「私の使う私のパソコン」最優秀作 1992年 ASAHIパソコン 1991.3.1号
「私のパソコン漂流記」
今から10年前に雑誌の懸賞レポートで最優秀作になられた作品である。
この作品は、私自身もたいへん印象深いものでぜひとも皆さんにも
お読みいただきたいと思いまして、掲載させていただきます。
もし問題があればメールを下さい。
私のパソコン漂流記 医師 青野さんという男の方の文 1976年秋、朝日新聞の片隅にNEC製TK‐80トレー二ングキツトの記事が載った。初めてのパーソナルコンピユータの発売であった。それがら2年ほどしてNECから第二弾、TK‐80COMPO‐BSが発売された。TK‐80がCRTインターフ工一スと力セツト・インターフェース、そしてキーボード・インターフェ一スを組み込んでコンポになった。テレピにつないで、スイッチオンでBASlCが走るという、機能は今のMSXパソコンにも及ばぬものだったが、それでも20万円以上した。 安売り店などながったがら、当時、医学部の大学院生だった私にとっては大変な値段であった。まあ卒論を書くのにも役立つだろうと自らに言いわけし、アルパイト料をつぎ込んで何とが手に入れた。今にして思えぱ、随分なムダ遣いをしたものである。 結局そのCOMPO‐BSも、あまり長くは使うことにならながった。なぜなら、ほどなく力ラーの使えるPC‐8001シリーズが出たのである。COMPO‐BSにメモリーを買い足しても力ラーにはならないし、でもl/Oポートが…一などと迷った末、雑誌の売買瀾に6万円でCOMPO‐BSを売りに出した。それはめでたく売れ、やがて私は待望のPC‐8001を手にした。ところが…… 以下この話は、PC‐9801無印、PC‐9801VM、PC‐9801VX、そして現在使用中のPC‐9801RAまで繰り返されるのであるが、ぽとんど同じ内容になるので詳細は省略して・…“そして1989年、ついにプックパソコンが発売されたのである。専用ラックに納まったテスクトツプ型パソコンは、比べるといがにも大きい。60平方b、12万円の賃貸マンションなら、占有面積1平方bとして、1力月2000円をパソコンのために払う勘定になるがら、プツクパソコンにすると3年で7万2000円浮いて・・・などと口走りながら、またもや私はパソコンを売り歩いた。そして私のパソコンがプツク型になった。しがし、買ったその日から古くなるのがパソコンと言うものである。いがほどもたたないうちに、八一ドテイスク内蔵のブックパソコンが発売された。私は、もうほとんど軽いめまいを覚えながらも目の前のプックパソコンを抱えて立ち上がり、日本橋を目指した……。 今、私のひざの上には、八一ドティスク内蔵のプックパソコンが低いうなりをたてている。すっがり冷えきったふところ具合とは対照的に、プツクパソコンは、妙にパツテリー部分が過熱して暖かい。その温もりがぴざに伝わってきて心地よい。これは、ぴよっとしたら、矢継ざ早に新製品を繰り出すメー力一の、ほんのわずがな良心の表れなのがもしれない。メー力一の宣伝に応えて、土地転がしならぬ、パソコン転がしをひたすら繰り返しているうちに、パソコンは趣昧でも仕事でもない、道楽と化してしまった。土地転がしなら、今ごろ長者番付にも載ったことだろうが、残念なことに、土地は転がさながった。矢ったのはお金だげではない。膨大な時間も矢われた。力セット、5インチ2D、2DD、2HD、3.5インチ2HDと、はてしなくソフトやテータを移し変え、ぽとんど内容の変わらぬマニユアル を何度も読み返す羽目になった。NECやエプソンは、私のような人間には、もっ と感謝してもよいのではないだろうが。 さて、私は何もパソコンを買い賛えるのが趣昧だったわけではない。最初、私がパソコンに求めたのは、あの米国コモドール社PET‐2001のスタートレックを楽しめるだけの機能であり、何がを制御する機能であった。アセンプラでゲームを作り、プリンタ端子にリード線を八ンダづげして電動タイプライターを動がしたり(これは結局うまく動がながったが)、とまあ、ここまでは、けっこう楽しい趣昧のパソコンの世界を満喫していた。 が、いいことは長く続がないもので、ある日、せっがく大枚をはたいたのだがらという思いも手伝って、統計ソフトを作り始めた。学位論文でも書くときの助けになれぱと思ったのがきっがけだが、研究、仕事という名の下に、四六時中パソコンの前に座ることか正当化されたという点で、これは画期的がつ悲劇的な出来事となった。 私はBASlC言語を使って、2年ががりでデータベース付き統計ソフトを完成させた。等分散の棄却検定、平均値の差の検定、Studentのt検定、相関係数、一次回帰、光2検定、果ては重回帰分析などができるごのソフトのせいで、私は忙しくなった。一挙にパソコンを使う仕事が増 、えたのだ。それも、どちらがというと、パソコンがなけれぱ決してやろうと思わないような仕事だけが舞い込んできた。 かくして、このころには私のキーポード操作は目にも止まらぬ早業となり、打ち間違いに気づいた瞬間には、もうリターンキーを押してしまっているようになった。おがげで沢山の仕事と一緒に、友人も増えた。カ、睡眠時間だげは減り続けた。私はキーポード入力の速さを見込まれたのが、教室の助手として研究の手伝いを続げることになり、そしてとうとう1986年の春には、PC‐9801VMをかついでアメリ力に留学することになった。留学先は、がつての鉄鋼の町、ピッツパーグであった。ここでも私は、暇さえあれぱアパートから大学のメインフレームコンピユータにアクセスした。∨AX社のコンピユータはタイムシェアリング制で、アクセスするたびに何十ドルもの使用料を打ち出した。いくら研究費は大学持ちといっても、費用は節約しなげれぱならない。私は必要なデータをずべてダウンロードし、自分の統計ソフトに乗せた。 そのころ、統計ソフトはすでに浮動小数点表示の変数の超高速ソーティングや、画面の縮小コピーも、マシン語のサプルーチンをコールして自在にこなすようになっていた。やがて、私は「コンピユータ・マジシャン」の異名をとるようになった。また、一方で仕事中毒ともうわさされるようになった。 あるとき、休暇をとるように勧められて、留学先の教授の別荘を1週間借りることになったのだが、当然のことながら、私は車にパソコンを積んで東海岸へと出かけた。陽光に映える白砂のプライベートピーチを一望ずる教授の別荘で、波の音をパツクに私はキーボードを叩いた。後でごのことが露見し、私は皆のひんしゅくを買った。私にとってはまたとない休暇であったのだが……。 今度ピッツツパーグに来たらコンピユータの専用端末を引いてやるから、と言われながら日本に戻ってきたが、忙しさにまぎれて、とうとうその機会は二度と訪れながった。そのときのコンピユータも今はなく、テータだけがフロツピーディスクの中に眠っている。太平洋を往復したPC‐9801VMは、長旅でがなりガタがきていたがら、もう今ごろはスクラップになっているに違いない。あれを買った人は、きっとがっかりしたことだろう。随分長々と統計ソフトにまつわるエピソードを書いたが、ついでにもう一つ。統計ソフトをパージョンアツプしながら、私は外来診療用のテータベース・ソフトも作った。病院の地下にある力ルテ庫まで古い力ルテを探しに行くのが面倒だった私は、目の前の力ルテのテータを入力しておげば、そのうち力ルテ庫に行がなくてもよくなると考えた。いわぱ無精の産物である。 最初の1、2年は、誰も相手にしてくれながったが、データを入れ続けていつしが10年の月日が流れた。そしてこのデータは今や、慢性疾患患者の医学管理になくてはならないものとなった。このソフトでは、キーボードがらの入力だけでなく、RS‐232Cを使った機器がらの直接入力や、OCRを使った入力などもいろいろ試みた。テータをティスプレイに図表で示し、患者さんへの説明にも使えるようにした。 かくして、パソコンを使いはじめて10年余りたった今、もし誰がにパソコンを能率的に使う方法はと問われたら、私は迷わずごう答える。 (1)自分ではプログラミング言語に手を出さず、決してソフトを作ろうとしないこと。 (2)市販ソフトの機能に不満を持たず、感謝して使うこと。 (3)複雑な操作はパソコンの前に一香長く座っている人に頼むこと。その人がブックパソコンを持ち歩いているようなら、なおよろしい。たいがい、そういう手合いは、仕事が終わっても夜どおしパソコン通信なんそに明け暮れているに違いないのである。 最後に、最近の私のパソコン利用について一言。今では、私は研究職を一歩退き、大学には週一度だげ顔を出すようになった。いつもは診療所での診察に明け暮れている。今ひざの上にある98ノートSX20とは別に、診療所にはPC‐9801RAが1台ある。そしてこのRAには、RS‐232Cケープルを介して、もう1台の98ノートSXがつながれている。ひざの上のノートSX20も、このRAに つなぐことができる。いわゆる簡易型ネツトワークを構成している。診察室がら受付のPC‐9801の八一ドディスクを操作して、将来、診療所の保険診療請求事務をこのネツトワーク上で動がすのが夢なのである。 しがし、このシステムの完成までに、私の睡眠時間はあと何時間削られるのだろうか。これから先、何度、古くなったパソコンを抱えて日本橋をさまようことになるのだろうか。 あきれ果てた妻の少し冷たい視線を背中に、今夜も私はキーポードを叩き続けている。 |