当主名 事蹟
二階堂為氏 生年不明〜寛正五年(1464)
遠江守。
文安元年(1444)鎌倉から岩瀬郡に下向。
文安五年(1448)二階堂治部大輔を滅ぼし須賀川城に入城する。(文安三年とする書もある)
寛正五年(1464)六月二十三日卒する。
二階堂行光 生年不明〜文明六年(1474)
山城守。
為氏の嫡男。
文明六年(1474)一月十六日卒する。
二階堂行詮 生年不明〜明応四年(1495)
山城守。
行光の嫡男。
文明十六年(1484)八〜九月、芦名盛高と岩瀬郡今泉・柱田・長沼に於いて戦うも敗れ、それ以降長沼地方は芦名氏の支配に帰した。
明応四年(1495)十一月十一日卒する。
二階堂行景 生年不明〜永正元年(1504)
太郎左衛門尉。
行詮の嫡男。
永正元年(1504)五月八日卒する。
二階堂晴行
(行直、続義)
生年不明〜天文十一年(1542)
信濃守。
行詮の次男。
天文五年(1536)十月七日に石井上総に出された続義名の感状が伝わる。
また、会津日惠寺の梵鐘に「奥州岩瀬郡牛袋村廣福山長禄禅寺 住持 忠誉  玄信 大壇那藤原続義 宿老道俗男女以助縁鋳直之 本願須田備前守 享禄四年(1531)辛卯四月八日」と鐘銘があるとのこと(会津旧事雑考)。
この梵鐘は、伊達政宗が須賀川城攻めの際、焼失した長禄寺より持ち帰ったものである。
天文十一年(1542)五月二十日卒する。
二階堂照行
(行秀)
生年不明〜永禄七年(1564)
従四位上弾正大弼。信濃守。
晴行の嫡男。
天文十一年(1542)六月、伊達稙宗・晴宗父子が対立して「天文の乱」が勃発すると、伊達稙宗の娘婿であった二階堂照行は当初稙宗方として活躍するが、天文十六年(1547)田村隆顕と対立したことから晴宗方に転じた。
天文十七年(1548)春、安積郡牛庭原に於いて伊達稙宗と戦う。
永禄二年(1559)二月、田村清顕の軍勢に岩瀬郡今泉城を攻め取られる。
永禄三年(1560)白河郡新城に於いて白河晴綱の軍勢と戦い勝利する。
以後、二階堂照行は毎年のように軍勢を出し、今泉城の奪還を試みるも目的を果たせず、永禄七年(1564)九月十八日失意のうちに卒する。
二階堂盛義
(行盛)
天文十三年(1544)?〜天正九年(1581)
信濃守。
照行の嫡男。母は伊達稙宗の娘。
弘治二年(1556)元服。
永禄五年(1562)岩瀬郡松山城をめぐって田村清顕の軍勢と戦い勝利する。
永禄八年(1565)二月、芦名盛氏・盛興父子によって松山・横田両城を攻め落され、横田城主が生け捕られる。その後、芦名氏と講和し七歳になる長男(のちの盛隆)を人質として会津に遣わす。
天正二年(1574)一月、田村清顕が岩瀬郡河東郷に侵攻してきて大きな被害を被る。
同年三月、芦名盛興・二階堂盛義は岩瀬郡越久に於いて田村清顕の軍勢と戦う。同年五月、芦名盛興は安積郡福原で田村清顕の軍勢と戦うも八百余人が討ち死にして大敗する。
同年六月、芦名盛興が早世し、人質として会津にあった盛隆が盛興の未亡人の婿となり芦名家を嗣ぐこととなり、以後芦名・二階堂両氏は一体化して軍事行動をとる。
天正三年(1575)、芦名盛隆・田村清顕・二階堂盛義・白河義親は石川郡雲霧城近くの金波川北方で佐竹義重・石川昭光と戦い勝利する。
天正四年(1576)秋、芦名盛隆・二階堂盛義・畠山義継は安積郡片平城をめぐって田村清顕・大内定綱と戦うも敗れる。
天正五年(1577)七月、二階堂盛義・芦名盛隆父子は佐竹義重・石川昭光の加勢を得て安積郡に侵攻し田村清顕を日出山に破る。
天正八年(1580)三月、岩瀬郡下小山田に於いて侵攻してきた田村清顕の軍勢と戦い二百余人を討ち取り大勝利を上げ、その余勢をかって田村郡に侵攻し大平城を攻め落とした。
天正九年(1581)八月二十六日卒する。三十八歳であったともいう。
二階堂行親 元亀元年(1570)?〜天正十年(1582)。
盛義の次男。母は伊達晴宗の娘。
天正九年(1581)八月、父二階堂盛義が亡くなると田村清顕は度々岩瀬郡に侵攻して来たが、同年末、芦名盛隆・佐竹義重の支援を受けた二階堂行親は田村郡御代田城を囲む。これに応じて岩城常隆・畠山義継も田村領に侵攻する構えを示したので、田村清顕は和議を望み、翌十年(1582)四月中旬、岩瀬郡今泉を返すとともに安積郡のうち守屋・富岡・笹川・鍋山・八幡・川田・成田・多田野・大槻、田村郡のうち谷田川・栃本・糠塚・御代田の十三ヶ村を芦名・二階堂両氏に譲るという条件で講和した。
天正十年中(1582)卒する。十三歳であったともいう。
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