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恋愛映画@ ロマンティック・コメディー編

ロマンティック・コメディー(略称ロマ・コメ)は、お笑いが勝ちすぎても色気が勝ちすぎてもいけない、極めて非現実な冒険的な世界。
それ故リアリズムを基調とするニューシネマが台頭した60年代後半から80年代半ばまで姿を消していました。
そして、オードリー・ヘプバーンこそ唯一無二の絶対的女王。今回5本も入れてしまいました。
他に、「マイ・フェア・レディ」「パリの恋人」もありますが、ミュージカル編等で扱えそうなので避けました。
1位 ローマの休日 1953年米 ウィリアム・ワイラー監督
記念すべきロマ・コメの女王誕生の瞬間だった。当時のスター女優で言えば、マリリン・モンローではとても無理、本物の王妃となったグレース・ケリーでは気品が勝ちすぎたであろう。某国の皇女が一介の記者と恋に落ちるという内容は正にこのジャンルにふさわしいが、この映画を世界で最も愛するのは当事国アメリカ人ではなく、日本人である。リアリズム史上主義のフランス人に至ってはオードリーの演技は過剰であると言い、全く評価していない。が、それは映画におけるリアリズムを理解できていない戯言である。日本人はオードリーの愛くるしい容姿と溌剌とした動きに酔いしれ、それは半世紀後の現在まで引き継がれている。ぱちぱちぱち。
2位 或る夜の出来事 1934年米 フランク・キャプラ監督
新聞記者が特ダネを得ようと結婚式から逃走した富豪令嬢に接近して恋に落ちる。そう、これこそ「ローマの休日」の原型である。面白かったなぁ。クローデット・コルベールが足を見せてヒッチハイクする場面、モーテルでのカーテン仕切り場面などは後の映画が再使用した。特に結婚式での逃走は「卒業」で大々的に復活。
3位 巴里祭 1932年仏 ルネ・クレール監督
ロマ・コメというよりは人情コメディーなのだが、若いカップルが主人公でハッピーエンドなので取り上げてみた。雨で始まり雨に終る、抜群に洒落たロマンスだった。
4位 昼下りの情事 1957年米 ビリー・ワイルダー監督
オードリー再び。今度はチェロを習っている探偵の娘役。探偵がプレイボーイの大富豪を調査するうちに我が娘に突き当たる、という辺りの絶妙の面白さ。彼女がチェロを持って右往左往するユーモア。演出の呼吸良く、父親のモーリス・シュヴァリエ、大富豪のゲイリー・クーパーとのアンサンブルも実に素晴らしい。
5位 アフリカの女王 1951年英 ジョン・ヒューストン監督
これを入れるとヘプバーンは6本になる。但し、こちらは大分年上のキャサリン・ヘプバーン。彼女とオンボロ船の船長ハンフリー・ボガートが喧嘩しながらアフリカの大河を下る。タッチはリアルだが、二人の関係からロマ・コメと言って差し支えないだろう。英国製作になっているが実質アメリカ人のもの。
6位 麗しのサブリナ 1954年米 ビリー・ワイルダー監督
オードリーNo.3。監督のワイルダーも再登場である。そう言えばボギーも再登場だ。実業家のお抱え運転手の娘が御曹司に恋をするが、御曹司には兄もいて...。「ルパン3世」TVシリーズのパロディーにもなった名画。
7位 おしゃれ泥棒 1966年米 ウィリアム・ワイラー監督
オードリーNo.4で、監督ワイラーも再登場。彼女のメイクが妙に濃いのは時代のせいかもしれないが、やや違和感があったな。しかし、美術泥棒を巡る騒動とロマンスを描いて実に楽しいコメディーだったね。この作品でも贋作彫刻家の娘役で、考えてみると彼女には父親が絡む映画が多かった。
8位 恋人たちの予感 1989年米 ロブ・ライナー監督
90年代のロマ・コメの女王と言われるメグ・ライアン主演作の中で最も完成度が高い。彼女はオードリーとは違い隣のお姉さんのような親しみがある個性が売りで、写真より映画の方が魅力を感じる。なかなか結ばれそうで結ばれない男女の遠回りの恋を描く。最近の作品の中では逸品と言える。
9位 ティファニーで朝食を 1961年米 ブレーク・エドワーズ監督
現代の妖精オードリーが猫と暮らす高級コールガールに扮し、作家ジョージ・ペパードと恋に落ちる。子猫と暮らし、ティファニー宝石店の前でパンをかじり、窓辺で「ムーン・リバー」を歌う。良いなぁ。大半の日本人はこの映画でティファニーを知ったのではないか?
10位 プリティ・ウーマン 1990年米 ゲイリー・マーシャル監督
コールガールが淑女に仕立て上げられるという内容は、オードリーが主演した「マイ・フェア・レディ」(原作はバーナード・ショー「ピグマリオン」)を思い起こさせる。この1作でジュリア・ロバーツはスターダムの頂点に立ち、10年後には「プリティ・ブライド」では「或る夜の出来事」宜しく結婚式場から逃走を繰り返す花嫁を演じることになる。完成度はそこそこだが、久しぶりに本物のロマ・コメだった。

恋愛映画A 不倫編

映画や文学の世界では不倫は素直な感情の発露として扱われることが多い。三面記事的な不倫ものなどに
僕は全く興味を覚えません。ここに描かれる不倫には人間が人間たる所以を感じる瞬間があります。
ロマ・コメ部門で実質9本を占めたアメリカ映画は殆ど出てこず、リアリズムのヨーロッパ映画(特にフランス)が圧倒的に強いのに納得。
1位 逢びき 1945年英 デーヴィッド・リーン監督
妻子のある開業医と逢瀬を重ねていた主婦の逢瀬最後の後半日を描いた作品で、展開の90%は内面モノローグを多用した回想形式である。序盤と最後の一部が場面的に重なるが、撮影角度が微妙に違い、ヒロインの心理が判ってきた観客には同じ場面が全く違うように見えるはずである。序盤に詳細を隠した成果でもあるが、2度目の場面では思わずヒロインに気持ちを察して胸が詰まろうというもの。僕はナレーションや内面モノローグは嫌いだが、これほど内面の声を上手く利用した例を知らない。僕の限られた語彙と文才ではこの作品の素晴らしさは上手く説明できないことをお詫びしたい。
2位 隣の女 1981年仏 フランソワ・トリュフォー監督
平凡な家庭を築いていた男の前に昔の恋人が現れたことから彼の人生は大きく狂っていく。同じ不倫でも人間の原罪を感じさせる鬼気迫るトリュフォーの演出に圧倒された。
3位 ライアンの娘 1970年英 デーヴィッド・リーン監督
デーヴィッド・リーンでも「逢びき」とはうって変わって【激情】の作品。不倫を扱った最高の文学作品はホーソーン「緋文字」と信じる僕にとってこの作品はそれに匹敵する文学的な傑作である。独立運動に揺れる北アイルランドの崖に打ち寄せる波に圧倒され、波のようにヒロインに押し寄せるパッションに心打たれた。
4位 イノセント 1975年伊 ルキノ・ヴィスコンティ監督
ヴィスコンティは50年代に「夏の嵐」という不倫の絡む名作を作っているが、この遺作のほうが迫力がある。浮気性の青年貴族が妻の不倫に気付いた末に迎える悲劇。妻も愛人も失うラスト・シーンが圧巻。
5位 マディソン郡の橋 1995年米 クリント・イーストウッド監督
比較的近作だが、ヒロインが村を出て行く相手を追いかけようかと思わず車のドアのノブに手を掛けかける雨の場面にうなった。ヒロインの揺れ動く感情を端的に表現し、この場面だけでここまで上位に来た、と言って良い。メリル・ストリープの演技もオスカー常連を納得させる好演。
6位 恋人たち 1957年仏 ルイ・マル監督
継続的な不倫もあれば、この作品のように【ワン・ナイト・スタンド】という場合もある。但し、ヒロインのジャンヌ・モローは他の男性とも不倫する常習者である。この作品はここに載せた他の作品とは全く違うタイプで、不倫にまつわるムードを追いかけている。濃厚なムードによれよれになった記憶がある。
7位 浮雲 1955年東宝 成瀬巳喜男監督
林芙美子の同名小説の映画化。こちらは腐れ縁的に妻子のある小役人についていく女性の悲哀が屋久島の雨のように激しい涙を誘う。ヒロインの高峰秀子、小役人の森雅之共に抜群の魅力を放っていた。
8位 肉体の悪魔 1947年仏 クロード・オータン=ララ監督
早熟な天才レイモン・ラディゲが17歳で発表した同名小説の映画化。10代の少年と年上の人妻の恋。ジェラール・フィリップのガラスのような繊細さ、ミシェリーヌ・プレールのエレガントな色気に戦後の映画ファンは圧倒されたらしい。
9位 小犬をつれた貴婦人 1960年ソ連 イオシフ・ヘイフィッツ監督
アントン・チェーホフの同名中篇小説の映画化。87年ニキータ・ミハルコフの「黒い瞳」はほぼ同じ題材で、どちらにすべきか悩んだが、映画としての知名度の低いこちらを判官びいきで選出。黒海の避暑地で展開する人妻と妻子ある男性との恋模様だが、これぞチェーホフ。小市民のやるせなさが伝わる佳作だった。
10位 アンナ・カレニナ 1935年米 クラレンス・ブラウン監督
こちらはトルストイの同名長編の映画化。本場ソ連版、ヴィヴィアン・リー版、グレタ・ガルボ版2作、ソフィー・マルソー版と全部で5作品観ているが、総合的にガルボの2度目の主演作をお奨めしたい。本場の味で最もがっちりしているのがソ連版、女優の魅力ではヴィヴィアン版だが、35年ガルボ版は女優の魅力プラス作品の魅力双方を備えている。最悪なのはガルボの第1作で、何とハッピーエンド。笑止千万である。怪しからんのはソフィー版で、ヒロインを麻薬中毒に設定していた。現代性を意識しすぎである。
10位 失楽園 1997年東映 森田芳光監督
ついでにもう一本。世に不倫ブームまで引き起こしたという渡辺淳一の同名小説の映画化。観る前は馬鹿にしていたが、出来上がった映画は純度が高かった。韓国でもリメイクされている。余談になるが、壮絶な悲劇であるこの映画なり小説に触れて不倫に走る人がいるとしたら内容を理解していない愚か者と言うしかない。