群馬大学名誉教授 小林 功
(元群馬大学医学部附属病院院長)
「私の履歴書」の中の幼時体験の御粗末から語り始めたいと思う。
私の父は警察官で最初の赴任地は高崎で、私はここで生まれた。
私は幼少時、とにかく体が弱かった。
持病は「自家中毒症」である。風邪をひけば、すぐ物を吐く。全身がだるくて、物が食べられない。
当時の治療はブドウ糖の静脈注射とリンゲル液の皮下注射である。 開業の小児科の先生に往診
してもらう。たしか、リンゲル液は静注でなく、皮下注射だった。ラクダの背中のように、臀部にコブが
できる。洗面器に微温湯を用意しておき、できたコブを平旦になるまで揉み解かしてもらう。
痛かった記憶が鮮明に残っている。当時「自家中毒症」と言われていた病名は、その後「周期性嘔吐
症」と呼ばれるようになり、視床下部異常説や自律神経失調説などが教科書に記載されている。
その真相は不明だが、私の場合は過保護が原因だったのではないかと思っている。
一般に「吐き気、嘔吐は交感神経を刺激することで、腹痛・脈拍や呼吸の増加などの他、顔面
蒼白・冷汗・唾液分泌の亢進といった苦痛」に加え、「繰り返しの嘔吐では、嘔吐連動による普段
使用しない筋肉を動かすため、疲労感が強くなる」(系統看護学講座“成人看護学D消化器。
松田朋子273頁。医学書院。2011年改訂)。
まさに、その通りである。繰り返す嘔吐の後は、全身の疲労、脱力感が強い。脱水症にもなるだろ
うし、電解質のバランスにも変化がくる。
ある正月を迎えようとする十二月下旬。高崎の母の実家で餅つきをしていた光景を思い出す。
私は祖母の膝枕で見ていたが、全身だるくて、しかも厚着をさせられていた。
つきたての餅を食べる気力などない。
一時治まった吐き気を抑えるのが精一杯だったのだ。
「いまに、お医者さんになって困った人を助けてやれば・・・」と言う声がどこからか聞こえてきたような
気がする。
祖母の声だったか。
そのうち、六歳違いで弟が生まれる頃から、母の関心は次第に弟の方へ注がれてゆく。
学童期になり、嘔吐症は次第に少なくなった。しかし、当時の通信簿には、小学校一年、二年、三年
と年間約一ヶ月ほど欠席になっている。風邪をひくと、一週間は休ませられる。外に出してもらえず、
高崎の家の窓からいつも榛名山を眺めていた。
やがて第二次世界大戦も敗色濃厚となり、母方や父方の田舎に疎開することになり、過保護どころ
ではなくなり、田舎で農作業の手伝いなど経験したりした。
学校の成績はどうであったろうか。小学校の一年から三年まで。何故か国語はいつも「優」であっ
た。おとなしい子は、「修身」も「優」が多く、あとは「良」であった。両親から、成績のことは何も言わ
れたことはなかった。
「嘔吐症」も忘れるようになった敗戦の年、父の勤務先は前橋となり、住まいは群馬大学の附属小
学校に隣接したバラック建ての官舎だった。家に近いという理由で、附属小学校四年の編入試験を
受けたのである。国語85点、算数10点と記憶している。かくして不合格となり、城東小学校へ入り、
この頃から成績にこだわり始めたとも思うのである。
生涯つき合う親友もできた。
以後、父の転勤に伴い、一家は下仁田、松井田、沼田、渋川、原町、伊香保と転々とする。
高校は沼田高校へ進み、将来高校の国語教師を漠然と夢見た。
高校二年から渋川高校へ移り、医学部志望になる。
なれると思わなかった医師になり、五十余年。いまだに、理数の苦手意識が続く。
平成十三年、群馬大学を定年退職。
平成十四年から、短歌結社「地表」に入会し、短詩型文字の修行開始。
喜寿を迎えた今も、毎月働いている。
ある時は聴診器を持ち、またある時は医療人育成のために教壇に立つ。
幼少時、体の弱かった記憶が身についており、多くの患者さんが私の診察を待っている。