天野康景
天文六年(1537)〜慶長十八年(1613)
父は松平広忠の家臣天野景隆
幼名又五郎、通称名三郎兵衛
はじめ景能と称した。
松平竹千代(後の松平元康、徳川家康)の小姓衆七人の一人。


 永禄六年(1563)の三河一向一揆に功があり、同八年(1565)には、高力清長・本多重次とともに岡崎で奉行職を務める。

 元亀元年(1570)の姉川の戦いでも功があり、同三年(1573)の三方ヶ原の戦いでは、鉄砲隊を率いて武田信玄の陣に夜襲をかけ、この功により三河国渥美郡栄馬・中川両村で二百貫文余を賜る。

 天正十一年(1583)には駿河国江尻城代となり、翌年の小牧長久手の戦いでも功をあげる。

 天正十八年(1590)の小田原城攻めでは、東下向する豊臣秀吉を駿河国興津の清見寺において饗応する。

 同年八月、徳川家康が関東に入部すると、下総国香取郡大須賀において三千石を賜る。

 慶長五年(1600)上杉討伐時は大阪城西の丸城代を務め、関ヶ原の戦いの時は江戸城西の丸の留守居を務めた。

 慶長六年(1601)二月、駿河国富士・駿東二郡に於いて一万石を賜り興国寺城(静岡県沼津市根小屋)主となる、翌年徳川家康の諱をいただき康景と改名した。

 慶長十二年(1607)康景の足軽が天領富士郡原田村(静岡県富士市原田)の村人に傷を負わせ、三月九日康景はその責任をとって興国寺城を逐電し、相模国の西念寺(神奈川県南足柄市沼田)に蟄居した。
 この地を蟄居先に選んだ理由は、同じく三河以来の譜代である小田原城主大久保忠隣の庇護があったという説もある。
 また、頼山陽は『日本外史』において、この事件は大久保忠隣の失脚と同じく、本多正純の謀略で冤罪であると記述している。

事件の顛末を詳しく記すと
 天野康景は城を修築するため、竹・木材を集積していたが、最近夜ごと盗まれるため足軽を見張りに置いていた。
 そこに盗人が大勢で現れたため、見張りの足軽は取り押さえることが出来ず、刀で斬りつけ追い払った。
 盗人は天領富士郡原田村の村人であったが、あろう事か代官井出志摩守正次に「康景の足軽と口論になり斬られた」と訴え出たのである。

 さらに、徳川家康が駿河に赴くため三島を通りかかった時、斬りつけられた村人が、「康景の足軽と口論して斬られた。 代官が下手人を引き渡すよう申し入れたが、かえって私どもを盗人呼ばわりして、取り合わないので大御所のご裁断を仰ぎたい」と直訴に及んだ。

 家康は、この訴えを聞き「康景に限って不道の行いは考えられず、訴え出た村人に偽りがあると思うが、よくよく糾明せよ」と本多正純にご下命があった。

 正純は公の権威を守るため私の義を棄て足軽を代官に引き渡すように康景を諫めた。

 これに対して康景は「足軽は身分卑しき者であるとはいえ、罪もないのに何故に殺すことが出来ようか。しかしながら、我が義を守って、公の権威を失墜させることは、政治の妨げともなろう。罪は私が一身に負うので如何様にもされたい」と答えた。

 そして、康景は興国寺城を棄て、嫡男対馬守康宗とともに何処となく立ち去る道を選んだのである。
 家康は、康景を探し出すことを命じたが、康景はそれに応ずることなく、慶長十八年(1613)二月二十四日に西念寺で亡くなった。

 西念寺に墓があり、法名は興国寺殿報誉宗恩大居士である。

 足軽のとった行為は、慶長八年(1603)に出された天領百姓の殺傷を禁じた「諸国郷村掟」を破ったことになるわけで、本来は盗人を捕らえ奉行所に於いて処罰を行うべきであったが、夜中に大勢の盗賊団が現れれば、それが天領の百姓であろうとは思いもよらないことで、致し方ない面もあったと思われる。

 この出来事について、新井白石は『藩翰譜』五で「上にしては公の政を害せず、下にしては私の恩を傷らず、一人罪あらざるを殺さじとて、万石の禄を棄つることを、ものの数ともせず、独りその志を行なひ、其義を直くす。此の世には有りがたき賢人なり」と記述し、その徳を高く評価している。

 なお、嫡男康宗は寛永五年(1628)九月に赦免され、十二月に千俵を賜り、その子孫は千石を知行する旗本として存続している。また、次男康勝、三男康世も御家人として召し出されている。