武将名 | 抄 伝 |
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遠藤勝重 | 生年不詳〜天正十七年(1589) 山寺館主遠藤壱岐守勝高の嫡男。 官途名雅楽頭。 二階堂四天王。 天正十七年(1589)十月二十六日、須賀川城に籠城して奮戦後南ノ原口に於いて嫡男彦一郎と共に討ち死にした。勝重の室は落城後二人の討ち死にを知り、阿武隈川に身を投げて自害したという。下の二首は室の辞世である。 「無人の 爰にくるまの なきとても めぐりあはなん 一つ蓮に」 「後の世も 阿武隈川に 身を投て 浮ぶは深き えにし成りけり」 勝重の七歳の遺児は乳母に抱かれ小作田村に落ち蛭館に居住し、元服して左馬助勝久と名乗り、その後前田川村に移り庄屋となったという。 |
須田盛秀 | 享禄3年(1530)〜寛永2年(1625) 和田城主須田美濃守秀行の嫡男。 通称名源次郎。受領名美濃守。 二階堂四天王。家老。 天正十年(1582)二階堂行親が十三歳で早世すると、二階堂盛義の後室大乗院を助け国務を執り行う。天正十七年(1589)十月二十六日実質的な総大将として須賀川城に籠城し伊達政宗と戦う。須賀川城落城後は自らの居城和田城を自焼して、佐竹氏を頼り常陸国(茨城県)に落ち佐竹義宣に仕えた。 文禄四年(1595)下野国茂木城(栃木県芳賀郡茂木町)主として一万石を給され、須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣など百騎(茂木百騎)を預けられた。盛秀は義宣の信頼が厚く、「関ヶ原の戦い」の二年後の慶長七年(1602)義宣が常陸国五十四万石から出羽国(秋田県)二十万石に減知移封されると、角館城を受け取り城代となった。さらに翌八年横手城代となり三千八百石(実高二千四百石)を給された。元和五年(1619)の正月より、旧功並びに老年のため盛秀一代に限り一門の末席(引渡二番座)を許され酒杯を賜る。 寛永二年(1625)八月晦日卒する。九十六歳であった。秋田県横手市の天仙寺に墓があり、法名は傑翁宗英大禅定門である。 盛秀の家督は同年十一月二十六日孫娘婿盛久(宇都宮家臣で笠間城主玉生美濃守高宗の子、玉生八兵衛武宗、盛秀の三男盛方の娘婿であった縁で、盛方亡きあと盛秀の養子となり須田盛久と名乗る)が継いだ。 なお寛永元年(1624)に改易され秋田久保田藩にお預けの身となった本多正純・正勝父子を横手で監視役として預かったのは盛秀である。 盛秀の嫡孫(家格は廻座)は家老職・執政職を多く輩出したが、特に明治維新で活躍した須田政三郎盛貞は著名である。 |
矢部義政 | 生没年不詳 木船城(狸森城)主。 受領名下野守。 二階堂四天王。 天正十七年(1589)十月二十六日、伊達政宗の須賀川城攻めに際して、政宗に内応していて、木船城に引き籠もったままであった。以後伊達政宗に仕えた。 |
守屋俊重 | 生没年不詳 守屋館主守屋筑後守秀重の嫡男。 受領名筑後守。 二階堂四天王。 天正十七年(1589)十月二十六日、須賀川城に籠城するが、すでに伊達政宗に内応しており、戦いが始まると二階堂氏の菩提所長禄寺に放火し落城の切っ掛けをつくった。以後伊達政宗に仕えた。 |
矢田野義正 | 永禄八年(1565)〜元和九年(1623) 矢田野館主矢田野信濃守行正の嫡男。 通称名藤三郎。受領名安房守。 二階堂一門。 天正十六年(1588)六〜七月の郡山合戦で伊東肥前守重親を討ち取ったという。 天正十七年(1589)十月の伊達政宗による須賀川城攻めの際、須賀川城には一族の矢田野伊豆守隆行と矢田野右近秀行を派遣して、自らは居城矢田野館に籠城し抗戦した。 翌十八年(1590)四月十五日伊達政宗が小田原に参陣するため会津を発つと、義正は泉田館主泉田将監・明石田館主明石田左馬助ら二階堂旧臣と語らって大里城に籠城して反旗を翻した。伊達軍の大里城攻めが開始されたのは六月二十三日であるが、攻撃は八月二日まで続いた。会津へ向かう途中で大里城の経緯を知った豊臣秀吉は、義正に大里城の引き渡しを命じたが、安房守の受領名を与えるとともに、蒲生氏郷に本領を安堵してやるようにと口添えをした。しかし義正は氏郷の家臣になることを嫌い、八月六日大里城を焼き払い佐竹氏を頼り常陸国(茨城県)へ移った。 慶長七年(1602)佐竹義宣が常陸国から出羽国に移封されると院内城代として五百石を給され、家格も引渡二番座とされ一門として遇された。 元和九年(1623)六月三日卒する。五十九歳であった。秋田県湯沢市上院内の信翁院に義正の墓とされる碑があるとのこと。 |
保土原行藤 | 天文七年(1538)〜元和六年(1620) 保土原館主保土原兵部大輔行有の嫡男。 官途名左近将監(大夫)。入道号江南斎。 二階堂一門。 天正十七年(1589)十月二十六日、伊達政宗の須賀川城攻めに際して、政宗に内応、須賀川城攻めの先陣をつとめた。以後伊達政宗に仕え、政宗が旧大崎・葛西領に移封されると、志田郡新沼村(宮城県志田郡三本木町新沼)で百貫文(千石)を給され、家格も準一家とされた。 元和六年(1620)正月七日卒する。八十三歳であった。宮城県志田郡三本木町新沼の円通寺に墓があり、法名は紫雲院殿龍叟希蘊大居士である。 |
浜尾行泰 | 天文十一年(1542)〜元和八年(1622) 新田館主浜尾右衛門大夫(豊前守)儀泰の嫡男。 官途名右衛門大夫。入道号善斎(漸斎)。 二階堂一門。 天正十年(1582)四月、新田城を遠藤対馬守に渡し今泉城へ移る。 天正十七年(1589)十月二十六日、伊達政宗の須賀川城攻めに際して、嫡男浜尾駿河守盛泰・弟浜尾豊前守宗泰とともに政宗に内応、須賀川城攻めの先陣をつとめた。以後伊達政宗に仕えた。 元和八年(1622)二月二十三日卒する。八十一歳であった。法名は朝巌宗公である。 |
塩田政繁 | 天文二十三年(1554)〜天正十七年(1589) 細桙城主塩田因幡守重政の嫡男。 官途名右近大夫。 系図には天正十七年(1589)十月二十三日出陣し落城後自害とあるが、石川郡に隠れていた塩田一族を伊達政宗は石川昭光に命じて誅させたと記録にはあり、法名も法恭院殿刃英源公大居士となっていて、法名に刃という字が使われていることから、自害ではなく処刑されたものと考えられる。 |