戦国大名田村氏
 戦国大名田村氏は三春城(田村郡三春町)を居城として田村郡、安積郡東部、岩瀬郡の一部を支配していた。

 文禄三年(1594)七月の『蒲生領高目録』によれば田村郡は八万六千八百九十二石九斗七升となっているので田村氏の所領高は九万数千石であったと考えられる。

 田村郡は古くは田村庄と小野保と呼ばれた地である。田村庄は『和名類聚抄』によると、承平年間(931〜937)には安積郡に含まれる一地方で、安積郡の小野・丸子・小川・芳賀・葦屋・安積・入野・安達の八郷のうち、平安時代中期に小野・丸子・小川・芳賀の地を割って田村庄と立券されたらしいと伝えている。

 田村庄は坂上田村麻呂の伝承を多く伝える土地柄であり、田村庄として立券される以前に坂上田村麻呂の職分田、功田、位田などが置かれていたことが庄名の由来となったという説もある。

 戦国大名田村氏は、その系図では坂上田村麻呂の後裔を称していて、家紋は坂上氏が多用した車前草(おおばこ)紋を使用している。

 しかし、多くの史家は戦国大名田村氏は平姓であるとの考えに立っている。戦国大名となる平姓田村氏が田村庄を支配する以前には、藤姓の田村庄司家が強い権限を持っていたことがわかっているが、この田村庄司家は秀郷流藤原氏と考えられている。

 田村庄司家は守山城(郡山市田村町守山)を居城としてその周辺に基盤を持っていたとみられるが、戦国大名に発展する平姓田村氏は三春地方を基盤にしていたとみられている。

 建武二年(1335)七月、「中先代の乱」を機に結城盛広、舎弟祐義、上野左衛門大夫広光ら白河郡の下総結城一族、高野郡の小田一族、石川庄の石川一族が長倉城(石川郡平田村字長倉か)に挙兵すると、この混乱のなか白河親朝が仙道八郡検断職に任ぜられた。

 田村庄と小野保もこれに含まれ在地領主は白河氏への従属を強いられたものと考えられている。

 南北朝期には田村庄司家は一貫して南朝方として活躍しているが、延元三年(1338)田村宗季が南朝から田村庄司に任ぜられている。

 また、康永二年(1343)九月、白河親朝が足利尊氏に降った際に提出した、支配下の武士の名を書き連ねた交名注進状に「田村遠江守宗季・同一族」と一族を代表する形で記されている。

 一方「御春の輩」(三春の輩)と記された平姓田村氏は田村庄司家とともに、はじめは南朝に属していたが、その後北朝に転じたようで、南朝の命に従わず安達東方の領地を没収され冷泉家房に充行われたことが古文書から知られている。

 文和元年(1352)十二月、足利尊氏は小野保・安達東根などの替地として、田村庄闕所地を白河顕朝に充行っている。

 この闕所地とは宇津峯城の戦いに敗れた田村庄司家一族が所領としていた土地であるとみられ、これにより田村庄司家の力は大幅に衰えたと考えられる。

 また、文和二年(1353)田村庄は白河顕朝の検断下となるが、その力を背景に三春の平姓田村氏は力を伸ばしたとみられ、高木神社(田村郡三春町実沢)に湖州鏡を奉納した田村右京大夫輝定も、平姓田村氏と考えられている。

 応永二年(1395)十月の斯波満持感状によれば、九月頃田村庄司則義・清包父子が鎌倉府に叛いている。

 則義は「田村御対治」の軍勢と阿武隈川および唐久野原(郡山市田村町御代田)で戦っているが、翌三年二月には、「小山義政の乱」で滅亡した小山義政の遺児小山若犬丸や新田義貞の三男義宗の子息相模守、従弟刑部少輔などの関東の南朝の残党も加わり、関東から南奥州に広がった「小山若犬丸の乱」といわれる大乱に発展した。

 鎌倉公方足利氏満は二月二十八日自ら軍勢を率いて鎌倉をたち途中武蔵国を転戦し、五月二十七日古河から田村庄に向かい六月一日白河城に入った。

 田村庄司家の軍勢は白河辺りまで打って出たが、大軍の前には無力で退散してしまう。この乱の後、田村庄司家は没落し田村庄の三分の一は鎌倉府の料所となった。

 応永四年(1397)七月八日、鎌倉公方足利氏満は料所田村庄三分之一の「当年一作」を結城三河七郎(白河満朝)に与え、庶子を引きつれ入部するよう命じている。

 戦国大名として発展する三春地方を基盤とする平姓田村氏が確実な古文書にその名を表すのは、享徳三年(1454)八月の判物にみえる直顕からである。

 長禄四年(1460)の将軍御内書は田村次郎と田村一族宛に下されているが、文正元年(1466)の将軍御内書は田村次郎宛のみとなっていて、この間に田村郡の国人領主が田村次郎のもとにほぼ掌握されたとみられる。この田村次郎とは直顕のことである。

 また、田村氏の菩提寺である福聚寺の記録では、永正元年(1504)田村直顕の孫義顕が三春城に居城を移したとする。

 これらのことから、直顕から義顕の代に戦国大名田村氏の基礎が出来上がったと考えられている。

 天文十一年(1542)六月、「天文の乱」が勃発すると、伊達稙宗の娘婿であった田村隆顕は一貫して稙宗方として戦っている。

 また、この頃から田村氏は頻繁に田村郡以外の地へも軍勢を出していて領国の掌握に成功していることが伺われる。

 天文十一年九月、田村隆顕は二本松に出馬した。翌十二年(1543)四月には安積郡に侵攻して伊東氏・芦名氏の軍勢を討って六ヶ城を奪った。

 同年十月には安積郡中山(郡山市)に於いて芦名勢と戦い、侍四十一人足軽雑兵八百人を討ち下飯津島(下伊豆島)・前田沢・小荒田(小原田)・荒井・名倉を手に入れた。

 天文十四年(1544)二月頃、二階堂氏・石川氏と抗争していた田村隆顕は二階堂照行と講和し今度は北進をみせる。

 天文十五年(1545)三月、田村隆顕は石橋尚義とともに信夫郡杉妻(福島市)に出馬した。このため伊達晴宗は白河晴綱に田村の背後をつくように要請している。

 同年六月、田村隆顕は叛いた御代田伊豆守と下枝治部大輔を攻め、このため下枝治部大輔は岩城に逃れた。

 天文十六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。

 天文十九年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。このため翌二十年(1551)七月、田村隆顕は畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦した。

 和睦条件は「芦名氏の子息が伊東氏を継ぐこと、安積郡の郡山・小荒田・下飯津島・前田沢の四カ所は芦名領とし、名倉・荒井の二カ所は一旦芦名氏に渡された後、二階堂照行に引き渡される」というものであった。

 永禄二年(1559)二月二十五日、田村勢は岩瀬郡に侵攻して今泉城(須賀川市今泉字館山)を奪った。

 永禄八年(1565)、田村勢は石川氏・佐竹氏の軍勢と岩瀬郡小作田(須賀川市字小作田)に戦ったが敗れ守山城に退いた。

 元亀二年(1571)八月、田村清顕は芦名盛氏・盛興父子とともに佐竹氏の拠点寺山城(東白川郡棚倉町)と羽黒山城(東白川郡塙町)を攻め大勝した。

 天正二年(1574)三月、岩瀬郡越久(須賀川市字越久)と安積郡富田(郡山市富田町)に於いて、二階堂氏・芦名氏と戦った。五月中旬には安積郡福原(郡山市富久山町福原)に於いて芦名勢と戦い八百余人を討ち取り大勝した。

 天正三年(1575)芦名氏・田村氏・白河氏・二階堂氏の連合軍一万余が佐竹氏・石川氏の軍勢と石川郡の雲霧城(石川郡玉川村字川辺)近くの金波川北方で戦い勝利する。

 天正四年(1576)秋、田村清顕は大内義綱とともに安積郡に侵攻し片平城(郡山市片平町新町)を攻め落とし、大内義綱の二男親綱を片平城主とした。

 天正七年(1577)冬、田村清顕の娘愛姫が伊達政宗のもとに輿入れした。

 天正八年(1580)三月、岩瀬郡に侵攻し下小山田(須賀川市字下小山田)に於いて二階堂氏と戦うが大敗する。
 天正九年(1581)芦名氏・佐竹氏・二階堂氏の連合軍が御代田城(郡山市田村町御代田)を包囲する。翌年四月中旬頃和議が成立し、岩瀬郡今泉を二階堂氏に返すととともに、安積郡のうち守屋・富岡・笹川・鍋山・八幡・川田・成田・多田野・大槻、田村郡のうち谷田川・栃本・糠塚・御代田の十三カ村を芦名・二階堂両氏に引き渡した。

 天正十二年(1584)田村氏の旗下であった大内定綱が畠山義継の支援をうけ田村氏のもとを離れた。このため田村清顕は六月〜十二月まで安達郡塩松地方に於いて、大内勢と数度にわたって戦うがことごとく敗れ三春に退いた。

 天正十三年(1585)十月、伊達政宗の小手森城(二本松市針道)攻めを支援するため田村清顕も出馬している。

 天正十四年(1586)十月九日、田村清顕が嫡子がないまま卒した。このため重臣らが協議し清顕の遺言に従って孫の出生まで伊達氏を頼って後室(相馬義胤の叔母)が田村家を維持するということに決したが、その後も伊達氏を頼ろうとする家臣と相馬氏を頼ろうとする家臣の間で抗争が激化していく。

 天正十六年(1588)五月十二日、相馬義胤は相馬派家臣の手引きによって三春入城を企てたが、三春城にあった伊達派家臣橋本刑部少輔顕徳の攻撃をうけ三春入城を断念した。

 相馬義胤は帰路が塞がれたので、やむなく相馬派であった船引城(田村市船引町)に籠もった。

 これを知った伊達政宗は翌日宮森城に着陣し、十九日には船引城を攻めたが、すでに相馬義胤は相馬領に逃げ去っていた。 

 同年七月、相馬義胤が再び田村領に侵入し常葉城(田村市常葉町)を攻めた。同年八月三日清顕後室が三春城を出て船引城に移り引退した。

 翌日には田村右馬頭顕基入道梅雪斎、田村右衛門大夫清康を中心とする相馬派家臣が三春城を出て田村右馬頭清通の小野城(田村郡小野町)に入った。

 三春城には伊達政宗から名代とされた田村孫七郎宗顕(清顕の甥)が入ったが、これにより伊達派と相馬派の対立は決定的となった。

 そして、八月五日に伊達政宗は宮森城から三春城に入り、滞在中田村家中の仕置を行い、同月十八日に米沢城に帰った。これにより田村領は事実上伊達領に編入されてしまう。

 天正十七年(1589)四月十五日、岩城常隆が田村郡小野地方に出馬した。

 同月二十一日鹿股城(田村市滝根町神俣)が落城し、大越以東の地が岩城氏の支配下となった。

 同年五月、佐竹氏・岩城氏・相馬氏は示し合わせて田村領を攻めた。

 岩城勢は五月二十七日門沢城(田村市船引町門沢)を落城させ、佐竹勢は六月四日大平城(郡山市大平町)を落城させた。

 相馬勢も岩井沢城(田村市都路町岩井沢)を攻めている。

 三氏の連合軍はその後七月まで田村領に在陣したが、三春城に侵攻することが出来ず帰陣した。

 天正十七年(1589)十月、伊達政宗が二階堂氏の居城須賀川城を攻めた際、田村宗顕が率いる田村勢も参陣している。

 天正十八年(1590)八月、豊臣秀吉の奥羽仕置によって田村氏は所領を没収され戦国大名として終わりを遂げた。同年十月、田村宗顕は田村郡を退去して伊具郡金山村(宮城県伊具郡丸森町金山)に隠棲し牛縊(うしくびり)定顕と名乗った。

 伊達政宗の死後、陽徳院(政宗の正室、田村清顕の娘)は定顕を白石城下の西蔵本村勝坂に招いたが、正保五年(1648)に死去し、田村氏は一時断絶した。

 その後政宗の嫡子忠宗の三男宗良が、承応二年(1653)一万石を分知され田村氏を再興した。

 万治三年(1660)七月、仙台藩主伊達綱宗が逼塞処分を受け八月隠居願いを出すと、幕府は二歳の亀千代を後継者と認めたが、その後見役に田村宗良を命じ、九月一日二万石を加増して栗原郡三迫(宮城県栗原市)に於いて三万石とし、仙台藩の支藩として立藩させることにした。

 同月十八日江戸に参府し、翌年四月従五位下諸大夫に任ぜられた。

 寛文二年(1662)には三迫より名取郡岩沼(宮城県岩沼市)三万石に転封となった。

 さらに天和二年(1682)宗良の子宗永(後の建顕)の代に洪水のため転封を願い出て認められ、磐井郡一関(岩手県一関市)三万石に転封となり、以後一関藩主として明治を迎えた。  
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