『七人の侍:歴史への挑戦』に於ける歴史認識の誤謬に就いて
@ 『七人の侍』の時代設定 :
1)
作品の冒頭の時代背景説明の字幕で『戦国時代』と示している。勘兵衛が頭を剃り、賊に握り飯二つを投げて子供を救い出す話は新陰流の祖上泉伊勢守秀綱(信綱)の逸話である事は、時代劇や剣術流派に興味のある人の大方は容易にそれと気付くに違いない。戦国末期の上野上泉城の城主であった秀綱は、永禄九年(1566年)の武田信玄の攻撃による箕輪城落城、寄親(よりおや*)の長野家の滅亡を機に城を捨て、一介の剣客として諸国廻行の旅に出る。この坊主頭になって子供を救う話は、引田文五郎を供に上野を後にした秀綱が伊勢に向かう途中、尾張付近のとある村での事となっている。この冒頭の挿話が『七人の侍』の物語が、100年余続いた『戦国時代』のおおまかな時期と場所を暗示しているとも言えよう。秀綱の生没年は不詳だが、天正10年頃75歳前後で亡くなったと伝わる。七人の一人、久蔵がもう一人の侍と木刀で試合をして、『相打ちだ』、『いやそうではない、真剣であれば』と遣り合う場面があるが、これは柳生但馬守宗矩に残る逸話を持ってきたものと思われる。宗矩の逸話に載せて久蔵の登場させるこの場面も、個人技をもって世に出ようとする兵法者が盛んに諸国廻行をしていたこの時代の風潮の一端を現している。
*よりおや【寄親】
戦国時代後期、大名が家臣団を統制するために設けた擬制的な親子関係。また、その関係で寄り子が子にあたる者として、親にあたる者。特に戦国大名は有力な武将を寄り親として軍事組織を編成した。
2)
菊千代と名乗る男が示す系図、その系図上の菊千代は天正二年二月十七日生まれ。菊千代と名乗る男は『当年とって十三歳、お主はとても十三歳には見えぬ』と勘兵衛に揶揄される。詰まり、時は天正十四年、西暦1586年と特定される。天正十二年の小牧長久手の戦いを経て徳川家康を臣従させる事に成功した羽柴秀吉は、翌十三年関白に任命され、この天正十四年には太政大臣となり豊臣を賜姓している。天下の大勢は統一に向かって大きく動いていた。農民が侍探しに出かけて行った街の人の往来、活気溢れる様子は、戦乱の遠ざかりつつあるその時代の雰囲気を良く映し出ている。
3)
野武士の襲撃の前に『麦』の刈り入れが行われ、田(畑)に水を引き入れ環濠をつくる。即ち、季節は春、裏作の収穫の時。事件の後、田植えが行われる事からも、季節は春と特定される。麦を裏作とする『水田二毛作』の開始は兵庫県加古川市の美乃利遺跡など各地の遺構調査から考古学上11〜12世紀に遡る事が出来る。鎌倉時代の農具の発達(鋤や鍬、鎌などへの鉄の使用)により農地開墾の飛躍的な伸びとともに、『水田二毛作は』まず主に近畿地方を中心とする西国に広まった。その後、近世(江戸時代)の『小農民経営』の発達と共に『水田二毛作』は寒冷降雪地帯を除き全国的な規模に広まった。16世紀後半である天正十四年に時代設定した『七人の侍』での水田二毛作は、これまた事件は近畿に近いとある国での事と思って差し支えあるまい。
4)
現代に於ける公式的な或いは学校教育的な日本史区分に拠れば、天正年間(1573-1592年)は安土桃山時代(1573年「足利将軍追放」から1600年「関が原の戦い」或いは1603年「江戸幕府成立」まで)である。『七人の侍』の事件のこの年から翌天正15年にかけての「島津征伐」、天正18年の「小田原征伐」、引き続いての「奥州平定」を経て秀吉による最終的な全国統一がなされ、戦乱の世は遠ざかりつつあった。信長とそれを引き継いだ秀吉の約30年には、中世社会における封建制、荘園制を始めとする分散的割拠的諸体制が崩壊し、政治、経済、社会、文化などあらゆる面で変革が見られ近世的な集中・統一が創出された時代であり、近世への扉を開いたこの織豊政権の時代は日本史上極めて重要な位置を占める。然しながら、『戦国時代』の終わりを信長の上洛とする説や、秀吉による全国統一とする学説もあり、単に戦乱の続いた時代と通説的に捉えるのであれば、天正元年の足利将軍追放後、同3年の長篠の戦、同5年からの中国征伐、本能寺の変(同10年)、山崎の戦い(同10年)、賤ケ岳の戦い(同11年)、小牧長久手の戦い(同12年)、そして島津征伐、小田原征伐、奥州平定へと戦乱の続くこの時期を『戦国時代の最終段階』と捉えるのも決して誤りではない。
5)
さて、『七人の侍:歴史への挑戦』の筆者(以下「氏」)はその中で次のように述べている。
さて、「七人の侍」の舞台設定はいつなのだろうか?
武士が現役で戦っているらしいので戦国時代なのか?それとも江戸時代なのか?
別にどっちでもよろしい(一応戦国時代との事)。
なぜかと言うと、あんな時代は日本の歴史に“存在しない”からだ。
(中略)
実はこれ、筆者も知らなくて歴史の勉強をしているうちに気が付いたポイントである。
決して『別にどっちでもよろしい』事はない、本作品は先ず始めに『戦国時代』と明示しており、更に菊千代の系図により天正14年とより明確に時代を限定しているのは上で述べた通り。にも拘らず『それとも江戸時代なのか?』とまでの的の外れた疑問の提示までしている。まさか本作品を実は見ていないなどと言う事はあるまいが、『(一応戦国時代との事)』の第三者からの指摘の形での括弧付き引用が作品冒頭の時代背景説明を指すとすれば、『戦国時代なのか?それとも江戸時代なのか?』と言う命題がそもそも成立しない。恐らく、「氏」は作品冒頭の時代背景説明を見落としていて、第三者の説明乃至解説を参照して『(一応戦国時代との事)』としたのだろう。
では、菊千代の『系図』はどうなのだろう?これも見落としているのだろうか?つまり『「台詞」が聞き取りにくくて』聞き漏らしてしまったのか?確かに録音技術が未だ十分に発達していない時期の作品であるから、全体的に聞き取りにくいし、勘兵衛こと志村喬が「天正二年・・・・」と系図を読む台詞も音量が低くて聞き取りにくい。然し、音量を高くすれば聞き取れない事はない。縦しんば「氏」には聞き取れなかったとして、では『何しろ「かたじけない」という台詞に「Thank
you」という字幕がかぶるのである』と言う程に、「氏」はお父上の入手した英語の字幕付きのビデオをしっかり見ている筈である。英語字幕ではその系図シーンのところでなんと言っているだろうか?或いは、その英語字幕付きビデオは海外版なので、菊千代が周りの皆から『十三歳』、『十三歳』と何度もからかわれる部分もひっくるめて『余計なところをバッサリとカットして“美味しいところ”だけを見せている』のだろうか?本編よりも断然面白かったという「海外ドキュメンタリー」でも「バッサリとカット」だったのだろうか?『七人の侍』とタイトルを付けている以上、その七人が如何なる人間なのか、その七人がどのようにして集まるのか、物語の重要な導入部で作品はそれぞれに光をあてて描いている。即ち七人の集まるそれぞれがそれこそ“美味しいところ”、歌舞伎なら「大向」から声がかかるところである。然も、「氏」が海外ドキュメンタリーで目にした如く「(その壮絶な最後に)生徒達も明らかに涙ぐんでいた」ほどの重要な役どころである菊千代の「七人目の登場・参加」の場面である。如何に海外版でも、この『系図』絡みのシーンが『バッサリとカット』される「余計なところ」とは信じがたいが、どうであろう?その場面を『バッサリとカット』してしまってはその後の菊千代が『如何にも百姓の出』を示す発想、発言、仕草、行動が生きて来なくなってしまい、更に「観る者が涙ぐむ程の菊千代の死」の感激も半減してしまう。何れにしても、「氏」がこの物語が天正年間を背景として描かれている事を見落としている、或いは気付いていない、はたまた知らないでいたのは紛れも無い。従って『「七人の侍」の舞台設定はいつなのだろうか?』との命題は「氏」の作品に対する極めて初歩的な理解不足・鑑賞不十分による謂れのない設問に過ぎないと結論する次第である。「評論する」と大上段に振りかぶるにしては、些かお粗末であろう。
この項の主旨とは外れるが、『何しろ「かたじけない」という台詞に「Thank
you」という字幕がかぶるのである』で「氏」の言わんとするところは単に字幕がわずらわしいとの意味だけでなく、「かたじけない」に充てるのに字幕の”Thank
you”では雰囲気が伝わらず相応しくない、との意味あいが濃いようなので、それに就いて少し述べる。
聖書の「ヨハネによる福音書」の第11章41節で、マリア(聖母マリアとは別人)の(兄)弟ラザロを生き返らせたイエスが父なる神に感謝の言葉を捧げるが、この部分の現代英語版の聖書(New
International Version通称”NIV”)では、
“Father, I thank you that you have heard
me“と書いている。これに対し”KJV”と通称される欽定聖書(Authorized Version = King James
Version)では、
“Father, I thank thee that thou hast
heard me“となっている。ジェームズ王(King
James)とはイングランド・アイルランド王、ジェームズI世(悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子)の事であり、欽定聖書はジェームズI世の命により1611年に完成した英訳聖書の官撰決定版である。1611年と言うとシェークスピアは未だ存命、日本では(徳川秀忠の隠し子)保科正之が生まれた年、「大阪の陣」の3年前、家康も大御所として威を振るっていた時期である。この聖書の例を引いた理由は、長い時代を描いた聖書で”Thank
you”が直接話法で現れる最初の一つである事に拠る。もう一つは「ルカによる福音書」のそれである。それら新約以前つまり旧約聖書の中では”Give
thanks”が使われている。
あらゆる言語がそうであるように日本語であれ英語であれ文法や発音、言い回しは時代と共に変化している。シェークスピアの時代の英語である上の例を引けば、単数の「Youあなた」は”thou”(主格)、thy(所有格)、”thee”(目的格)と変化する。複数の場合は”ye”、“your”、“ye”である。然しながら、”Thank
thee”は要するに”Thank you”であり、400年近く前の英語でも感謝表現としては基本的に同じである。もう辞書にも出ていない様な古英語の”Thancian”でも同じ意味である。勿論、これを以ってして英語での感謝表現の言葉がThank
youだけとは言えないが、『(感謝の気持ちを表すのに)どういったらよいのか言葉が見つからない』とか『余りの感激に身が打ち震える(程感謝している)』との言い回しを英語に直して「かたじけない」に充てても興醒めなだけであろう。英語の話し言葉が状況に応じて抑揚やどこを強勢するかによって様々なニュアンスの違いを表現する(出来る)ものである事を考えると、「かたじけない」には”Thank
you”を充て、ニュアンスの判断は個々の観客の感性に委ねるしかないだろう、例えば「七人の侍」にしても、それが数百年前の日本を舞台としている事を観客は承知して観ている筈である。何れにしても「かたじけない」は将にThank
you程の意味しかなく、観客はその語源や謂れを知ろうと映画を観ている訳ではない。
日本人にしても「かたじけない」を「辱(かたじけない)」即ち「高貴なものに対して下賤なことを恐れ屈する気持ちを表す」言葉と意識して「ありがとう」の意味と理解するような脳作業をやっている訳ではないだろう。「ありがとう」からしてが「有り難き(幸せな)」事即ち「有り得ないような」事をして貰って感謝を述べる事から成立した表現である。その「ありがとう」すら、そう言った言葉の成り立ちや変遷を意識しながら使ってはいない。「かたじけない」に対して”Thank
you”の字幕が充てられた事に異を唱えるのは大変な筋違いであり、それは異を唱える側の英語の理解不足に帰されるべき問題であると共に、謂れなき言掛りに過ぎない。英語を使う人間の言語的背景を知らない(当然だが)日本人だけの余計なお世話である。
ついでに逆を言えば、時代劇を観る人の恐らく全ての日本人が「かたじけない」をなんの疑問も持たずに理解するが、若し時代劇の全編が隈なくその時代の言葉、話し方の台詞で作られていたならどうだろう?言語学者でもなければ、何を言っているのか解らない台詞が多数出てきて作品自体が理解困難なものになってしまうに違いない。源平の頃や、藤原道長の時代が舞台の「源氏物語」になったならなお更である。海外の映画でも同じように、アーサー王伝説を映画化するのに全編古代ケルト語で構成したら、こちこちのウェーリッシュやがちがちのスコティッシュでさえ古語辞典片手に観なければならないだろうし、シェークスピアより200年も前の「カンタベリー物語」をその描かれる時代のままの英語で映画化したら観る観客はいないだろう。光源氏やアーサー王が「昼飯」を採ったり、エリザベスI世が「アフターヌーン・ティー」をやるとか、「表札のかかった武家屋敷」が出てきたり、(2003年の某有名放送局のドラマの如く)天下の将軍と大御所の軍隊が町家の「略奪に走る」とか、或いは明治初期の舞台に「面頬」まで付けた甲冑騎馬武者が登場する(最近アカデミー助演男優賞にノミネートされた某作品の)ようなナンセンスは批判して当然だが、こと話言葉つまり台詞に関しては、作品の描く時代が古ければ古いほど、時代に忠実であればあるほど、(現代人である)観客がいる事を前提とする映画が成立しなくなる。
例えば「お前」と言う二人称(対称)である。「お前」即ち「御前」は「大前(おおまえ)」が変化して出来たもので、元々神仏や貴人の前を敬って言う言葉、音読みの「ごぜん」、和語の「(君の)みまえ」と同じである。江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられ、明和・安永頃(1760年以降)には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政頃(19世紀初頭)になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり、今日では身内の子供など下位者に対してか、相手を貶める場合や同等の相手におどけて見せる場合に使い、敬う意味合いは完全になくなっている(限られた地方での方言は除く)。江戸時代初頭以前を舞台とする映画に、これを忠実に守って台詞を言わせたら、現代人には雰囲気の伝わらないものとなってしまうであろう。「七人の侍」のなかでも「おまえ」の台詞は至る場面で出てくる。林田平八が菊千代に『お前の本名はなんて言うんだ?』他、『これ見てくれ!こいつはお前さんたちの食い分だ!』、『お前もゆうべからもう大人!』、『お前の名は志乃か?』などなどである。どの場合も天正年間のこの物語に適切な「おまえ」の使い方ではない。「わたし(私)」も「あなた(貴方)」も同様である。「わたし」は武家階級の男子には使われる事のなかった「自称」であり、「あなた」は江戸時代中期(18世紀中葉)から使われるようになった「対称」である。『あなたは素晴らしい人です。わたしは前からそれを言いたかったのです』と言う、久蔵の働きと態度に感激した勝四郎のこの台詞もこの物語の時代には相応しいものではない。「きさま(貴様)」も三度ほど出てくるが、相手をののしったり軽んじたりする場合に用いるようになるのはまったく「現代」に入ってからである。七郎次の台詞『きさま!それでも侍か!』での「きさま」の使い方は如何にもあの時代のあの場面・状況には相応しくない。この場合の適切な対称は「うぬ(汝)」か「おのれ」であるが、他の二つの状況、「貴様、百姓の生まれだな?」と「貴様らしくもない、そんな事では明日の働きは出来んぞ!」に「うぬ」や「おのれ」では勘兵衛が反省と思いやりを滲ませ、労わりそして励ますあのシチュエーションには似つかわしいものではない。然しそこまでのこだわりを持って映画を作っては現代人である観客には雰囲気がストレート伝わらなくなってしまうし、それは亦、製作者の独り善がりに過ぎない。なによりも観る側が、意識する事無く言葉のニュアンスを理解する台詞を構成するのが、ジャンルを問わず映画制作の基本なのではないだろうか。吹き替え、字幕も同様だと思う。上の「きさま!それでも侍か!」の対訳は”Shame
on
you!”であったと思うが、原文(語)とは違ってはいても、それを言う七郎次の「憤り」と「やるせなさ」を端的に表し、あのシーンにはどんぴしゃりである。そして、観る側が上述の例の如くの言語歴史上の不整合をあげつらうとすれば、それも独り善がりであり衒いである。未来を描いた映画に「未来語」が使われないように(誰も不思議とは思わない)、過去を描いた映画が基本的に現代語を基調とするのは当然の事である。開拓時代のアメリカを描いた映画での”Thank
you”の台詞に充てる日本語字幕や吹き替えに、「かたじけない」や「有り難き幸せにござる」とは絶対やらないだろう。
この稿を書いている筆者も思い切り衒っているが、「何しろ「かたじけない」という台詞に「Thank you」という字幕がかぶるのである」と言う「氏」の指摘はむしろ衒ってみたいがために、お父上(或いはその他)の言っていた事を引っ張り出したのだろうが、残念ながらひけらかす程には気の利いたものでもなく、失礼を承知で言えば「いかにも英語アマチュアがやりそうな知ったかぶり」に過ぎない。
A 『国軍全廃』:
1)
次に、実は『戦国時代なのか?それとも江戸時代なのか?別にどっちでもよろしい』は(今度は逆に)その通りである。何故ならば、『あのような時代は戦国時代にも、安土桃山時代にも、そして江戸時代(初期)にも”存在した”』からである。木曽義仲の軍からはぐれた兵士と敗軍平氏の逃亡兵が、ひょんな事から一緒に行動する事になり、通りかかった農民部落を山賊の襲撃から守ると言う鎌倉時代前夜の話もある。さて、『あんな時代は日本の歴史に“存在しない”』理由を氏は次の如くの根拠付けを試みている。
なんとこの国は平安時代に「国軍の全廃」を行ったのである!
(中略)
ともかく「みんなで一斉に武器を捨てれば平和になる」と言って「国軍」の全廃に踏み切ってしまったのである。
当然「国軍」がいないということになると、各地の農民は自力で自の土地を守らなくてはならなくなり、自然と「武装」することになる。いわゆる「武装農民」ということだ。実はこれが「武士」の原型である。
(中略)
「武士」の原型は自然発生的に生まれてきたものなのである。
時代は飛ぶが「いざ鎌倉」という言葉や、恩賞が「土地」であることからもお分かりの通り、多くの武士はいざ戦争となると戦いに参加するが、普段は農民なのである。
(中略)
だからそもそも「ただ作物を作ってるだけの農民」という階級は存在しないのである。農民なんてものは歴史的に武装しているし、下手すると自ら帰還兵なのである。
中世武士団の発生に目を向ける視点は良いが、「氏」の認識は残念ながら全面的に正しいとはとても言えない。
2)
さて、その『「国軍の全廃」』に就いてだが、「氏」は恐らく延暦11年(792年)6月14日の『太政官符』に述べられている或る部分を指しているのであろう。この太政官符は、大化の改新以来数多くの矛盾が表面化して来た律令制度の修復強化再建策の一環で『健児(こんでい)の制』と呼称される。学校の歴史の授業で習った事を覚えておられる方もいよう。この符を読み下すと、
太政官、符(ふ)す。応(まさ)に健児を差(つかわ)すべき事。 以前、右大臣の宣(せん)を被(こうむ)るに、今諸国の兵士、辺要の地を除くの外は皆停廃(ちょうはい)に従へ。其れ兵庫(ひょうご)鈴蔵(れいぞう)及び国府等の類は、宜しく健児を差(つかわ)して以て守衛に充(あ)つべし、宜しく、郡司の子弟を簡(えら)び差(つかわ)し、番を作りて守らしむべし。
である。より解り易くすると、
太政官、符(下達)す。健児を徴発すべき事。
右大臣(藤原継縄(つぐただ)、右の如く命ず。「(桓武)天皇のご命令により、諸国の兵士(軍団)を、国境の重要な場所を除いてすべて廃止せよ。諸国の兵庫(武器武具倉庫)、鈴蔵(駅鈴の保管庫)、国府(国司の役所)などは、健児を徴発して警備にあたらせよ。健児は郡司の一族の者から徴発し、順番に交代で警備させよ。
となる。この『健児の制』により、具体的には『奥羽・西海道諸国(辺境要地)を除く他の諸国ではそれまでの農民の徴兵による兵士軍団配置の制度を廃し、各国の治安維持活動には郡司などの富裕者・有位者の子弟で弓馬に優れたもの者を採用した。その食糧に充てる為の「健児田」も設けられた』のである。『健児』の人数は国の大小によって異なり20人から300人、年間に60日間交代で国府の警備にあたった。この健児の制度は奈良時代にもあったが、この延暦11年の太政官符により正規の兵制となった。桓武の父である先代光仁天皇の時代にも要地以外の軍団を廃し、徴兵制の縮小等の改革が図られており、律令体制の修復再建が迫られていた時期であった。
律令制下の奈良時代の約80年は、皇位争いとそれに関る貴族・豪族の権力闘争の時代ともいえる。天平元年(729年)長屋王の変、天平12年(740年)藤原広継の乱、天平17年(745年)玄肪、吉備真備の追放、天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の変、天平宝字8年(764年)恵美押勝(えみのおしかつ=藤原仲麻呂)の乱、宝亀元年(770年)道鏡追放などがそれである。中央の政治の乱れは必然的に『国司』を頂点とする地方政治でのあらゆる面での不正、怠慢、腐敗、混乱となって現れ、租・庸・調・雑徭(ぞうよう、兵役を含む労役)の重税に苦しむ班田農民の困窮を招いた。疲弊の極に達した班田農民は庸調を未進、逃亡して他の里(さと、後の『郷』)や荘園に移り、更には逃散して浮浪民となり律令制社会から脱落して行った。その班田農民の困窮と混乱は、班田収授法以来の『雑徭』に拠る『防人』を始め挑発兵士のモラルと質の低下を招き、軍の弱体化は歴然、その兵制は破綻に瀕するようになった。上に触れた太宰少弐藤原広継の乱は中央政府直轄である大宰府官下の兵を率いた叛乱で、統帥系統の乱れを示すものである。また、宝亀元年(770年)から起きた蝦夷(えみし)の大領(首長)伊治砦麻呂(いじのあざまろ)の叛乱(政府軍であった蝦夷軍の将軍が砦麻呂に暗殺されると、蝦夷軍が叛乱側に回った)、桓武即位後の延暦8年(789年)の征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)の東北制圧失敗(幕僚の怠慢、軍令遺棄などが原因)なども同様の例である。軍の弱体化を示すものとして、桓武が即位してから延暦11年の太政官符までの12年間だけでも、次の如くの記事が見える。
天応元年6月1日、征討大使藤原小黒麻呂、征討軍解散の責を負い入京を差止められる。同年9月26日、征討副使大伴益立、蝦夷進軍停滞の責を負い従四位下の冠位を剥奪される。
延暦2年4月15日、鎮所の将吏による坂東八国からの穀による私利を図る事、また鎮兵を使役して私田を営む事を厳しく懲戒。同年4月19日、坂東諸国の軍旅頻発による疲弊に対し、これを憐れみ、慰労と共に倉を開いて優給する。同年6月6日、坂東八国に命じ、散位・郡司の子弟及び浮浪人から五千〜一万を選び軍事訓練を課す。
延暦7年12月7日、征討将軍紀古佐美、副将軍軍監以下の怠慢の叱責をうける。
延暦8年5月12日、征討軍、衣川付近で1ヶ月余駐留、桓武これを咎める。同年6月3日、征討軍、副将軍入間広茂ら兵士4千と渡河(北上川?)して蝦夷地に侵攻、大敗北の報、同年6月9日、征討軍、兵糧の不足を理由に軍を解散。桓武、将軍副将軍の臆病としてこれを詰問する。同年7月17日、征討大将軍紀古佐美より戦勝報告。桓武、これを虚飾として責める、同年9月10日、大納言継縄を遣わし、征討軍の敗戦状況を調査。征討大将軍紀古佐美は以前の功績により免罪、鎮守府副将軍安倍猿嶋墨縄は冠位剥奪、同池田真枚は解任。
延暦9年閏3月4日、征夷の為に、3年以内に革甲2千領を揃える事を諸国に命ずる。同年10月21日、坂東諸国の疲弊が甚だしいのを鑑み、他国にも武具の製造、負担させることを決定。
延暦10年1月18日、東海道、東山道に使者を派遣、軍士と武器の検閲を行う。
延暦11年6月14日、『健児の制』の符
上述の如く事態の流れからしても延暦11年の太政官符は、軍事力強化とそれに伴う農民負担の軽減(つまり生産の向上)を目的とした制度変更である。決して「氏」の言うような「国軍の全廃」などではない。既に延暦2年に坂東の散位(*)、郡司の子弟の訓練の記事からも、それは明らかである。この改革の方向は行政面でもみられ、桓武天皇は延暦16年(797年)、令外官の『勘解由使』を置き国司の監督強化と不正防止、更には不正国司の再任禁止を図っている。桓武による平城京から長岡京さらに平安京への遷都は奈良仏教を政治から隔離させ、仏教と結託した貴族政治の刷新を主な目的の一つとした事は歴史学会の等しく認めるところである。事実平城京からの平安京への寺院の移転を許さず、また寺院への土地寄進も禁止している。また、8世紀中葉からの日本を取り巻く国際情勢、即ち安史の乱後の唐の衰退、新羅における叛乱と飢饉による内政の乱れ、渤海国との善隣友好関係、即ち国際関係緊張の緩和・消失がこの太政官符の背景にあった事は論をまたない。つまり西国辺境での国際関係緊張緩和を機に、軍を再編強化して東北辺境での緊張に主力を注ぐのを目的としたものである事はその後の軍事面での事蹟からしても明らかである。
*散位 さんい、さんみ : 律令制で、位階だけがあって、それに相当する官職のないこと。また、その人。
この『健児の制』発布の翌年(793年)『征討使』は『征夷使』と改められ、平安遷都の年延暦13年(794年)に大伴弟麻呂が初代の征夷大将軍に任じられた(副将軍には坂上田村麻呂)。ほぼ同時期に令外官として軍事官職である『押領使』が置かれ、延暦14年(795年)には防人の移動に携わっている。延暦15年(797年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、東国の兵10万(*)を率い数回にわたる蝦夷征伐の大遠征を行った。特に延暦20年(801年)にはそれまでにない大きな成果を上げ(アテルイの降伏)、更に嵯峨天皇の弘仁2年(811年)には文室(ふんや)綿麻呂の征討があって、宝亀5年(774年)から38年間に渡る対蝦夷征討戦争は終結する。その後、散発的な『俘囚(*)』の叛乱はあったものの、蝦夷に対する同化政策も進み、程なく東北地方経営は一段落するのである。
*東国の兵10万
平安期の総人口は約一千万との研究調査結果がある。兵10万は誇張があるにしても大変な数であるが、桓武以前にも5万から6万の兵を配置した記録が随所に見られる。
*ふしゅう【俘囚】
奈良・平安時代、中央政府に順応した蝦夷の称。夷俘(いふ)より順化したものをさす。
*いふ【夷俘】
奈良時代から平安初期にかけて、当時の国家権力に対する順化の程度によって、蝦夷を区別した呼称の一つ。俘囚よりも未順化のもの。ただし、平安後期には両者の区別は不分明となった。
因みに、『押領使』は当初兵士を率いるのみで、実際の戦闘にはあたっていなかった。然し兵士の移動に携わると言う職務はやがて率いる兵士を指揮して戦うようになって行った。例として、藤原俵藤太秀郷は下野国押領使、平貞盛は常陸国押領使として平将門の承平の乱を平定している。基本的には各国の国司が押領使を兼務したが、当初から地方の豪族を任用する場合も多く、やがてそれが主流となって彼ら地方豪族の私的な武力が諸国の軍事力の中心となっていった。また、弘仁元年(810年)の薬子の変に直面して令外官『検非違使』が設けられた。最初京中の治安維持の為に置かれたが、次第に訴訟・裁判、運上物の検閲、未進地子(じし、公田の賃租料)の督促・取立て、国衙領(公領)と荘園間の紛争・検田などへと所務を広げ政治的な立場を強めて行った。9世紀半ばには諸国に『検非違使庁』が置かれるようになり、地方政治に対する検察の役割をも担うようになったが、武士の勃興が著しくなるにつれ、検非違使の勢力は次第に衰えて行った。更に承平・天慶の乱の直前の承平2年(932年)、警察的官職として『追捕使』が設けられている(令外官)。これは瀬戸内海地方に出没する海賊の鎮圧が目的であり、東海道、東山道のような広範囲の追捕を担当とした。追捕の名が示すように本来軍事的な職務を含んではいないが、実際には直接戦闘にあたる場合が殆どであり、実質は軍隊であった。天慶4年(941年)、大宰府を襲った藤原純友の軍勢を壊滅させたのは山陽道追捕使、参議小野好古である。当初追捕使は臨時の官職であったがやがて各国に常設され、押領使と同様国司の兼務かその地の豪族が任命され、一国内での警察機能を担った。更にこれも押領使同様、追捕使は荘園内にも置かれる様になってゆく。後、12世紀末には『惣追捕使』と言う官職が出現してそれまでの追捕使の仕事はこれに受け継がれ、一国内の軍事警察機能を担った。そしてこの機能は『鎌倉時代の惣追捕使』つまり『守護』へと発展してゆくのである。
天慶の乱から時代は下って寛仁3年(1019年)、史上に名高い『刀伊(*)の入寇』が起きる。この時太宰権師(ごんのそつ)藤原隆家は太宰府官藤原蔵規、前大宰少監大蔵種材(おおくらたねき)、平為賢などの官人と大宰府の兵(*)を率い、また文室(ふんや)忠光などの在地豪族の協力を得て刀伊の賊船50余隻を撃退した。余談になるが、藤原隆家は御堂関白(*)と呼ばれた時の最高権力者藤原道長の甥で、道長の政敵藤原伊周(これちか)の弟である。菅原道真の例に見るように、太宰権帥のポストは左遷人事にたびたび利用さており、この刀伊撃退の功労に対して藤原隆家への恩賞がなかった事から、隆家がこの任にあったのも左遷であったのではと言う観測もあるが、隆家は同時に中央の太政官府中納言(相当位階は従三位、太宰府の帥も従三位)でもあり、大宰府への赴任は目の治療の為との名目で自ら願い出たとの記録(必ずしも額面どおりとは限らないが)から判断して左遷ではなかったと思われる。
*とい【刀伊】
朝鮮語で夷狄の意。中国、沿海州から黒竜江省方面に住んでいた女真族(ツングース)。寛仁三年、五十余隻の船で対馬・壱岐・筑前を襲ったが、大宰権帥藤原隆家らの大宰府官人によって撃退された。
*大宰府の兵 辺境防備の国家直轄軍、即ち嘗ての防人。大宰府長官は太宰師(だざいのそつ)、親王が任命されるのが慣例。長官代行が権師、次官が大弐(おおいすけ)と少弐(すないすけ)。大監(だいげん)、少監(しょうげん)は大宰府の三等官で判官、治安の監督、文書の起草をおこう。
*御堂関白 実際には道長は一度も関白になっていない。
また、平将門の乱(承平の乱)から約90年後、万寿5年(1028年)同じ坂東の地で再び叛乱がおこる。上総、下総にまたがる広大な地の領主平忠常の起こした乱、坂東を亡国と化した大乱であった。朝廷は検非違使右衛門尉平直方と衛門志(えもんのさかん)中原成道を征討使に任命し、更に東海・東山・北陸の諸国にも忠常追討の官符を下して追討軍の援軍としたが成果はあがらず、叛乱は3年目に入り房総3カ国に拡大、忠常の勢力は強大なものとなった。その後曲折を経て元上総・常陸介であった安房守源頼信が平直方にかわり追討使となって出征するに及び、忠常は頼信とは戦わずして出家、投降した。
一方『健児の制』の志願健児の方は任務の放棄や身代わりなどの不正が当初からあり、この健児の不足の補いには『俘囚』が充てられた。この『俘囚』とは長年に渡る東国・奥州の征討で投降帰順そして服属した蝦夷(えみし)の事である。つまり、嘗て防人の制度を支え、宮中の衛士を勤めた東国の農民であり、38年にわたる光仁・桓武期の征討・征夷大遠征の主力を成した兵団である。天喜4年(1056年)から始まった前九年の役での一方の主役安倍頼時は陸奥国の俘囚の長であり、討伐側に回った清原武則も出羽国の俘囚長であった。更にこの時の押領使は一族の長老清原秀武である。この秀武と乱後鎮守府将軍となった武則の確執がきっかけとなり、やがて永保3年(1083年)からの後三年の役へと発展して行く。この二つの戦乱で源頼義・義家父子が率いた兵の主力は東国の兵、国軍であった俘囚軍団を一端解散、再編制した軍であった。このように地方豪族や俘囚の長が押領使や追捕使に任用されるのが一般的になり、俘囚が兵に充てられる様になって『健児の制』は次第に有名無実となった。これまで繰り返し述べてきたように地方豪族の私的な武力が小武士団を形成して荘園を含む各地の軍事の中心となり(一種の傭兵)、都での地位は低いが地方では貴種であった平氏や源氏などの軍事貴族をリーダーとして大武士団が形成されて行く事になる。私闘と見做された後三年の役の戦後処理を巡る源義家の処置、合力した郎党や家人への恩賞に私財を以って充てた事は、その後の『棟梁』、『家の子』、『郎党』と言う中世大武士団の基本概念の萌芽の一つの顕著な例であり、院政と言う歪な二元政治下での保元元年(1156年)の保元の乱、平治元年(1159年)からの平治の乱にあって中世大武士団は主役として中央での表舞台に登場するのである。
3)
ここまで長々と『国軍』について書いてきたが、それは取りも直さず「氏」の言う『国軍の全廃をおこなった!』や『「みんなで一斉に武器を捨てれば平和になる」と言って「国軍」の全廃に踏み切ってしまったのである』との表現を『五衛府など所謂近衛兵機構を除いて、国が直接統帥する軍隊がなくなってしまった』と好意的且つ肯定的に解釈しても、それは寿永3年(1184年)源頼朝が『全国惣追捕使』任ぜられるまで、兵馬の権は依然として朝廷にあった事を歴史上の事蹟を以って示す為であり、更には『そもそも「ただ作物を作ってるだけの農民」という階級は存在しないのである』との「氏」の主張の拠り所である『当然「国軍」がいないということになると、各地の農民は自力で自の土地を守らなくてはならなくなり、自然と「武装」することになる。いわゆる「武装農民」ということだ。実はこれが「武士」の原型である』が『国軍全廃』だけでなく『武士の発生の背景』及び『農民の武装』に就いての「氏」の認識が大変な誤解を含む事を示す為の導入でもある。
付記:律令制での「国防省」とも言うべき軍事の一切を司る「兵部省」は鎌倉以降形骸化したとは言え、明治5年に「陸軍省」、「海軍省」が置かれるまで存続した。
B 『農民の武装』と『武士の原型』 :
1)
『国民皆兵』が『国民の全てが兵』である事ではない現実は誰しも簡単に理解するとことであろう。同様に『兵農分離』を以ってそれ以前は『兵士=武装農民』とするのも誤りであり、更に『農民が全て武装』していたと理解するのは誤解の上に誤解を重ねるに他ならない。小学校のシャカイカのお勉強で『武装した農民が武士となった』と教えるのは武士の発生を象徴的に述べたものだが、そこでの『農民』を一般農民と解してしまうと本質を見失ってしまう。実際の小学校のシャカイカのお勉強でも『(地方豪族や)有力農民が武装したのが武士の始まり』と大概『有力農民』と一般農民とを区別して教えている筈である。一般農民即ち『耕作に従事する』農民は律令班田制下でも荘園制のもとでも基本的に土地の私有をしていない、守るべき土地を持っていないのである。耕作農民が守るべき土地を持つのは武士団の発生から数世紀の時を経てからの事である。小学校のシャカイカのお勉強のレベルで話をすすめると、
a)
大化の改新(645年)後の『班田収授法』は6歳以上の賎民を含む全国民に土地の終身用益(死んだら返納)を認めたが、「租」、「庸」、「調」以外に年60日間の労役(雑徭)や兵役を課せられた農民は著しく疲弊、大寺院や神社の持つ領地(荘園の前身)或いは他の里(村)への逃散が相次ぎ、また多くの浮浪民を生み出した結果、耕す農民のいない公地公田が増えていった。つまり国家への税収入が減少、当時の社会基盤が揺らぐ事態となった。
b)
養老7年(723年)の『三世一身法』は上の事態を打開すべく、新たに開墾した土地は開墾者、その子、孫の三代に渡る用益を認め、新田の増加を推進、期待するものであったが、何れは国家に返納するシステムであったが故に殆ど効果を上げる事はなかった。つまり新田開墾が進まず、耕地が増えなかった。
c)
『三世一身法』が効果を上げない為、新たに耕した土地は永久にその開墾者とその相続者のものと認める法、『墾田永年私財法』が天平15年(743年)に出される。これは農民の土地の私有を認めたと理解されがちであるが、現実には新たな開墾をするのに必要な大労力を持った或いは調達できる階層即ち寺院寺社、貴族、地方の大小豪族が多くの農民を使い(雇い)、原野を開き、水路を開鑿、農地を広げていった。これが『荘園』の始まりである。この『初期荘園』は未だ租・庸・調を納める存在であり、荘園領主は田地の所有権を持つだけで、原則的に専属農民を持つ事は出来なかった。つまり公領である『国衙領』とは区別されてはいたが、在地の実態は国衙領も荘園も変わりはなく、基本的に国司の管轄下にあった。
荘園はこの後、『不輸の権(税の免除)』、『不入の権(治外法権)』を与えられ大きく変容して行くが、ここでそれに触れるのが趣旨ではないので荘園に就いてはこれまでにする。
で、この辺りまで来ると、『お勉強の得意な小学生』は『公地公民制の律令国家に地方豪族とはおかしいではないか』と疑問を抱くか、少し前にお勉強した『律令国家のしくみ』を思い出して合点が行くかであるが、大概の生徒は疑問も抱かず、その後もそのままで成人してしまう。この後は、小学校を卒業してもう少し高いレベルで歴史を見てゆく事にしよう。
d)
律令制以前、即ち大和朝廷初期は豪族連合の上に成り立っていた政権である事は歴史を学ぶもの誰もが理解するところであろう。その「天皇家を中心とする連合」に組する各地の豪族は『国造(くにのみやつこ)』に任命され夫々の国を治めていた。この時期の代表的な事件としては、筑紫国造磐井が継体天皇21年(527年)に起こした『磐井の乱』がある。また、継体天皇も応神天皇5世の孫(母方は垂仁天皇7世の孫)とは言え、その実は越前(福井)の豪族であった。
大化の改新の後の律令制では『公地公民』の理念からそれまでの国造にとって代わる『国司』を中央から派遣し、その下に国の中の郡を管理する『郡司(ぐんじ)』を置き、更にその下に『里長(さとおさ)』を置いた。里長にはその地の有力農民が任命され50戸の農家を管理、郡司は20乃至30の里(さと)を管理した。それでは、それまで国造であった各地の豪族とその一党はどうなったのであろうか?多くの国造はその国を幾つかに分割した『郡』を管轄する『郡司』になるか、或いはそれまでの国造の氏神であった神社の宮司になるかであった。また国造の一族縁者や有力家人(けにん)は国衙の官人や郡司の役職、員外官(権官)あるいは『里長』となったのである。国造が郡司になる例を具体的に言うなら、武蔵国の国造が約二十分の一の支配領域の足立郡司になると言う事である。つまり律令制の下での『郡司』や『里長』は律令以前の地方豪族とその一党であり有力農民(地主階級)なのである。この改新制度に対しては当然抵抗があり、中央から隔たった遠国(おんごく)ほどそれは強かった。
古代最大の内乱と言われる天武元年(672年)の『壬申の乱』での大海人皇子(天武天皇)の圧倒的な勝利は東国(この時代では美濃、尾張、三河から甲斐、信濃)の豪族の糾合に成功したからに他ならないが、それは大化の改新以来30年になんなんとするも地方豪族の勢力が未だ健在である事を物語ると同時に、単なる皇位継承の争いではなく、天智天皇の急進的な改革によって特権を奪われた或いは奪われんとする貴族・地方豪族の不満が大友皇子の近江朝廷に向けて爆発したと言う叛乱の側面をも併せ持つのが壬申の乱である。
実力で皇位に就いた天武天皇の権力は強大なものとなり、天皇の神格化と律令制度の整備が急速に進められて行った。持統4年(690年)の『浄御原令』、大宝元年(701年)の『大宝律令』、そして養老2年(718年)の『養老律令』がそれである。日本書紀には大化2年(646年)正月発布の『(大化)改新詔』によって班田収授法の成立を伝えているが、その実施の信憑性には多くの問題が残されており(壬申の乱はその証左の一つである)、天武の後の持統4年(690年)の『浄御原令』の時からと言うのが現在もっとも有力な定説であり、引き続き8世紀に入って班田法は比較的順調に実施され、それを示す数多くの証拠がある。然しながら、先の『健児の制』の項で或いはまた上のa)〜c)項で述べたように奈良時代末期には農民層の疲弊と共に班田は荒れ、班田の制度は9世紀に入ると急速に崩壊していった。
然しこの項で、班田収授法に関し注目すべき点は口分田(班田)を『小作』に出す事を認めている点である(小作料は通例収量の20%)。『班田を小作に出すのを認める』と言う事は、『小作に出せる程或いは出さざるを得ない程班田を受ける者がいる』という事であると同時に『小作をする農耕者が存在する』事に他ならない。人間社会の構成には農耕に携わる以外の人民階層が存在するのは当然であり、しかも成人男子に対する人頭税である庸(労役或いはそれに代える物品)、調(糸や織布或いは特産物)、雑徭(労役)とは無関係に口分田が良民・賎民(*)、老若男女の範疇を越えて全人民に班給されるのであるから、『小作に出す』或いは『小作に出さざるを得ない』場合があるのは当然と言えば当然であるが、『小作する』のは農民が個々に行うのではなく、律令制にあっては上に触れた『郡司』及び『里長』の管轄管理下に置かれる。つまり嘗ての地方豪族・領主であり地域有力者達である。歴史が示す律令制下での官人の不正、横暴、搾取の素地の一つをここに見る事が出来、賎民(特に奴婢)の存在はその不正の絶好の隠れ蓑且つ横領・搾取を助長するものであった事は容易に想像できる。班田法の根本的な意図は、国民への直接課税の為にその基礎を提供(班田)する事にあり、村落内の階級分化の進行抑制を期待するものだったが、その意図或いは理念に対する矛盾を当初から孕んでいたのと言えよう。『墾田永年私財法』を契機として『荘園』が出現するに及んで富と力の偏在は益々進んで行く事になるのである。
*律令制下の賎民:
りょうこ【陵戸】
天子の墓を守るもの。わが国では、古代賤民の一つ。天皇・皇后・皇族の陵墓を守衛する陵守・墓守を出す戸。律令制では治部省の諸陵司(のちに昇格して諸陵寮となる)に属した。
かんこ【官戸】
律令制で、官司に配属されて雑役に駆使された賤民。一戸を構えることができる点で奴婢よりも身分的差別が緩やか。良民の没落したもの、六六歳以上あるいは癈疾の奴婢、家人・奴婢と主人などの間の子などがこれとされた。
けにん【家人】
律令制時代の賤民で、主家に隷属して労役に服する者。奴婢(ぬひ)よりも地位が上で、家族生活を営むことが許されていた。
ぬひ【奴婢】
律令制以来の賤民。人格を認められず、財産として、売買、譲渡、寄進の対象となった。奴は男、婢は女をさし、所有者が国家であれば官奴婢、私人であれば私奴婢と称される。律令制に定める五賤(官戸・陵戸・家人・公奴婢・私奴婢)のうちの最下級のもの。やつこ。やつがれ。
e)
私有地である『荘園』同士或いは国衙領との間で境界を巡る争い、水や作物の奪い合いなどの揉め事の起きるのは必然である。その上、任期のあるうちにより多くの収入確保を図って過重に徴税する国司、或いは兵を雇い他の荘園を襲わせる国司、また逆に浮浪民を統率し国衙を襲撃し、調庸物の略奪を行う在地の私営田領主(土豪)も多く現れるようになった。更に国司や国衙の官人には任期を終えても帰郷せず土着して勢力を蓄え独立、地方豪族化するもの、或いは郡司など土地の有力者に婿入りし、婿入り先の力を背景に豪族化するものも出てくる。また一つの国の任期を終えて次の任地に赴く国司の場合でも、任期中にその土地の郡司など土地の有力者階級の女との間に生まれた子息はその地に留まり(招婿婚、生まれた子女は母の里方で育てられる)、父の姓を名乗りながら母方の実家の後押しを背景に新たに勢力を拡張するのも全国至るところで見られるようになる。
この辺りで小学校の『シャカイカ』では『そこで自分たちの村や家族を守る為に、武器を持って戦う集団が現れました。これが武士のはじまりです』と教える。小学校のお勉強はそれで済むが、義務教育を終了し高等教育を受けて、卑しくも『歴史を勉強している』と言う人が『村』から連想して『各地の農民は自力で自の土地を守らなくてはならなくなり、自然と「武装」することになる。いわゆる「武装農民」ということだ。実はこれが「武士」の原型である』と解釈してしまっては余りに情け無い。そもそも『自分たちの村』とは誰の村を指しているのか?その位の疑問が出てきて然るべきであろう。私的に土地を所有している富裕階層を指すのは言うまでもない。即ち郡司や里長、大小の地方豪族や教科書で有力農民と記す私営田領主に他ならない。また、疲弊の極に瀕し、逃散を繰り返し浮浪民にならざるを得ないような状況に置かれ、鉄を使用した農具も殆ど普及していないこの時代の一般農民に武装集団を形成する力のある筈もない。一般農民が曲りなりにも自治的組織を形成するのは中世後期における荘園制の解体遇程で形成された農民の惣・惣村・惣中であり、13世紀末ごろから畿内とその周辺の荘園制の下で農民の成長が進み、有力名主(みょうしゅ)や上層農民を中心に形成された自治的・地域的結合組織である。それが戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代になって完成する『郷村制』の奔りである。小規模武士団の形成の促された9世紀末10世紀初頭からはまだ数世紀も先の事である。更には私営田領主の武装が『自ら守る』為だけではなく、『他を侵す』為であった側面も見逃してはならない。律令以前に豪族であった国造とその有力配下がなった『郡司』や『里長』は元来私的武力を備えているものであり、律令下の『国司』が任期を終え土着するにも私的武力の付置は必然である。それらの武装している或いは武備拡充した私営田領主は当然専従農民(従類=じゅうるい)を抱えている。それを捉えて歴史上『中世(小規模)武士団』と呼び倣わしている訳である。更に領主と呼ぶには憚られる小規模の「従類を抱えた独立自営農民」で、より大きな私営田領主と結び付いて相互扶助関係を持ったのが『伴類』と呼ばれる武装農民である。小学校社会科の『お勉強』でも、その武士団の底辺を構成する『下人(*)』として「(耕作に従事する)一般農民や小作人等」を武士である有力農民・独立自営農民とは区別して教えている。また、その小規模武士団の発生の背景を考えれば、防衛にしろ侵攻にしろその戦闘は基本的に小規模且つ散発短期的なものである事は容易に想像が付き、長期的且つ大規模な兵站確保と組織的軍隊編制を必須とする征討遠征や内乱・会戦とは全く異なる。つまり、兵糧武器運搬の為の荷駄人足として、或いは軍馬駄馬の世話の為などに一般農民を徴発する必要も殆どなかった筈である。ずっと時代は下るが、源頼朝が決起した折の『山木兼隆襲撃(合戦ではない)』で直接山木攻めに加わった武将は北条時政を大将に、伊豆の狩野茂光、安達盛長、仁田忠常、加藤次景廉、それに相模の佐々木定綱兄弟、土肥実平などの家の子郎党を合わせて八十五騎ほどであった。つまり七つの武士団(私営田領主)で八十五騎、一つの武士団では十騎前後である。しかもこの決起は以仁王と源三位頼政の起こした乱を契機に平氏政権が源氏追討の令を出した報を受けての、言わば伸るか反るかの瀬戸際に立たされた乾坤一擲の奇襲である。夫々の武士団が持てる武力の最大限を結集した事は想像に難くない。これを以ってしても、草創期の武士団の持つ武力の規模がどれほどのものかは容易に想像が付くであろう。斯様に「氏」の言う『「武装農民」、実はこれが「武士」の原型である』が如く『農民+武器=武士』のような単純素朴なものではなく、『「ただ作物を作ってるだけの農民」という階級は存在しない』が如くの時代こそがそもそも存在しないのである。
承平5年(935年)からの承平の乱は平将門と将門の叔父下総介平良兼の所領を巡る対立・一族間の私闘に端を発するが、その展開の過程で坂東各国の国府を占領、国司の横暴に対する軍事的な抵抗として坂東一円を席巻し、政治的な叛乱の性格を明確にしていった。それ故にこの将門の乱は『武士団の成長』を示す事件として歴史上の評価がなされている。将門は常時8千人を動員できたと言われるが然し、彼らは『伴類』であり緊密な主従関係に基づく武士団ではない。その伴類を帰休させていた時に藤原秀郷と平貞盛の4千の軍勢の攻勢を受けて将門は戦死、その時の将門の手勢は駆けつけた伴類を含めて僅か4百であったという(夫々の軍勢に就いては諸説あり)。規模は大きいが固い主従関係に結ばれた軍団ではなく、結束の弱い田夫(伴類)が多数の、成長したとは言え未だ萌芽的武士集団の域を出ていないものであった。この事件が、律令国家の崩壊を予感させるものではあるが、中世(鎌倉・室町時代、前期封建社会とも)を予感させるものではないと言われる所以である。中世への兆しを見るまでには更に一世紀半の時を必要とするのである。
*げにん、しもうど【下人】平安以後の隷属民。荘園の地主・荘官や地頭などに隷属して、家事、農業、軍事など主家の雑役につかわれ、財産として売買質入や譲渡の対象となった場合もある。雑人。奉公人。
武士の発生及び中世武士団の形成を考える場合、律令時代以前の古代から存在する大伴氏、物部氏、大伴氏の別れである佐伯氏などの連(むらじ)大連(おおむらじ)の姓(かばね)を持つ軍事氏族、更には大伴氏に統括された久米部(隼人の部民)、東国の蝦夷(えみし)が充てられた軍事部民である佐伯部(さえきべ)とその佐伯部を西国諸国で管轄した直(あたい)の姓の佐伯氏、更には単に『俘囚』と呼ばれた平安期に服属帰順した蝦夷にも視点を置かなければならない。38年に及ぶ征夷大将軍坂上田村麻呂を中心した対蝦夷戦争は東国の兵士即ち俘囚を主力とする『夷を以って夷を征す』ものであり、時代が下って源頼義と義家親子の前九年・後三年の役も東国の兵士を一旦解散して新たに編制した軍団を率いた事は既に上で述べた。院政期に於いては、その武力背景となった『北面の武士』集団もある。また荘園の変質変遷即ち経済的社会基盤も中世大武士団の形成には密接に関っている。然しここでは全国各地に散在したそれら古代武力集団が、のちの中世大武士団の発展にどう絡んで行ったのかを述べるのが趣旨ではないので、この項はこの辺りで終える事とする。
C 『兵農分離』 :
1)
『「ただ作物を作ってるだけの農民」という階級は存在しない』と言う主張に対する否定解答は既に出してしまったので、敢えて『兵農分離』に就いて述べる必要はないと思われるが、それでも『戦国期に「兵農分離」したのだからそれ以前は矢張り農民は武装していたのであり「農民=兵」であった筈』と納得の行かない向きもあろうと思われるので、ここで時代を一気に「七人の侍」が直接関る戦国時代に下って取りあげてみたい。
2)
戦国大名
:応仁元年(1467年)に始まり文明9年(1477年)に一応の終息をみた応仁の乱により、惣領制的支配を基本とする室町幕府、朝廷、荘園領主などの諸権力の瓦解は決定的となり、その後守護大名による領国支配も崩壊してゆく。下克上の風潮のもと、郷村制を基盤とし、領国を強固な封建的一円支配のもとに再編成して守護大名に取って代わったのが戦国大名である。それら戦国大名は幕府の統制から独立し、独自の分国法を制定して領国支配(戦国大名領国制)を行った。主だったものに、「守護代」或いはその「分家」から成長したものには中国の毛利、尾張の織田、越前の朝倉などの名が上げられ、国人領主(在地豪族)から成長したものには陸奥の伊達、近江の浅井、安芸の毛利、土佐の長曾我部など、守護大名がそのまま戦国大名になった例としては甲斐の武田、駿河の今川、薩摩の島津などである。また出自・出目のはっきりしない一介の牢人から戦国大名に成り上がった伊豆の後北条、美濃の斉藤がある。領国の安定は、一揆を阻止し、他国の侵入を排して更には他国を侵略する為の軍隊をもち得る『社会・経済的基盤』を確保する事によって始めて齎される。従って戦国大名は一貫して富国強兵をその基本的政策とした。
3)
産業 :
戦国期を含む室町時代は南北朝争乱、嘉吉の乱、応仁の乱、土一揆、そして戦国期と戦乱・騒乱が終始続いた時代であるが、その反面産業面では、農業、手工業、鉱業などが大いに発展した時代でもある。特に農業面では、鎌倉時代に普及した鉄製農具が更に一般化、二毛作も全国規模で広がりつつあった。また「惣」の成立により村落共同での牛馬を使った耕作と水車を利用した灌漑施設の普及、肥灰(こえばい)などに見られる肥料の工夫改善などで農業生産力の飛躍的な向上が成し遂げられた。戦国期には各地の戦国大名による金山・銀山の開発が見られ、灰吹法(精錬技術)の導入により金銀の産出は急上昇、土木技術の進歩と共に各国内の道路整備が盛んに行われた。一方商業の面では、農村の生産の向上によって余剰生産物が生まれ、その販売を目的とする市場が誕生するようになると、中世の支配層の保護下で独占営業権を持ち鎌倉時代に隆盛をみた『座』はその独占権益を脅かされるようになった。戦国期に入りそれら『座衆』は戦国大名の被官となるなどして引き続き権益の保護を受ける事を狙ったが、各地に割拠する戦国大名は領国内の経済の保護・育成・支配のため諸税を免じ、領国の商工業者の往来を自由にする事によって他国商人の往来を促進し、積極的に領国内に集住させる政策を取って行った。『楽市』の始まりであり、その後の『楽座』即ち「『座』の撤廃」へと進んでゆく。こうして戦国大名たちの軍事力を支える社会的・経済的基盤が整って行くのである。
4)
軍事 :
軍の編制も平安末期、鎌倉期の騎兵騎射中心からは大きく変容、多数の卒による弓隊、槍隊に加え、天文12年(1543年)伝来以来、各国で急速に取り入れられた鉄砲隊、更に他国への遠征ともなれば長期的な兵站線の確保は必須であり、兵糧武器の運搬を担う荷駄隊とそれを護衛する部隊も加わった数千数万の大規模な部隊編制である。更に言うならば、進軍の為の道路整備、渡河の為の架橋、陣営・宿営や柵・砦の建設・取り壊し、井戸堀、水路の開鑿作業などの土木建築に携わる人手も加わる場合もあった。将に『武力による戦い』以上に『経済力による戦い』であるとも言える。経済基盤の安定に裏打ちされた資金・財力無しにはなし得ない戦いである。
戦国時代と言うとその字面から、「田畑を荒らし、街を焼き、略奪の限りを尽す」戦乱の時代と思いがちだが、戦国期の戦争を見る場合、それは誤りである。勿論の事、攻める側にも守る側にも戦術戦略上あるいは戦いの成り行き流れで、田畑を焼き町家の一部を破壊・取り払ったりする事はあったし、それらはまた避けられない事でもあった。然し、戦国大名の命題は基本的に「領国の安定支配」と「領土拡張」であるから、自領内は当然、侵攻した他領に於いても「民の慰撫」に留意するのは当然である。民意を得ない侵攻は占領地に於ける兵站確保のみならず、情報戦を含む戦略に齟齬を来たすのは現代の戦争においても同じである。攻守共にある一定(最低限)の節度を持って戦いに臨み、社会・経済基盤の破壊を極力避ける理念が保たれていたのが戦国時代の戦乱である。史料に見える北条早雲と三浦氏の争いの時に、三浦側の兵士が北条側の田の稲を刈り取って挑発を試み、逸る兵士を早雲が抑える話や、上野攻めで武田信玄が、敵地の農民から稲を買い取って刈り入れを行った記事はそれを示す例である。叡山焼き討ちでの民衆を含めた掃討戦や2万を焼き殺したと言われる長島一揆での一面焦土と化すような戦いは寧ろ例外であり、そもそもそれらの戦いでは背景が異なる。
5)
足軽 :
下は戦国期のある国人領主(戦国大名に帰属する豪族)の「足軽募集広告」の例である。
一、戦に参加すれば、戦後に扶持を与える
一、(参加者が)百姓であれば戦後中間に取り立て、中間であれば悴者(かせもの)として出世させる
一、手柄を立てたなら、耕作、年貢を免除する
一、更に手柄によっては恩賞望み次第
この記事から、軍に常備されていた足軽兵もいたであろうが、足軽は基本的に傭兵であり臨時雇いである事が判ると同時に、同じ記事から「中間」及びその下に位置する「小者」も含めて臨時雇いであった事も伺わせる。戦後与えるとした「扶持」は米20〜30俵が標準、「悴者」と見えるのは武士身分の最も低い者を指した。「扶持」と言うからには本人の意向もあるだろうが、基本的に扶持米を与えて召抱える事であるから、それらは常備の足軽要員となったのであろう。足軽には当然武器具足が貸し与えられ、兵糧も支給された。戦場での一日分として与えられる食糧は一律には当てはまらないが、水一升、米六合、塩一勺、味噌二勺であった。概ね一日に茶碗10杯分の飯と言うところであろう。おかずは味噌、塩。干物、梅干なども支給されたらしいが貴重品であったと言う。
*かせもの【悴者】 室町時代の上層農民でかつ武家の被官であった者。侍の最下位、中間の上に位置し、若党や殿原(地侍)に相応する身分であった。かせにん。
*ちゅうげん【中間】
公家・寺院等に召し使われた男。身分は侍と小者の間に位する。
*こもの【小者】中世、近世に、武家に仕えて雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した軽輩のもの。室町時代には中間(ちゅうげん)より身分が低く、将軍出行のときは数名が随従し、草履(ぞうり)持ちなどをつとめた。
足軽と言う名称が現れるのは鎌倉時代においてである。下人や農民、あぶれ者(浮浪民)で構成され、戦いのある時に集められた臨時の雑兵であった。騎馬戦中心の鎌倉時代には足軽は雑役夫の役割しかなかったが、応仁の乱以降の戦闘形態の変化、大規模になる連れ槍隊、弓隊などに採用され、戦に於ける「密集戦」が重要性を増すに従って次第に常備されるようになった。また、鉄砲が普及してからは足軽鉄砲隊が合戦の鍵を握るようになり、当時の鉄砲を扱うには知識と技術が不可欠であり、鉄砲足軽の常備軍化は早い時期に進められたと考えられる。織田信長は18歳で家督を継ぐと早速に銭(ぜに)で兵を雇い始めている。とは言え、多数の足軽は荷宰領(にさいりょう=秤量管理役)や軍馬駄馬の世話、水の確保などの雑役にあたるのが主であった。戦で死んだ場合手厚くとはいえないにしろ遺族に手当てが出されたのは言うまでも無く、怪我を負い不具になった場合にも程度に応じて手当てが支給された。戦闘員非戦闘員を問わず、この足軽や中間、小者、雑役夫、即ち侍身分ではない者たちは軍全体の8割を超える数であったと言う。全てではないにしても、相当数の百姓農民が参加したのは間違いない。
さて、このあたりまで来ると「多数の百姓農民が参加する戦は農繁期には出来なかった、戦は農閑期に限られた」、「従っていつでも戦が出来るように兵農分離を行った」などの極めて「判り易い」且つ妙に「納得の行く」解説が出てくる。だがそれらの「解説」は「兵農分離」とは「風が吹くと桶屋が儲かる」程度の因縁しか認められない。ましてや、この雑兵としての参戦した農民を『(下手すると自ら)武装したままの帰還兵(なのである)』とした上で、「(村に帰還兵がいれば)40騎もの群盗であろうと撃退出来る」と考えるのは論外である。先ず、武器武具は戦が終われば貸し出した雇い主に返さねばならない、次にたかだか雑兵経験者に陣立てや作戦指揮はできない。村の男全員が帰還兵だとしても、弓どころか鉄砲まで携えている40騎の野武士集団にはどう転んでも対抗すべくもない。『七人の侍』の中で勘兵衛や五郎兵衛達が襲撃前に地形を調べ、環濠や柵を設け、賊に密集させないように配置を工夫している場面は、まさしくそれを語っている。話が少しそれたが、兵農分離の主題に戻ろう。
6)
城下町 :
上で社会基盤、経済基盤を強調してきたが、『兵農分離』も経済背景を抜きにして考えても本質は見えてこない。『刀狩』を以って『兵農分離』の具体的実行と理解するのも誤りである。
【兵農分離】 中世末から近世初期にかけて行われた武士と農民の身分差別を明瞭にする政策。特に天正一六年の豊臣秀吉の刀狩令による農民に対する規制。
と、大体どの辞典辞書にもこのように書いてある。これでは、「兵農分離=刀狩」と理解してしまう人が多数いても無理はない。或いは『矢張り農民は全て武装していたのだ』と思ってしまう人もいるだろう。歴史の一部分を切り取り象徴的に説明しているだけだからである。だが、辞書で『語句』を調べるのと歴史を理解するのとは全く異なる作業である。辞書は言葉の意味を教えてはくれても、歴史上の事柄が如何なる意味を持つのかまでは教えてくれはしない。ある事柄をその前後の時の流れの中にある因果関係を含めて相対的に捉え、その時代時代の世相、社会基盤に照らし合わせて見ない事には歴史を正しく理解する事は出来ないであろう。上の辞書の『兵農分離』の説明は、「武士と農民の身分差別を明瞭にする兵農分離政策は天正一六年の豊臣秀吉の刀狩令による農民に対する規制を以って完了・成就した」と理解しなければならない。つまり刀狩は「兵農分離」の全てではなく、(以前から各地で)「兵農分離」の為の様々な方針が随時試行・遂行され、最終的に「(統一を果たした)秀吉の刀狩令」によって全国的な規模で完了・成就したのである。然しこれでも未だ抽象的である。もう少し、詳しく説明しよう。
先ず「兵農分離」とは武士と農民とを「身分的」、「職能的」そして「地域的」に分離する事を意味する。平安末期に「棟梁、家子(いえのこ)、郎党」と言う強固な惣領制的結びつきの下に形成された「大武士団」は、源平の争乱の後幕府を開き、承久3年(1221年)の承久の乱を経て、武家政治の絶対的優位を確立、「武士」はその名の示す通り武力の担い手となったが、平時はなお農業を営む「農園経営者」であった。詰まり、零落の身の上野国佐野(現在の高崎市)の住人佐野源左衛門常世が一夜の宿を貸した廻国の僧(実は時の執権北条時頼)に、寒さを凌ぐために秘蔵の盆栽の枝を切り薪木として持てなした時に吐露した言葉「いざ鎌倉」が表す如く、有事の際には領国の兵の集まるのを待ち、遠路鎌倉に馳せ参じなければならない在地在郷の武士であった。続く室町期に入ってからの南北朝の争乱、応仁の乱、戦国時代の戦乱を通じて、武器の発達や兵法・戦術の進化・複雑化に伴い武士は次第に専門化、社会的な優位性(身分)を強化していった。戦国大名たち、特に新興の織田信長とその武将たちは家臣団の編制を進める中、家臣を農村から切り離し城下に集中させ城下町を建設、その新城下町の急速な発展を図って『楽市』制度を積極的に導入した。詰まり、身近での家臣の監視監督を含め、有事の際の迅速な軍団集結を可能とすると共に、楽市による商工業者の集住による経済力増大、そして軍事に必要な物資の生産と調達を可能とし、更に地侍、悴者を含む有力農民とそれらに従属する農民を年貢負担者として夫々の土地への固定を促すものであった。これは「一所懸命」との言葉で表される地方知行(じかたちぎょう)を基本とする律令時代から続いた「古代俸禄制」の変質を顕しその崩壊の兆しを示すと共に、蔵米給与を中心とした「近代俸禄制」への移行を予感させるものである(「地方知行取」から「蔵米支給」へ)。夫々の治世でこの地域的兵農分離に早期且つ積極的に取り組んだのが新興の織田信長であり、遅れたのが甲斐武田氏である。この時代に建設された代表的な城下町には、小田原(北条氏)、駿河府中(今川氏)、山口(大内氏)、豊後府内(大友氏)、春日山(上杉氏)、一乗谷(朝倉氏)などがある。
7)
検地 : 時代を問わずまた中央地方に関らず、農本経済にあっては為政者が耕作地の詳細を把握するのは治世・領国経営の要諦である。9世紀に置かれた検非違使が「検田」にまで所務を広げた事は前項で触れたが、少なくとも国と呼ばれるような農耕社会が出来た時から耕地の広さ、取れ高及び耕作に従事する人数などの調査が行われて来た事は間違いない。戦国期に於いては今川、北条、武田、織田などの戦国大名が「指出検地」を行っていた事が史書文献に見えるが、記録に現れなくともその他の諸国でも行われていた事は容易に推察できる。指出検地の「指出」とは「土地台帳」の事である。信長は尾張、美濃は勿論の事、勢力を拡大する毎に指出検地を実施している(1568年近江、1568年伊勢、1574年山城、1575年及び1580年大和など)。戦国末期の検地は「竿入」、「縄打」などとも呼ばれ、村ごとに土地を測量して田畑と屋敷の区別、上・中・下・下々などの田畑の等級、面積、分米(石高)および名請人(*)を決定し、村の総面積と総石高(村高)を把握することである。中世の国衙領の「検注」に相当する。戦国大名にとってこの検地とその徹底は勢力基盤とする土地および農民を直接把握・支配する為に必要欠くべからざる基本的政策であり、兵農分離の根本とも言える。上で述べた「地域的」兵農分離は「検地」と相互補完をなすものである。
*名請人 田畑の複雑な権利関係にある農民のうち,作職(耕作権)を所有して領主に年貢を納める農民。
世上に名高い「太閤検地」とは、天正10年(1582年)の本能寺の変により独立した秀吉が行った、慶長3年(1598年)の越前検地を最後とする一連の全国的規模の検地を指す。「天正の石直し」、「文禄の検地」とも呼ばれる。最近の説では、信長の麾下にあった秀吉が各地を征服する毎に行った検地も「太閤検地」に含めるものもある。征服の都度の検地は征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となったのは紛れもない。全国統一を成し遂げた秀吉の行った検地、太閤検地はそれ以前の検地の方法を踏襲しながらも、測量や等級付けに統一基準を定め、それまでの「指出検地」同様あらかじめ知行主や村方に書き出させた「指出」を利用し実際の測量その他の決定を省略する事もあったが、基本的には組織された検地役人が各地に派遣され実際の検地業務が行われた。また、それまで複雑な権利の絡み合った作職(耕作権)と重層的な土地所有関係を整理し、一つの田畑に一農民一領主を検地帳に記載して領主と農民の一元的な関係を成立させた。また、有力農民の加地子(かじし)得分権(*)を没収、作徳分(*)は農民が取り、残りは全て領主に納めるのを原則とした。これは小農民の自立を促す革新性を示すと共に、土豪や有力農民はそれまでのように中間搾取をして領主化・武士化する事が困難になり、兵農分離がより促進される事となった。
*加地子
田地耕作者が負担する租税の一種。主に対して負担する本来の租税以外に、名主、地主に対しても支払わなければならない地代。小作料の源流。片子(かたこ)。
*加地子得分権
名主(有力農民)はしばしば自己の田畠の一部を小作人に請作させ,そこから得分(中間利得)を得た。
*作徳・作得
1. 自作農が領主への年貢米を納めて残った得分、農業純収益。 2. 小作農が領主への年貢と地主への小作料を納めた残余の得米。
8)
刀狩 :
諸国の農民が武器を持つ事を禁止し、領主がそれを没収する政策を「刀狩」と言い、これも秀吉による天正16年(1588年)の「刀狩令」が史上に名高いが、その端緒は信長政権下において既に見られ、越前一揆平定後、天正3年(1575年)越前国主に任命され北ノ庄に入った柴田勝家が翌天正4年(1576年)に行ったのが記録の初見である。秀吉も関白就任直前の天正13年(1585年)3月に大和多武峰(とうのみね)・紀伊雑賀一揆平定の時に刀狩を行い、高野山金剛峰寺からも所持する武器の供出をさせている。これらの刀狩は何れも宗教教団、特に門徒宗(一向宗=浄土真宗)一揆と直接関っている。一揆の再発防止策の一環であった事は言うまでもない。天正16年の「刀狩令」も、その第二条でその目的を「方広寺大仏建立の為に釘、鎹(かすがい)にする為」としているが、当時から『内証は一揆を停止するためなり』と周囲から「一揆防止のため」である事は見抜かれていた。前年に起きた肥後の『検地反対一揆』が「刀狩令」のきっかけとなったとの説が現在最も有力な説である。また「刀狩令」はその実施にあたって、刀は鞘に収めた上で京都に送る事を命じている。これを以って「刀狩は朝鮮出兵の為の武器調達が目的であった」とする説もある。その朝鮮出兵準備説は兎も角、刀狩が直接的には一揆の再発防止そして新たな発生を未然に防ぐ事を主眼とするものであったのは明白である。
「一揆防止」をきっかけとする刀狩ではあるが、天正18年の秀吉のそれはその第三条で百姓が農事に専念すれば「国土安全・万民快楽」と謳っている。刀狩による農民層の武装解除が単に「一揆防止」と言うレベルに留まるものではなく、農民を従順な年貢負担者としての地位に固定する意図を持っていた。天正16年の「刀狩令」による刀狩の実施が「太閤検地」と平行して行われた理由はそこにある。秀吉が統一者として全国的な規模で検地と刀狩を遂行する事によって「兵農分離」がより徹底され、そして完成して行くのである。
秀吉は更に天正19年(1591年)と文禄元年(1592年)、矢継ぎ早に身分固定法令を出す。「身分統制令」と呼ばれる前者は、第一条で「武家奉公人の百姓化・町人化の禁止」、第二条で「百姓の商工業従事禁止」、第三条で「人返(ひとがえし)」を謳っている。後者の「六十六カ国人掃令(*)」は「武家奉公人、町人、百姓の職業別の戸数、人数の調査」がその内容で、朝鮮出兵の為の武家奉公人や人足人夫の確保を(直接の)動機とされる。これ等の身分固定法令は結果として兵農分離を決定的にし、国、村、町ごとに全人民の実勢を掌握、身分固定化の仕上げとなるものであった。
*
ひとがえし 【人返】
領主が領民の他領に移住して奉公するのを防止するため、勝手に他領で奉公する者を召還すること。
*ろくじゅうろっかこく【六十六箇国】六六の国。畿内・七道の合計六六の国をいい、また、日本全国の意にも用いる。
長々と続けてしまったが、『兵農分離=刀狩』が本質を全て語っていない事、『戦国期に「兵農分離」したのだからそれ以前は矢張り農民は武装していたのであり「農民=兵」であった筈』は「木を見て森を見ず」に等しい事は明白であろう。何れにしても、「氏」の言う『「ただ作物を作ってるだけの農民」という階級は存在しない』が如きは歴史上どうのこうのと言う以前に、常識の範囲内で「間違い」と判断できる事である。
9)
一向一揆
:それでも未だ、『「一向一揆」があちこちであった戦国時代だから農民は武装していた筈だ、将に一般農民が武装して一揆を起こしたのだ』、と言い張りたい向きもあるであろう。次に「一向一揆」を含む土(つち)一揆に触れる事にしよう。
南北朝争乱期から戦国期に至る中世後期は「一揆の時代」と言われる程、一揆の頻発した時代であった。それぞれの目的や形体、構成の違い、或いは亦発生した地域や起こした階層や集団の性格などによって、一揆はさまざまな呼び方をされる。「土(つち)一揆」との語の初出は室町初期南北朝時代の文和3年(1354年)で、その年近江で起きた一揆を土一揆と呼んだ。大規模な土一揆の最初のものは正長元年(1428年)、山城で「地下人」が徳政(*)と号して蜂起、方々の借書を攻め取って焼却したもので、徳政を要求した事から『正長の徳政一揆』と呼ばれる。ここでの「地下人」とは地侍と農民を指している。その他、地方中小武士層が地域的戦闘集団を作り強大な守護大名に対抗しようとした一揆は「国一揆」と呼ばれ、それと同じ性格であるが一向宗(浄土真宗)の門徒が結集したものを「一向一揆」と呼んでいる。「一揆」は「揆を一にする事」で、「吾妻鏡」や「太平記」に見えるように、元来「程度、種類、やり方などが同じであること」、「心を一つにすること」を意味する語である。それが組織された暴動を指して使われるようになり、暴徒に土民が多く参加した事から「土民一揆」、そして「土一揆」と呼ばれるようになった。「国一揆」や「一向一揆」は、「土一揆」の成長の途上に位置づけられるものと言える。
*とくせい【徳政】
中世、幕府・朝廷・大名などがその臣下や農民たちの貸借関係を条件つきで破棄させる法令を出すこと。また、その法令発布を農民などが要求すること。鎌倉幕府は御家人保護のためにその売却した所領の取戻し令を出した。室町幕府は売却地の返還のほかに質入れや金銭貸借の破棄を命じる法令を出し、農民などの一揆の要求に応じてしばしば発布された。
「一揆」は単なる暴徒の集まりではない。平安末から鎌倉時代に、荘園村落の農民が団結して荘園領主や在地領主に申上(訴状)を提出し、要求が受け入れられない場合に「逃散」を繰り返したのが「土一揆」の始まりと言えようが、『積極的開き直り』とも言えるそのような中世前期の原始的一揆と室町期に入ってのそれは質的にも構造的にも大きく異なるものである。「一揆」は組織化された抵抗集団の武力行使である事を見逃してはならない。一般耕作民や小作人が寄り集まって、鋤鍬を手に筵旗を立て数を頼み破れかぶれで国府や官庁を襲撃した、或いは領主の弾圧に抵抗したものと理解すると「一揆」の本質を見失ってしまう。組織化されたとは「組織する者」がいたと言う事である、では一体誰が組織したのか?
一揆の最初の大規模なものとして、上に地下人が起こした「正長の徳政一揆」を挙げたが、この年の全国的な飢饉と疫病の蔓延に端を発したこの一揆に対して、細川氏と赤松氏は数百騎ずつの軍勢をだして警戒に当っている。併せて500騎としても総勢2千に近い軍勢であったろう。一揆は京の中に入り各所に放火、東寺に陣を敷き市中に打って出て活動する戦法をとり、酒屋・土倉(*)に乱入、強奪を繰り返した。この時幕府は諸家の被官が土一揆に参加しないように命じ、請書を提出させている。これは細川や赤松のような名家・有力武家の家臣も土一揆に参加する可能性があったからに他ならず、更には土一揆への参加者が地下人ばかりでなく、歴とした武家の家臣が一揆に参加していた事を物語る。
*土倉
鎌倉時代に発生して室町時代に発展した「高利貸業者」。多くの場合酒屋が土倉を兼ねたので「酒屋・土倉」と併称される。
亦、一揆は始めから大規模に発生するものではない。局地的な小さな暴動や争いが周りに飛び火して次第に膨らんだり、他の地域の一揆と呼応、互いに連携して成長して行くものである。そうであるからこそ「揆」を「一」にする「一揆」であり、組織化していない一揆は有り得ない。人が集まり、集団で何らかの組織的行動を起こすにはある程度の経済力の背景、経済的基盤が必要である。圧政に苦しみ、飢饉の時には草の根を食べて命を繋いでいる一般農民にそのような経済基盤のある筈もない。曲がりなりにもそれが可能であったのは、国人と呼ばれ地侍とも呼ばれる群小の領主層、有力名主層である。
*こくじん(こくにん) 【国人】
国衆とも。中世後期日本の在地武士をさす。室町時代になってから,鎌倉時代の地頭クラスの系譜をひいたものが,在地領主として領域支配を確立している。守護大名領国制下で,守護勢力の被官として守護領国制を下から支えた在地勢力といってよい。
*じざむらい【地侍】南北朝から戦国時代にかけて、荘園、郷村に勢力をもち、戦乱や一揆の際に現地の動向を指導した有力名主層。戦国時代には諸大名の家臣となっていった。また、幕府や諸大名家に属する武士に対して、在野の武士、土豪をもいう。
「一向一揆」を「一向宗(浄土真宗)の教えが思想的なバックボーンとした一揆」と単純に捉えるのは誤りである。それどころか、本願寺(真宗の本山の一つ)は当初門徒の一揆を厳しく禁止している。はじめのうち、「一向一揆」は地侍や国人に対する抵抗・反抗運動として各地に現れた。これに対して地侍や国人の或るものは、その抵抗に妥協して難局を乗り切ろうとするうち彼ら自らが門徒となり一揆を指揮するようになり、亦あるものは一向一揆の宗教的組織とその勢力を積極的に取り込んで自らの武力として再組織、従来の守護大名に取って代わろうとした。当然元々門徒である国人や地侍が門徒農民を組織して一揆を指揮した場合もある。徳川家康の某臣として近侍し、家康が大御所として駿府に移って後は秀忠の執政となった本多正信が、永禄6年(1563年)の「三河(一向)一揆」に際しては一揆側にあって主家康に逆らった事はよく知られている。翌永禄7年(1564年)の一揆鎮圧後、家康は一揆に参加した家臣の帰参を許したが、正信は戻らず大和の松永弾正に使え、永禄8年(1565年)弾正と三好三人衆が将軍義輝を殺害する事件が起きると正信は大和を退去、加賀の一向一揆に武将として参じている(1569年に三河に帰参)。このように、「一向一揆」は次第に領国の支配権争奪戦の様相を帯びて行ったのである。つまり、「一向一揆」には、農村における宗教的組織が国人層や有力農民層の現状打破のための闘争に利用された傾向が強く見られるのである。
その「一向一揆」の中で特筆すべきは、長亭2年(1488年)に守護大名富樫政親の軍勢を破り、政親を自刃に追い込む猛威を見せた「加賀の一向一揆」である。この一揆は元々越前守護職を巡る富樫政親とその弟幸千代の国を二分しての争いが発端で、これに一向門徒衆が政親方に加勢、幸千代追放後、政親が支配権拡大を狙って門徒衆を弾圧した事が引鉄(ひきがね)となって一揆となったものである。この一揆側の軍は大きな田畑を保有する有力農民、土豪と呼ばれ国人と呼ばれた戦闘力を持つ侍門徒であった。彼らは「講」を作り、道場を建てて道場坊主となり、門徒集団の中核として大名の収奪に抵抗していた。この一揆の過程で弾圧側に付いた越中の土豪石黒右近光義の如きは城を持ち、千を越す兵力の動員を誇っていた。政親自刃のあと、一時一揆方に領国支配を巡り指導権争いが起こったが、この後約一世紀の渡り、加賀は「百姓ノ持チタル国」と呼ばれ大名領国制に近い本願寺体制の自治国となった。
「三河一向一揆」は永禄5年(1562年)に家康軍による上宮寺など真宗寺院からの兵糧調達を巡るいざこざが発端となっており、上の本多正信の例のように多くの家康家臣と土豪、真宗寺院勢力そして地主と農民が参加した。家康が敵兵から逃れて洞穴に身を隠した話が伝わるほど激しい争いであった。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いを機に、独立して間もない20歳を越えたばかり家康の家臣団掌握の未熟と領国経営体制の未完成がその背景にあったのは言うまでもない。
元亀元年(1570年)9月に始まった大坂石山本願寺と信長の11年に及ぶ戦い「石山合戦」は、信長の圧迫に抵抗して本願寺勢力が立ち上がった争いである。明確に天下統一を意識した信長が、武田、朝倉、浅井などの反信長連盟の一角、近江六角氏を攻撃するに至り、永禄8年(1565年)以来武田信玄と盟約を交わしていた本願寺は必然的に反信長勢力に組する仕儀となった。将軍義昭を奉じて上洛した信長は石山本願寺に対し上納金を命じ、石山本願寺は直ちにそれに応じているが、この時信長は石山本願寺の寺地を要求し、石山本願寺が石山からの退去に応じなければ寺院を破却するとの強硬な圧力をかけた。本願寺第11代法主(ほっす)顕如は門徒の奮起を要請(各地の本願寺・末寺にむけた檄文)、信長の三好勢攻撃のさなか、石山本願寺そのものも攻撃の危機に接し、ついに信長攻撃を決定するに至ったのである。石山本願寺の蜂起により信長は三好勢との争いに苦戦を強いられ、更に朝倉・浅井勢の参戦により、信長は大坂から一時撤退を余儀なくされた。このように、「石山合戦」も上述の例と同じく真宗の教義を背景とする宗教的な動機とした争いではない。勿論、石山本願寺が門徒衆を糾合するに際しては教義に訴え、実際の戦いに際して教義をスローガンにした事は容易に察せされるが、権力者層同士の支配権争奪戦がその実体である。この戦いの後半で本願寺は「篭城戦」に入るが、その間毛利輝元の食糧援助を受け、上杉謙信に上洛を要請しているのはそれを良く示している。毛利は一向門徒とは関係なく、謙信に至っては和睦がなったとは言えその直前までの一向一揆の弾圧する側の当事者である。
元亀2年(1571年)の伊勢長島の一向一揆は上述の石山合戦開始の際の顕如の檄文に呼応して起きた一揆であるが、伊勢長島にはそれ以前から火種が存在していた。今川義元の上洛に際して武者船千艘を率いて今川方に参加した服部左京亮友定と言う伊勢地方の土豪がいる。この時は桶狭間で義元が敗死したため自領へ引き上げているが、翌永禄3年(1561年)に長島城代となった。翌永禄4年(1562年)には信長への反逆を企てた尾張戸田庄の石橋義忠が服部友定を頼り長島に落ち延びてくる。更に永禄7年(1564年)、三河一向一揆で家康に敗れた上官寺(上宮寺とも)勝祐・信祐父子が長島に落ちてくる。永禄10年(1567年)8月には信長との戦いに敗れた斉藤竜興とその家臣が伊勢長島に落ち延びて来ている。同月、それを追いかけるように、信長の北伊勢攻略戦が行われ、翌永禄11年(1568年)、服部友定が信長の謀略にかかり最後を遂げる。次いで信長の第二次伊勢攻略戦が行われ、神戸氏が信長に下る(信長の三男信孝が神戸氏の養嗣子となる)。これにより、北・中伊勢は信長の手中に落ちた。永禄12年(1569年)、信長は第三次伊勢攻略戦を起こし、次男信雄を北畠氏の養嗣子として入れ、伊勢国一帯を手中にした。然し、ここまで何故か信長は長島には手を出していない。そこへ元亀元年の顕如からの「檄」が南美濃、尾張、伊勢の真宗を統括する長島の願証寺に届くのである。檄に応じて結集したのは願証寺の下間武士衆は言うまでもなく、服部党であり、上官寺一党、美濃斉藤家遺臣、神戸・北畠の旧家臣のほか近在の国人・土豪などである。ここにも土民一揆としての本来の性格はみられない。
長島一揆と期を一にして、顕如の檄に応じた一向一揆は近江、越前、河内、摂津その他に次々に発生するが、それぞれの一揆の詳細を述べるのがこの項の主旨ではないので、これ以上の一揆の紹介はこの辺で止めとする。が、要はこの時代の一揆と呼ばれる争乱が、農民が多数参加してはいても、農民が主体となったものでは決してなく、「一国の領主層」と、国人と呼ばれ、地侍、名主と呼ばれる「群小の土豪」の権益争いであり、更に亦その「抗争の構図」がそのまま拡大して戦国大名勢力間の争いに巻き込まれて行ったという事である。一向一揆にしても、顕如が信長包囲連盟に巻き込まれるは本意ではなかった事は残された種々の書簡にも書かれており、石山本願寺の対信長蜂起の決断に至るまでには支持母体からの突き上げに抗し切れなかった面あったであろう。更には一般の農民門徒を巻き込む事は決して本意ではなかったであろうが、顕如の「檄」は『若し、無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候也』とまで述べ、「参加に応じない門徒は破門する」とまで断じて(脅して)結集を呼びかけている。これでは一般の農民門徒でも参加せざるをえないだろう。それに至るまでの状況はどうあれ、結果的には権力を持つ者の謂である。「苛政は虎よりも猛し」、それに匹敵する宗教的強制、労働と生命の搾取である。
尤も、これも「国民皆兵」が実質的に「国民全部が兵隊」では有り得ないと同様、一向一揆も門徒の全てが参加した訳ではない。そのあたりの事は信長の書簡などにも記録として残っている。加賀の本願寺体制自治国も領国民の全てが門徒であった筈もなく、一揆に全員が参加したのでもない。争い、戦いも連日長期にわたって続いた訳ではない。領国経営者や群小豪族、本願寺や農民自身にしても、耕作をほったらかして年がら年中戦争をやるほど馬鹿ではない。歴史を考える上で常に必要な観点・視点であろう。ましてや「掃討」と言い、「殲滅」とは言っても、農民を皆殺しにしてしまっては、自らの頸を絞め、自滅に至ることに他ならない。無差別殺戮を行うほど支配層も馬鹿ではなかった筈である。
ここまでくれば、「兵農分離」政策が「耕作農民」を実質的対象としているのではない事は明白であろう。標的は武装した寺社を含む国人・地侍・名主・庄屋と呼ばれる富裕農民層である。「七人の侍」に描かれる農民社会は将に、当時に見られる普通の風景として存在していたのである。秀吉によって推進・完成された身分固定制はその後の所謂「士農工商」の身分制度となって徳川幕府に受け継がれ定着した。江戸時代の農村に於ける名主(なぬし)・庄屋の多くは、秀吉の刀狩令・人掃令の結果帰農した地侍・名主(みょうしゅ)の流れである。
終わりに:
歴史の事蹟を観るのに際して、視点を様々に変えてみる事は大切な事である。それによってそれまで見えなかった歴史の新しい側面が現れてくる場合もあり、歴史がより明確な輪郭をもって見えてくる事もあるだろう。その点で歴史は「生き物」と言える。「生き物」であるから、その誕生の要因があり、成長の過程と背景、そして他への影響があり、次代を生み出す。然しながら、歴史の或る一部分を切り取り、要因や背景を見ずして推論を進めるのは単なる空想であり空論に終わる。それは愉しい事ではあるかもしれないが、既に歴史から遠ざかっている。将に「七人の侍:歴史への挑戦」の筆者が陥っているそれである。基本的に歴史を直に見たものはこの世に存在しない。その点で歴史を語る者は皆「講釈師」である。学術的研究でも「見てきたような嘘(仮定)を言う」のが宿命である。従って、それら学術研究とは別に『逆説の・・・・』、『新説!・・・』、『・・・の真相はこれだ!』の類の書籍は昔から定期的に出版されてきている。それはそれで読んで愉しいものもありその労に敬意を表するものであるが、多くは以前に出ている本の焼き直しか、推論の展開に無理・こじつけの多い歴史研究上或いは歴史を学ぶ上で価値のあるものとは言えないものが多数である。「国軍の全廃」とか「言霊」とか、「・・・歴史への挑戦」の筆者が「歴史を勉強して」参考にしていると思われる本が何かは簡単に見当が付くが、それは教科書でもなければ歴史論文でも歴史資料でもない。それを読んで成る程と思う事もあろうし、その説を採用するのも結構であるが、何らかの形での「発表」にその説を取り入れるのであれば、当然少なくとも「検証作業」くらいはするべきであろう。そうでなければ、「歴史を勉強」する事にはならない。年表を暗記するだけでは歴史の勉強にはならないのと同じ事である。
歴史に限らず、生きた知識を身につけるには、それ相応の努力が必要である。身に付いて初めて迫力ある「評論」ができると言うものである。「七人の侍:歴史への挑戦」の筆者の奮起を促し、そう願う次第である。これが言いたくてこれを書き始めたが、こちらも衒いが多くて斯様に長いものになってしまった。最後までお読みになられた方々、誠に「かたじけない」。
2004年11月、今年は台風も来ず、地震は絶対無い国にて、「K」