永禄十二年(1569)十月、武田信玄が小田原城に侵攻して来るのに備えて、北条氏の足軽大将で田原城主の大藤式部丞が寄子の着到人数を調べたところ、五百四人の軍役数に対して百六十七人の不足があり、武士にいたっては半数が不足していたという。

 これは足軽・中間・小者は百姓から徴発しているので、どうにか数を揃えることが出来たが、武士は多くの戦いで討ち死にしていて半分しか数が揃わないということを示している。

 これによっても戦国時代の戦いが如何に人的消耗戦であったのかがわかる。
 そのため北条氏は動員した百姓を不足した武士の代わりとして、その軍勢が見苦しくない形で参陣することを各武将に命じている。

 実際、討ち死にした武将の家では継ぐ者がいなくなり絶家となることも多かったようである。 

 その場合、他の武将が知行地と寄子を受け継いだようである。
 このような状況は北条氏の領国内だけのことではなかったであろう。

 戦国大名二階堂氏も周囲の大名家と度々合戦に及んでいるので同じような状況にあったのではないかと思う。

 戦国時代において武士の家を守るということが如何に困難であったかが推測できる話である。

 足軽・中間・小者として動員された百姓は、主君に対して忠義を示す必要がない存在でもあり、戦いが味方の不利に傾くとさっさと戦場を離脱する存在であったが、鉄の鎧ではなく革鎧を着用していることが多かったこともあり意外と死傷率は高かった。

江戸時代初期の軍学者大道寺友山が著した『落穂集』には、合戦で千人の死者が出た場合、その内武士は百人か百五十人であったと書いている。
 
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