戦国大名相馬氏
 戦国大名相馬氏は小高城(福島県南相馬市小高区八景)を居城として行方郡、宇多郡、標葉郡などを支配していた。

 相馬氏は、系図では平将門を祖としていて桓武平氏良将流を称している。それによると将門が下総国相馬郡(茨城県北相馬郡)を領し相馬小次郎と称して相馬氏の祖となったという。

 「平将門の乱」により一族はほとんど誅されたが、将門の子将国が常陸国信太郡に落ち延び、その子文国の代に信田小太郎と称して、以後数代に渡って信田氏を称したという。

 文国から六代の後裔重国は千葉常兼に養われて下総国相馬郡に帰り、その子胤国から再び相馬氏を称したという。

 さらに、胤国の子師国には嫡子がなく千葉常胤の次男師常が養子となり相馬氏を継承したという。治承四年(1180)九月、相馬師常は実父千葉常胤とともに下総国府に源頼朝を迎え、頼朝の平氏追討に数々の功をあげた。
 また、文治五年(1189)の奥州藤原氏追討にも千葉常胤は八田知家らと海道方面の総大将となり常陸国・下総国の兵を率いて功をあげたが、九月に行われた論功行賞では千葉常胤とその一族は最大の功労者として頼朝から海道に多くの所領を与えられた。

 相馬師常もまたその行賞により陸奥国行方郡を与えられ、本領である下総国相馬郡とともに、これを兼領した。これが相馬氏と陸奥国との間に関係が生じる始まりとなった。

 師常から四代の後裔胤村のとき、その遺領が九人の子に配分されたが、なかでも長子胤氏が下総国相馬郡の大部分を、当腹嫡子であった五男師胤が下総相馬郡の一部と陸奥国行方郡の大部分というように、この二人が多くの所領の配分を受けたものと考えられている。

 このため一族内に所領をめぐる対立が生じ、さらに北条氏の内管領長崎氏との間にも陸奥国行方郡内の所領をめぐって争いが生じたことから、師胤の子重胤は元亨三年(1323)四月二十一日、一族郎党八十三騎を従え本領であった下総国相馬郡増尾村から陸奥国行方郡太田村の別所館(南相馬市原町区中太田)に移住した。このため相馬重胤が奥州相馬氏の始祖とされている。

 南奥州の戦国大名に発展する奥州相馬氏は九曜を家紋としている。

 重胤は嘉暦元年(1326)に行方郡小高郷を支配していた行方氏を配下にし、行方氏の居城堀内館(南相馬市小高区八県)に移った。

 相馬氏は建武二年(1335)にはじまる南北朝の動乱に際して、一貫して北朝方に属して各地を転戦し活躍している。

 建武三年(1336)二月には、南朝方の攻撃に備えて堀内館を改めて以後約三世紀に渡って相馬氏の居城となる小高城を築城した。 

 相馬重胤と嫡子親胤は斯波家長に属して鎌倉にあって、建武三年四月北畠顕家の軍勢を相模国片瀬川に迎撃したが敗れ、一族の岡田胤康らが討ち死にし、重胤もまた鎌倉の法華堂下で自害した。

 重胤の留守を守っていた次男光胤は、親胤の嫡子松鶴丸(胤頼)を擁して小高城で南朝方の攻撃に備えていた。
 同年三月十六日、光胤らは宇多郡の熊野堂城(相馬市中野)にあった白河宗広の一族中村六郎広重と黒木城(相馬市黒木)の黒木大膳亮正光を攻撃した。

 三月二十二日には広橋経泰が、四月九日には国魂行泰が小高城に来襲した。五月二十四日、広橋経泰と相馬胤平の軍勢を糾合した北畠顕家の大軍が小高城を攻撃し、光胤は一族岡田長胤・胤治・胤俊らとともに討ち死にし小高城は落城した。

 当時十三歳の松鶴丸は城を落ち延び釘野山(南相馬市小高区金谷)の山中に身を隠した。

 翌正月、斯波兼頼が奥州に下向するとの報に接した松鶴丸は再び蜂起し小高城を奪い返した。

 松鶴丸は岡田氏・武石氏・大悲山氏などを結集し、一月二十六日中村広重の熊野堂城を攻撃し落城させた。

 この直後、足利尊氏に従っていた親胤も小高城に帰ったらしく、二月二十一日石塔義房とともに常陸国の関城を攻撃している。

 文和二年(1353)五月、北朝方は宇津峯城の総攻撃を行い、ついに四日これを落城させた。北畠顕信は守永親王を奉じて出羽へ逃れ、北朝方の奥州支配はここに確定した。

 翌年、相馬胤頼に黒川郡南迫が兵糧料所として預け置かれ、高城保が安堵された。これは宇津峯城攻めの恩賞とみられている。

 また、康安元年(1361)胤頼は讃岐守に推挙され、翌年東海道検断職に補任されている。 

 応永十三年(1406)八月、足利一門の岩松蔵人義政が鎌倉から下向して行方郡千倉庄横手村(南相馬市鹿島区横手)に居住した。

 応永二十六年(1419)岩松義政が死去すると、岩松氏の家臣は遺子を殺し相馬氏に服属した。

 正長六年(1428)宇多庄をめぐって相馬氏と白河氏とが対立して「宇多庄合戦」といわれる紛争が起きた。

 十月将軍足利義教は紛争の停止を命じたが、鎌倉公方足利持氏は白河氏と対立関係にあった石川氏を通じて相馬氏を支援した。

 伊達氏も懸田氏とともに相馬・石川両氏を支援したが、結局伊達持宗の仲介で永享元年(1429)九月宇多庄をめぐる紛争は一応収まった。

 宇多庄は建武二年(1335)に後醍醐天皇の綸旨をもって白河宗広に与えられたが、他方足利尊氏は建武四年(1337)これを佐竹貞義に与えている。

 また貞治六年(1367)には胤頼が吉良治家から宇多庄を安堵されている。ただこれは実効性がなかったらしく、永享七年(1435)の白河氏朝棟札などによれば、白河氏の宇多庄領有は十五世紀まで継承されていたようである。

 文安二年(1445)牛越城(南相馬市原町区牛越)主牛越定綱が飯崎館(南相馬市小高区飯崎)主飯崎紀伊守らとともに相馬高胤に叛いた。

 高胤は苦戦のすえ、ようやくこれを鎮定した。

 明応元年(1492)六月、高胤は標葉郡の標葉氏を攻めていたが、中渋井(双葉郡浪江町満開)の陣中で急死し相馬勢は一旦小高城に引き上げた。

 同年十二月、家督を継いだ相馬盛胤は権現堂城(双葉郡浪江町西台)を攻撃し、標葉清隆・隆成父子を自害させ標葉郡を完全に支配下に置いた。

 天文三年(1534)相馬顕胤は岩城重隆の娘と伊達晴宗との婚約を仲介したが、重隆は娘を白河晴綱に嫁がせようとしたので、怒った顕胤は岩城領であった富岡・久之浜・四倉を攻めた。

 のち久之浜と四倉は岩城氏に返し、木戸と富岡を相馬領とし木戸城には下浦常陸守泰清を、富岡城には弟相馬孫三郎胤乗を配した。

 天文十一年(1542)六月、伊達稙宗・晴宗父子が対立し、晴宗が西山城に稙宗を幽閉するという事件が起こった。稙宗の娘婿であった顕胤は懸田俊宗の懸田城に出陣した。

 その後、稙宗は伊達家中の小梁川宗朝によって救出されたが、稙宗方に相馬・田村・二階堂・芦名・懸田・畠山・石橋・亘理・国分氏ら、晴宗方に岩城・本宮・留守・白石氏らが味方し相方対峙し、、九月至って二本松付近で武力衝突し、近隣の諸氏を巻き込んだ「天文の乱」といわれる大乱に発展した。

 顕胤もまた信夫郡・伊達郡を転戦しているが、その間に黒木城主黒木弾正信房と中村城主中村大膳義房兄弟が叛き、田中城(南相馬市鹿島区台田中)を攻めようとしたのを相善原(相馬郡新地町駒ヶ峯)に破って宇多郡を掌握し、黒木城に青田信濃守顕治を、中村城(相馬市中村)に草野式部直清を配した。

 ここに相馬氏は宇多郡・行方郡・標葉郡にわたる支配権を確立して、さらに盛胤の代にはその領域を北は伊具郡の一部、南は楢葉郡の木戸・富岡にまで広げ頂点に達した。

 「天文の乱」が終息したのが天文十七年(1548)であるが、翌年顕胤が死去して嫡子盛胤が家督を継いだ。
 永禄七年(1564)相馬盛胤は伊具郡に侵攻し金津城(宮城県角田市金津)と小斎城(宮城県伊具郡丸森町)を攻めた。

 永禄八年(1565)伊具郡の丸森城で隠居していた伊達稙宗が死去した。稙宗が隠居料として貰っていた丸森五ヶ村を、稙宗の世話をした長女の嫁ぎ先相馬氏がそのまま所領としたため、相馬氏と伊達氏の伊具郡をめぐる抗争が激化した。

 永禄九年(1566)、盛胤は金津・小斎両城を攻略し、さらに金山城を落城させた。盛胤は小斎城に佐藤宮内を、金山城(宮城県伊具郡丸森町)に藤橋紀伊守を配した。

 また、この年伊達勢に備えて宇多郡に蓑首城(新地城)(相馬郡新地町谷地小屋)を築いた。

 元亀元年(1570)、盛胤・義胤父子は伊具郡の丸森城(宮城県伊具郡丸森町)を攻略し門馬大和守を配した。

 しかし、他方で丸森城出陣の隙を窺っていた岩城親隆によって富岡城と木戸城を奪還されてしまった。

 天正六年(1578)盛胤の嫡子義胤が家督を継いだ。盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入り、のち中村城西館に移り中村城主で子息の相馬隆胤の後見役となった。

 天正九年(1581)四月、伊具郡の小斎城主佐藤伊勢守・宮内父子が伊達方に寝返ったため、伊達輝宗・政宗父子は角田城(宮城県角田市)より伊具郡矢野目に出陣し、盛胤・義胤父子もまた伊具郡大内に出陣した。

 この年の暮れまで金山・丸森両城をめぐる攻防や、伊具郡矢野目および宇多郡駒ヶ峯小深田での戦いなどが打ち続いた。翌年になっても金山・丸森両城をめぐる攻防は続き、伊具郡矢野目・冥加山・館山などでも戦いが展開された。

 天正十一年(1583)四月、相馬勢は伊具郡金津付近で伊達勢と戦い敗れ金津城を失った。さらに五月には丸森城が伊達勢に攻略されてしまう。

 天正十二年(1584)五月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重による斡旋により、伊達氏と相馬氏は和睦し金山城と丸森城が伊達氏に返還された。

 天正十三年(1585)十一月、第一次人取り橋の合戦に相馬氏も反伊達連合軍側として参陣している。

 天正十四年(1586)十月九日、三春城主田村清顕が死去し、田村家中で伊達派と相馬派との対立が表面化すると、伊達氏と相馬氏との対立も再び激化する。

 天正十六年(1588)五月十二日、義胤は相馬派家臣の手引きによって三春城入城を企てるが、伊達派家臣の攻撃により入城を断念して帰陣した。

 天正十七年(1589)五月十九日、伊達政宗が宇多郡に侵攻して駒ヶ峯城が攻略され、二十日には蓑首城も攻略された。蓑首城には亘理重宗が入り宇多郡北部は伊達領となった。

 これに対して、相馬義胤は七月に亘理郡の鳥の海(宮城県亘理郡亘理町)と坂元(宮城県亘理郡山元町)に於いて伊達勢と戦うも劣勢を挽回することは出来なかった。

 天正十八年(1590)三月、宇多郡大沢(相馬郡新地町)に於いて伊達勢と合戦し、四月蓑首城を攻撃するも敗北した。

 同年五月十四日、相馬盛胤・相馬隆胤の軍勢が駒ヶ峯城を攻撃するため塚部の小豆畑(相馬市塚部)に於いて黒木宗元・亘理重宗の伊達勢と合戦するが敗北し、黒木城主門馬上総守、水谷尾張守、牛渡玄蕃などの重臣が討ち死にし、隆胤は童生淵(相馬市石上)で斬られた。度重なる敗戦により家中は和戦二つの意見に分かれた。

 中村城に隠居していた盛胤は小高城に義胤を訪ね、家名を全うするためには伊達氏への服属もやむなしとの意見を述べたが、義胤は伊達政宗の旗下となって家名を汚すよりは徹底抗戦して滅亡すべきであると主張し、盛胤も最終的にはこれに同意した。

 このように滅亡も覚悟した相馬氏であったが、幸運なことに豊臣秀吉の小田原城攻めによって相馬氏は滅亡の危機を脱することとなる。

 同年五月下旬、義胤は小田原に参陣し豊臣秀吉に謁見した。

 同年十二月七日、豊臣秀吉から伊達氏との抗争で失った宇多郡北部の九ヶ村を除いた宇多郡南部、行方郡、標葉郡において四万八千七百石を正式に安堵された。

 さらに、文禄二年(1593)九月の検地では六万四百二十八石余(六千四十二貫八百四十三文)となり、近世における相馬藩の表高六万石はここに確定された。 

 慶長元年(1596)義胤の嫡子虎王が元服して三胤と名乗る。

 同年、三胤は伏見で豊臣秀吉に謁見して従五位下大膳亮に叙位任官し、常陸国江戸崎城主芦名盛重の娘(実は芦名盛隆の子)と婚姻を結ぶ。

 慶長二年(1597)五月、居城を小高城から牛越城へ移した。

 慶長六年(1601)五月十五日、三胤の室芦名氏(江戸崎御前)が牛越城で死去し、十月十六日には盛胤が死去した。

 慶長七年(1602)五月十二日、相馬氏は佐竹氏の与力大名であったため改易を言い渡される。

 同年六月二日、義胤は三春領大倉に退去し、三胤は名を密胤と改め訴状を提出するため江戸へ発向した。

 同年十月、密胤の訴えが聞き届けられ旧領安堵の沙汰を受ける。

 同年十二月、密胤は徳川秀忠の命により土屋忠直の妹と婚姻を結び、名を利胤と改めた。

 慶長八年(1603)、利胤は居城を牛越城より再び小高城に戻した。

 慶長十六年(1611)十二月二日、利胤は居城を小高城より中村城に移した。

 福島県の戦国大名家のうち相馬氏は、唯一その所領を替えられることもなく近世大名家として生き残り、明治維新まで存続した。

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