新政府のまえに立ちはだかる難問は山ほどあった。とくに財政の建て直し。これは待ったなしである。
クーデタの翌日、国庫に残っていたのは16万7千フランに過ぎなかった。政令の印刷や地方への送料代にも不足する有様。
ボナパルトはただちに銀行家たちに会って、300万フランの緊急融資を頼んだ。
財政の赤字は昔からこの国の持病である。
フランス革命が起きた理由のひとつ(それも大きなひとつ)は、国家財政の破綻だった。
その革命から10年たったというのに、インフレ状態がいまも続いており、国のかかえる借金はいっこうに減っていない。
ボナパルトは財政問題では素人であり、平均的な知識しか持たない。
インフレを抑え込む。国債を発行しない。税収をふやす。この3つの方針を税務大臣ゴーダンに伝え、それを実行させた。 そして、強いリーダーシップを発揮して、つねに税務大臣を全面的にサポートした。
徴税のやりかたがまず改められる。
当時のフランスでは、選挙で当選した者が税金を集めていた。アマチュアがパートで仕事をしているようなもの。
ゴーダンはそれに代えて、収入係や収税官などの専門職をおいた。徴税のためのピラミッド型の職階制をつくったのだ。
収入係や収税官には、予定徴税額の5パーセントを前納させた。なにしろ国庫は空っぽなのだ。
納税をスピードアップさせるために、最初に完納した県の名前をパリのしかるべき広場につける、と第一統領は約束した。
ありとあらゆる方策を講じて、税金を効率的に取り立てようとした。
一番乗りは、ヴォージュ県だった。バスチーユの牢獄に近いマレ地区にあるロワイヤル広場が、この1800年から、「ヴォージュ広場」と呼ばれるようになる。
(続く)