真田信繁(幸村)
永禄十年(1567)?〜慶長二十年(1615)
幼名弁丸。通称名源次郎。
上田城主真田安房守昌幸の次男。母は京都の公家正親町家の娘で武田信玄の養女となり昌幸に嫁したされるが、これも諸説がある。
豊臣秀吉の小姓となり、豊臣姓を与えられ、従五位下左衛門佐に叙位任官している。
妻は越前国敦賀城主大谷刑部少輔吉継の娘。
真田信繁は幸村の名前の方が一般的には知られているが、幸村という名前は正式な文献には認められない。江戸時代の軍記物・通俗的な読本によって創作され、一般に流布された名前である。
信繁は、永禄十年(1567)に生まれたとされるが、確証は得られていない。元和元年(1615)に亡くなり、四十九歳であったという通説から導かれたものであるが、真田家の菩提寺長国寺の過去帳には四十六歳とあって、これに従えば永禄十三年(1570)生まれとなる。
父真田昌幸が上杉景勝と和睦し同盟を結ぶと、当時十九歳(異説では十六歳)の弁丸は人質として海津城に送られ、さらに昌幸が豊臣秀吉のもとに出仕すると、秀吉の小姓として大坂城に送られた。
信繁が武将として初陣を飾ったのは、天正十七年(1589)三月、後北条氏の家臣大道寺政繁の守る松井田城攻めの時と考えられている。松井田城は堅城のため、攻略に手間取り四月二十日に漸く落城している。
文禄三年(1594)十一月、秀吉の推挙により従五位下左衛門佐に叙位任官し、豊臣信繁と称している。
慶長五年(1600)真田昌幸・信繁父子は徳川家康の上杉景勝討伐の軍に加わるため、上田城を発し下野国犬伏(栃木県佐野市)の陣にあったが、そこに七月二十一日石田三成からの密書が届けられた。
昌幸は徳川秀忠の陣にあった嫡男信之を急遽呼び寄せ、三人で今後の行く末について談合したが、結局昌幸・信繁父子は石田方に、信之は徳川方につくこととなった。
九月五日、信繁は砥石城を守っていたが、徳川軍に加わる兄信之が攻めてきたので戦わず、父昌幸が籠もる上田城に引き上げた。
九月六日から、三万八千の徳川軍が上田城を攻撃するが、昌幸・信繁父子のゲリラ戦術に翻弄され上田城を攻略することは出来なかった。
九月十一日、徳川秀忠はついに上田城攻略をあきらめ、小諸城を発って関ヶ原へと向かった。
関ヶ原の戦いの結果、昌幸・信繁父子には当然死を仰せ付けられるところであったが、信之の自らの戦功に代えてもとの必死の助命嘆願と信之の岳父本多忠勝の助力により、昌幸・信繁父子は死一等を減じられ紀伊国高野山に配流となった。
配流地に赴いた昌幸・信繁父子の一行には婦女子も同道していたことから、女人禁制の高野山には登れず、麓の九度山に於いて蟄居生活が始まった。
慶長十九年(1614)十月十日、豊臣方の求めに応じた信繁は密かに九度山を脱し、手勢百三十人ほどを従え大坂城に入った。三年前の慶長十六年(1611)の夏に、すでに昌幸は亡くなっている。
大坂城に入った信繁は宇治・勢田で徳川方を迎え撃つ策を唱えたが容れられず、結局籠城戦と決まった。
信繁は大坂城の南口が攻め口と予想して、そこに真田丸という出城を築き五千の兵とともに守備に就いた。
十二月「大坂冬の陣」が始まると、十二月四日信繁の術中にはまった徳川方は、真田丸に殺到するが、多大な犠牲を払って退却を余儀なくされる。
しかし、十二月十九日には豊臣方と徳川方の間に和議が成立し休戦となった。
慶長二十年(1615)五月五日、徳川軍が再び京都を発し「大坂夏の陣」が始まると、平野で軍議を開いた信繁と後藤基次、毛利勝永は、五日の夜半に陣払いし、道明寺を経て未明までに国分村一帯に布陣することを約した。
しかし、濃霧に阻まれた信繁は思うように行軍出来ず、決められた刻限よりもかなり遅れることとなる。
先に藤井寺を経て小松山に到着した後藤基次の軍勢二千八百は、徳川方二万の軍勢と遭遇し奮戦したが、すでに壊滅していた。
昼近くになって、信繁はようやく毛利勝永が待つ藤井寺に到着している。
その後、道明寺の北、八尾・若江堤で味方が敗れたため、豊臣方は天王寺まで兵を引いて軍を立て直すこととなる。
五月七日、三千余(三千五百とも)の兵を率いた信繁は茶臼山に陣をとった。
早朝の軍議では、天王寺に徳川方を誘い込み、その乱戦のなか船場に潜んだ明石全登の軍勢が背後から徳川家康の本陣を突くという作戦になっていた。
早くも、毛利勝永の軍勢は松平忠直の軍勢一万三千と遭遇戦を開始していた。
その戦いの虚をついて、赤備えで統一された信繁の軍勢が家康本陣を目指して突き進んだ。
信繁の軍勢は、二度も家康の旗本を蹴散らし本陣に突っ込んだが、 三度目の突撃は押し返された。
戦い疲れ、近くの安居天神(現在の安居神社)で休息していた信繁は、泰然自若として松平忠直の家臣西尾仁左衛門に討たれた。
家康の馬印が倒されたのは、「三方ヶ原の戦い」以来のことという。
徳川方にあった島津家久(忠恒)は、国元への手紙で「真田日本一の兵(つわもの)」と賞賛し、「ふしぎなる弓取り」とも記述している。
この戦いで真田の武名は一気に天下に高まった。
信繁が率いていた軍勢は、そのほとんどが豊臣家から貸し与えられた浪人衆であったことを考えると、良くここまで軍勢をまとめ、指揮できたと関心させられる。
「勇将の下に弱卒なし」とはいうが、三千余の命を使い切った信繁は名将中の名将であろう。