遠藤氏 |
遠藤氏惣領家は山寺村が本領であったと考えられる。二階堂為氏に伴って岩瀬郡に下向してきた古くからの家臣で、家中では二階堂氏の家宰的な役を担ったと考えられる。その出自は遠江工藤氏であろう。天正十七年(1589)十月遠藤雅楽頭勝重は須賀川城に籠城し、旗本衆を率いて本丸の守備に就いた。一族の多くもこれに従った。一族の遠藤壱岐守は大黒石口で戦っていたが、その勇戦が伊達政宗の目に留まり生け捕られ、のち伊達政宗に仕えて遠藤但馬と改め、慶長五年(1600)十月最上氏を救援する軍勢に加わり活躍した。遠藤対馬守も落城後伊達政宗に仕え、その子孫は仙台藩士となり四十石余を知行した。家紋は松川菱である。 |
須田氏 |
須田氏惣領家は和田村、日照田村、田中村、下小山田村が本領であったと考えられる。須賀川神炊館神社宮司家(盛秀二男の系統)に伝わる系図では清和源氏義綱流(系図では朝敵名を恐れ、宇多源氏佐々木氏に改姓したとある)を称し、奥州藤原氏追討の功により建久七年(1196)二月須田美濃守秀範が始めて岩瀬郡に下向して和田城に入るとある。秋田久保田藩士(盛秀三男の系統)の系図ではその前文で須賀川城落城時系図証文等を焼失し詳細は不明であるが、有力な口伝によれば佐々木四郎高綱の末葉であるとしていて、出版されている家系についての書籍はこれを採録しているものが多い。天正十七年(1589)十月の須賀川城籠城戦では須田美濃守盛秀は実質的な総大将として籠城を指揮し、南ノ原口の守備に就いた。一族の多くもこれに従った。しかし一族のうち笹川城主須田佐渡守頼隆は、『伊達家治家記録』などによると、天正十六年の郡山合戦の前には伊達氏に仕えたと考えられる。また天正十六年謀反の疑いで誅伐された蔀久保館主須田大膳大夫(大膳亮)の家督を継承した須田右衛門佐治次も、天正十七年十一月二十四日伊達政宗が発給した知行宛行状によれば、雨田三百五十貫文、上小山田百七十貫文を安堵されているので伊達氏に仕えていたとみられる。須田美濃守盛秀は須賀川落城後常陸国に落ち延び佐竹氏に仕え、文禄四年(1595)茂木城(栃木県芳賀郡茂木町)代として一万石を、慶長七年(1602)佐竹氏が出羽国に移封されてからは横手城(秋田県横手市)代として表高三千八百石(実高二千四百石)を知行した。その後盛秀の孫盛品は陪臣と扱われることに反発した茂木百騎と対立し、寛文十二年(1672)横手城代を免ぜられ久保田へ移った。その子孫は家老職に就くものを多く輩出し、江戸時代を通じて廻座の家格と二千石余の家禄を維持し、佐竹十二大将の一家として明治維新を迎えた。家紋は嫡流は隅立て四つ目結で旗紋・幕紋とも同じ、、分流は丸に角立て四つ目結あるいは丸に平四つ目結、替紋として嫡分流とも丸に二つ引きを使用している。 |
矢部氏 |
天正十七年(1589)十月の須賀川城籠城戦では矢部下野守義政は伊達氏に仕える。天正十七年十一月二十二日伊達政宗が発給した知行宛行状によれば、狸森千貫文、大栗三百五十貫文、堤三百五十貫文、なとり百七十五貫文、都合千八百七十五貫文が矢部氏惣領家の本領であった。その系図では桓武平氏を称し三浦義明の二男義澄の後裔という。また矢部正清の叔母が二階堂式部大輔為治の室であったともいう。延元四年(1339)奥州評定衆の一人藤原式部少輔英房と道存家人矢部又次郎が、岩瀬郡河東郷大栗・狢森の所領を争ったという古文書が残っているので、この当時すでに木船城主矢部氏は大栗村と狸森村を本領とする行村系二階堂氏の家臣であったことが分かる。一族である越久館主越久(矢部)豊前守義久も天正十七年に伊達氏に仕え越久三百五十貫文給分二貫文を安堵されている。その他の矢部一族は須賀川城に籠城した者が多い。幕紋は抱え茗荷、家紋は丸の内に三引き、替紋として丸に桔梗を使用している。 |
守屋氏 |
古くは応永十一年(1404)七月のものと考えられる笹川・稲村両公方に忠誠を誓った傘連判状に守屋藤原祐国の名前がある。守屋氏は二階堂氏族とする書籍もあるが、私は伊東氏族が通字とする「祐」の字を実名に使用していること、二階堂家臣団において一門・一族とされず、四天王の地位にあることを考えると伊東氏族あるいは二階堂氏族以外の在地武士と考えるのが妥当であると思っている。天正十七年(1589)十月二十六日の須賀川城籠城戦では守屋筑後守俊重は雨呼口の守備に就いているが、伊達政宗に内応し二階堂家の菩提所であった長禄寺に火を放ち落城の切っ掛けを作った。天正十七年十一月二十二日伊達政宗が発給した知行宛行状によれば、中宿三百五十貫文、守屋百七十五貫文、都合五百二十五貫文が守屋氏惣領家の本領であった。俊重はその後も伊達家に仕えたが、俊重の子重国以降は無嫡のため断絶している。また俊重の弟守屋采女正重清も伊達政宗に内応し天正十七年十一月十日稲村一円を安堵されている。伊達家に仕えた重清の孫伝右衛門重次の代には百二十石、その子孫は次間番士として七十一石余を知行する家などがあった。家紋は梅花、丸に橘、輪に橘である。 |