牛庭原合戦
 「天文の乱」の最中である天文十七年(1548)春、伊達稙宗が二千余騎の軍勢を率い安積郡成田に陣を張った。さらに伊達稙宗は自ら二・三百騎を率い岩瀬郡館ヶ岡へ軍を進めた。

 これに対して舘ヶ岡城主須田備前守、今泉城主矢部主税祐、新田館主浜尾豊前守は僅か二百騎にて馳せ向かい、中でも矢部主税祐は稙宗の旗本の備えを崩し、伊達稙宗の間近くに迫り、兜の錣を三枚切り落とす働きをした。
 須田備前守、浜尾豊前守も百四・五十騎で伊達勢の中を十文字に駆け破り備えを崩したので、伊達勢の多くは支えかねて牛庭原の方へと逃れた。

 岩瀬郡と安積郡の境にある四方壇の西へ逃げた伊達勢に対して、岩瀬郡各地から馳せ集まった岩瀬勢四・五百騎が鏃を揃えて散々に射たので、伊達勢さらに追い散らされ、これも牛庭原へと逃げて行った。

 奏功するうちに成田に陣を張った伊達勢二千騎程が、牛庭原に馳せ集まり、岩瀬勢に攻め掛かったので、伊達勢も勢いを盛り返して激戦となった。

 終いには、数で勝る伊達勢は岩瀬勢に打ち勝つ事となる。

 しかしながら、牛庭原には両軍の屍が累々と横たわるという結果になり、多くの家臣を失った伊達稙宗は、その日のうちに成田の陣を引き払い帰陣したとのことである。
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