺山城が攻略されてしまう。
元亀二年(1571)になると白河氏を支援する芦名氏と佐竹氏が全面対決する状況となった。
この年、白河氏を支援する芦名勢が佐竹勢二千が籠もる羽黒山城を攻撃した。
佐竹勢は侍五十人が討ち死にして五百人の兵が戦死するという甚大な被害を受けながらも落城を免れている。
元亀三年(1572)七月、羽黒山城と寺山城から出撃した佐竹勢は赤館を攻撃して侍六十人を討ち取っているが落城させることは出来なかった。
天正元年(1573)、白河晴綱が亡くなった。
天正二年(1574)二月、佐竹氏は赤館を攻落し、次いで北郷に進撃して白河城を含む十ヶ城を攻略した。
小峰義親はなおも関和久城(西白河郡泉崎村)で失地回復を目指して抵抗を続けていたが、三月六日伊達輝宗の斡旋によって講和となった。
小峰義親は入道して不説斎と号し恭順の意を表した。
講和条件は赤館を含めた白河領からの撤兵であったが、佐竹義重は白河領の一部からしか撤兵しなかった。
このため両者はまもなく再び戦端を開くこととなった。
天正三年(1575)正月、白河氏に内訌が起き小峰義親が白河晴綱の九歳になる嫡子七若丸(のちの義顕)を追放してしまう。
これによって、小峰義親は白河家惣領の地位を得たが、佐竹義重はこの好機を逃さず、同年二月白河領に侵攻し義親を捕らえ、義親の弟善七郎(義名)を名代とすることで、白河氏を佐竹氏の旗下に組み込もうとした。
同年六月には、佐竹氏に随身した白河家臣に対して、佐竹義久から知行を約束した証状が出されている。
しかし、天正五年(1577)七月佐竹義重は白河城を出て赤館・寺山両城に退いたという。
このことは佐竹氏による白河領支配が未だ不安定であったものと考えられている。
天正六年(1578)八月、佐竹義重・東義久は白河義親に起請文を与えている。
これは下総国の結城晴朝の調停によって講和した時のものであるが、この時の講和条件は佐竹義重の次男(喝食丸、のちの義広)が白河氏を相続すること、赤館は白河氏に渡すこと、たとえ調停人が入っても石川領を白河に渡すことであった。
天正七年(1579)二月頃、四歳の喝食丸が白河城に入り、白河義親がその後見人となったと考えられている。
しかし講和条件の一つ、白河氏への石川領割譲は結局実現しなかったものとみられている。
天正十五年(1587)三月、白河義広が芦名氏の婿養子となり会津黒川城に移った。
これによって白河義親が実質的に白河氏の当主に復帰したものと考えられている。
天正十七年(1589)七月頃、白河上野介義親入道不説斎は伊達政宗に服属した。
天正十八年(1590)八月、豊臣秀吉の奥羽仕置によって白河氏は所領を没収され戦国大名として終わりを遂げた。
慶長七年(1602)六月(六年とする資料もある)、白河義親は伊達家に仕え客分として扶持方百口を給された。
義親の孫義実の代に玉造郡下真山村小坪(宮城県玉造郡岩出山町下山里字下真山)に居住し下真山村と磐井郡西口村(岩手県磐井郡藤沢町西口)で五百五十石を給され一族に列した。
さらに宗広の代に一門に列し、村親の代には栗原郡一迫真坂村(宮城県栗原市一迫真坂)に移住し、真坂村と下真山村で千七十三石余の禄高となった。
小峰義親によって追放された白河義顕の子朝綱は、元和二年(1616)秋田久保田藩に仕え角館(秋田県仙北市角館町)に居住した。
その子朝誉は、寛文九年(1669)角館より久保田(秋田県秋田市)に移り、貞亨四年(1687)二百石の禄高となり廻座の家格となった。
その嫡家は後に白川姓から結城姓に復姓し、分家は小峰姓を称して幕末に至った。