志村甲之進の追跡



いつからだろう、父親と祖父に会話がなくなったのは。
二世帯住宅にありがちな、家族間の断絶なのだろうか。

いつからだろう、俺が祖父と話さなくなったのは。

でも俺は、あの年代の人間と何を話していいか分からないんだ。
同じ家の中にいるのに話すことも少なくて、何を言っていいのかも分からない。
居辛い家。

しかし、人間はそれでいいんだ、と俺は思うことにする。
孤独だけが、人生の友なのだから。


『志村甲之進の追跡』


俺の部屋は祖父の部屋と隣接している。
部屋の中には古典落語のテープと、本棚。
本棚があるにも関わらず、畳の上には読み終わった本や雑誌が散らばったままだ。
勉強机の上にもぼろぼろになった単行本が置いてあるものの、読みふけってぼろぼろになった訳じゃない。
ただ単に本の扱いがぞんざいなだけだ。ムーンパレス、ポール・オースター作。
見れば本棚の本だってものをこぼした跡や踏んづけた跡だらけでひどいものだ。
結局これは、本で重要なのは中の情報だけだと俺が思ってるからだ、という言い訳を発明したけど、ずぼらなだけかもしれない。
中の情報にしたって無茶苦茶で秩序がない、ウィトゲンシュタイン、レイモンド・チャンドラー、ライトノベル、ブルーバックス。
同世代は…いや、もっと上の世代でも読まないような本が多い。
そういうことをして、自分は特別だと思いたいのだろうか、俺は。
いや、その問い自体、意味のない、どちらかといえば自意識過剰的な考え方かも知れない。しかし。
俺は、読みたいものを読んでいるだけだ。
確かな正しいことを知りたいだけなのに、俺は本を読むことで、確かな正しいことなんてないことばかり知る。
本に関しては、そんなところでいいだろう。
問題は落語だ。
俺はどうして落語を聞くようになったのか、上手く思い出すことが出来ない。
古びたカセットテープ。今時、カセットなんてそうはない。さらに古びたテープレコーダー、これは誰から貰ったものだっただろうか。
思い出すことが出来ない。確かに、何か大事なことだった気がするのに。
祖父だろうか?
しかし、祖父は前に、落語の音が大きいと文句を言ってきたことがある、古いものを愛でる者同士ってことで、と僕がおどけると、仏像と落語を一緒にしちゃいけない、と笑っていた。
だから違う気がする。
畳敷きの部屋の中で、俺はあてもなく記憶を探って遠くを見ていた。隣の部屋からは、かすかな物音が聞こえる。
隣は祖父の部屋だ。
祖父は何を思って生きているのだろう。
俺とは三十年以上年が違う。
三十年は、永遠みたいに遠い。


「甲之進、元気か」
と祖父の志村タクヤは俺に言う。
なんで俺の名前はこんなのになってしまったのか。俺はこの名前でどれだけバカにされたことか。今はもう慣れたけど。
「ええ、元気です。お祖父ちゃんは?」
「もちろん、健康そのものだよ」
白々しいような、話すことがないような、そんな会話。
なのに祖父は楽しそうに見える。俺には分からない。
祖父はおしゃれで、友達も多くて、家から出れば楽しいことが幾らでもあるみたいだった。
いっそこの家から出た方が祖父は幸せかもしれない。なのに家族とかいう訳の分からないものに縛られている。
どんな事よりも、合理性を優先させるべきなんだ。
つまらないなら捨てればいい。
有利なら選べばいい。
それなのに…家族なんて、下らないじゃないか。
(本当にそうかな?)
俺は迷いを抱えたままだ。
祖父は微かな笑顔を口元に浮かべて、彫りの深い顔には余裕が滲んでいる。俺はどうも祖父に似ているらしい。よく言われる。
でも今の俺は余裕なく、何かに耐えるような顔をしているだろう。
「ねえ、お祖父ちゃん」
「なにかな」
家から出た方が、あなたは楽しいのでは?
言おうと思ってやめた。きっと、もっと年をとった時に世話をしてくれる人間がいないと不安なんだ。
人間関係には、利害しかない。
そう思わないと、割り切れない。
俺と祖父はこんなにも遠い。
「大学は楽しい?」
祖父はこの年で大学に通っている。色んなことに若者みたいに興味がある。
でも俺が本当に聞きたかったのはこの質問ではない。
じゃあ、何が本当に聞きたかったのか。
「楽しいよ。この年になっても、毎日が発見だ」
俺はこの年だというのに、毎日がくすんでいる。
本当に聞きたかったことも、もう思い出せない。



今日、祖父は若葉色のスーツを着てデートに向かった。
祖父はパソコンをしていて、インターネットで知り合った女の子に会うらしい。
なあ、お祖父ちゃん、あんたが幸せなら、それがきっと一番なんだよ。
あんたにとって、俺や家族が鬱陶しいなら、それはもう駄目なんだ。
この世界で信じられるのは自分だけで、一番大事なものは自分自身以外ではない。
そうだろう?
その筈だ。
そうじゃなきゃ駄目なんだ。
「ねえ、コウちゃん」
居間に行くと母さんが悪戯っぽく笑った。俺が甲之進と呼ばれるのを好かないからコウちゃんになったのだ。
「任務を命じる」
母さんは真剣な声を出しつつ、眼は笑っている。この人はなんだかんだで、祖父とも仲がよい気がしないでもない。
俺がうがリ過ぎているだけなのかもな。
「はい、閣下、どのような命令でしょう?」
母さんは親指をたてて玄関を指した。出て行ったと思った祖父はまだ居た。
重々しく母さんは言う。
「ストーキング、ヒム」
その英語間違ってるよ、と俺は思ったけど、何かをやり遂げた顔をした母さんに言うべき言葉はない。
「これが資料になる、検討を祈る」
見ればその紙束はインターネットのHPを打ち出したものだった。OK、母さん、あなたの執念は認めよう。
「しかし、なんでそんなことを…」
母さんは何も言わずに、付箋が貼ってあるページを指差した。
記述内容を見るに、今日のデートのことらしい。
「文章からの推測と本人の証言を合わせると、駅前の噴水広場になるわ。なお、この紙束は手動的に消滅する。君もしくは君のメンバーが捕らえられ、殺されても、当局は一切関知しない。幸運を祈る」
実にミッション・インポッシブル。古いよ母さん。例のテーマ曲が俺の頭の中を駆け巡っている。
「了解」
俺は以前に祖父からくすねた開襟シャツを着る。服を買う金が勿体ないので、そこそこ服に気を使っている祖父からくすねるのは安上がりでいいのだ。
さあ、追跡開始といこうか。


ウォークマンから聞こえる古典落語は熊さんと八っさんが漫談している。
人情、血縁、近隣縁者、なんで俺はこれが好きなのだろう。
確かな知性や言語への感性が好きだといえば形は整う。
しかし、もちろん俺が落語を聞くのはそんな理由ではない。
ふと、標的を見失い俺はあせる、ついつい落語に聞き入りすぎたようだ。
昼前の街は空いていて、尾行はいつばれてもおかしくないように思えた。標的と距離をとりすぎたのも見失った一因だ。
駅が近づいてくる。小さな駅、囲むようにあるコンビニや、シャッターの閉まった飲み屋、駅前にありがちな風景。
そして俺はパチンコ屋の横に標的を見つけた。
冷や汗をかいたぜ、一安心だけど、さて、どうする?
同じ電車に乗ってしまうとバレる可能性が高まる。どうせ目的地はわかっている。
別ルートで行くか?
腕時計を見る、待ち合わせにはまだまだ早い、お祖父ちゃん、はりきりすぎだぜ。
裏道を通れば…歩いていけなくはないか?いや、あそこでバスに乗れば…
俺は予定を変えて裏道を通る、高校時代にもよく通った、雑居ビルの裏側の、青い大きな業務用のゴミ箱があるような、狭い道だ。
そしてそこではビニール袋に口をあてて息をしている奴らがいた。ビニール袋の底には透明な液体。
何年たってもかわらないものだな、俺が高校生だったのは二年以上前だけど、何も変わっちゃいない、この道は。
「なんだお前?」
「急いでる、通らせてくれ」
「ここは埋まってんだよ、殺すぞ」
彼らは何がおかしいのか笑い出す。そうだ、昔は俺もそうだった。
威嚇と嘲笑。敵意と悪意。親近感を覚えるよ。
相手は三人、おそらく武装していない、俺は172センチだが、全員の体格は俺より小柄か同じくらいだ。一人は立って道を塞ぎ、残る2人は座っていた。
いける。
立っている一人は、いまだシンナー袋を手放してさえいない。
「どうしても急いでるんです、それと…」
相手は俺の言葉を待った、言葉の代わりに、俺は10歳の頃からしているキックボクシングの技術を披露した。
インパクトの瞬間、軸足を外へひねる、体重を乗せて相手の頭を刈る。
後頭部に命中し、相手は膝をついた。
本当に鍛えられた蹴りは、相手を一撃で沈める威力がある。蹴り方によっては、1トンを越える威力がある。
しかしその分、蹴りという技術は難しく、危険もあった。
拳で殴るのに比べ、蹴りは力学上も複雑な動きを必要とし、上手く体重が乗らなければ威力はないに等しい。
殴ることが出来ない人間はいないが、ハイキックが出来ない人間はいくらでもいるのはそのためだ。
また、片足で立つ状態になり、外した場合は致命的な隙をさらすことになる。
一撃必殺であり、外せば危険。
俺はそんなギリギリの技だからこそ、ハイキックを使うのをやめることができない。
あるいは、俺は死ぬことを望んでいるのだろうか。死の代替品としての危機。
シンナー袋をもったまま目の前の男が膝をつく、白目をむいている。
蹴りが綺麗に決まって相手が膝をつく、キックボクシングの試合ではよくある光景だ。
その鮮やかさは、見たことのある人間しかわからない。
しなやかで、モーションから終るまで1秒もかからない蹴りが後頭部に吸い込まれ、食らった相手はまるで映画のように膝をつく。
敗者が膝をつく頃には勝者は背を向けている。本当にそういう試合がある。
しかしこれは試合ではない。俺は背を向ける訳にはいかない、まだ2人残っている。
シンナー袋が落ちて、中身がぶちまけられた。
敵はまだ動いていない。
勝てる。
一撃で相手を倒せば、必ず敵は怯む。
しかも、2人の敵はまだ立ち上がってさえない。
ミドルキックが2人目の頭部を打った、完璧な手ごたえだった。見る必要もない。こいつはもう立つまい。
3人目は、ようやく立ち上がったところだったので顎を殴った。これも綺麗にきまった。
フェイントも何もない。必要なかった。
三人とも完全な素人だった。そして俺は素人を殴るのにためらいはない。
俺が習っているキックボクシングも、簿記計算のような技術にすぎない。競技者としての心構えなど、微塵も俺はもっちゃいない。
ただ単に、生きるのに有効な技術が欲しいだけなんだ。
全員が路地裏でのびているのを俺は冷ややかに見下ろした。
合計したら一分かかっていない。俺はそのまま裏路地を通る。確かな興奮が体を包んでいた。高揚している。
バス停まで駆け出す。
相手を暴力で打ち倒す、そこには確かな生きた実感がある。
自分は優れている。自分は強い。原始的な快感がある。生きている実感というやつが!
高校時代がフラッシュバックした。あの時、俺はただただ暴力を貪っていたじゃないか。
自分が鋭く、ナイフのようにどこまでも鋭くなっていくのを感じる。ヘッドホンからは船徳が流れている。
俺はバスに乗り込んだ。


柏木優は、その日はたまたまバスに乗っていた。
車は車検中だったし、別の車にはなんとなく乗る気がしなかった。それだけの理由だった。
そしてそこで懐かしい先輩を見かけ、ぎょっとした。
「志村先輩…」
睨むような目で志村甲之進は柏木を見ていた。
「柏木か」
志村先輩は、はじめて会った頃の目をしていた。
あの頃、志村甲之進は花寺でも1、2を争う問題児だったと思う。
彼は入学して早々、先輩たちと問題を起こした。殴り合いの大喧嘩だ。
男子校で、しかも花寺のような高校では、先輩が後輩を『指導』するのは珍しいことではない。
しかし当然ながら、そのやり方は配慮が行き届いているとは言いがたい。
ましてや入学してきた志村甲之進は、人でも殺しそうな、ある意味『反抗的な目つき』なので先輩に目をつけられてもしょうがない面はあった。
そして彼は『指導』に激烈に反発した。先輩たちが彼をただの優男だとなめていたのも問題だった。
見た目には志村は痩せた細い男で、その服の下の筋肉が恐ろしいほど締まっていることなど、普通は気付かない。
5対1にも関わらず、先輩たちは全員が白目をむかされる結果になった。
黙っていられないのは先輩達だ、新入生になめられる訳にはいかない。
先輩達は二十人で報復し、志村はシメられた…かに見えた。
多人数で袋叩きにすれば、もう反抗することはない、大抵はそうだろう。
しかし志村甲之進は筋金入りの反骨の徒だった。
彼は自分をしめた奴を、一人一人、一対一で片付けていった。
しかもその暴力は相当激烈なものだったらしい。彼は人を殺しそうな目つきで、彼らに恐怖を植え込んだ。傷害事件にならなかったのが不思議なくらいだった。
この悪夢のような期間、学校は荒れに荒れて空気はまるで触れれば切れるような鋭さだったそうだ。
三年生には入院者が続出し、志村は学校にバンテージを巻いて登校していた。それどころか、制服の下にはプロテクターまでつけていた。一説によると、ナイフとスタンガンまで持っていたらしい。
そんな彼の姿を笑おうものなら、顎を砕かれても文句は言えない。
ここはどこの戦場なのかと、志村と同じ一年生は毎日戦々恐々だったそうな。
結局、志村を締めたグループは全員お礼参りされる。
この時点で、もう志村と関わりたくないという人間がたくさん出た。
志村と関われば必ず怪我人が出るというのは、この頃の花寺の定説だった。二十対一でさえ、怪我人は続出したのだ。
これ以上こんな学園生活は嫌だという先輩達の当然の思いが、志村から手を引かせた。
さらに幸いなことに、志村は手を出さなければ何もしないタイプであるのが判明していた。
しかも、全員が1対1で極秘にやられているので、形式上は志村は先輩達に締められたという形のままだった。
誰もが志村の報復があったことを知っていても、黙っていれば体面だけは保てた。
納得できない数名が、志村を襲撃することに決めた。
お礼参りをしている間中、志村はとにかく囲まれないように立ち回っていた。
だが、なりふりかまわなければ連れ出せる。彼らは授業中の教室から彼を連れ出し、そして…
返り討ちにされた。
学校にプロテクターを着てくるような、常軌を逸した本気さに、彼らは適わなかった。
結果、もう誰も彼に関わらなくなった。
そうすると、学園は急に平和になった。
一人を除いて。
誰も、志村に話しかけない。
彼の周囲には、彼の力をあてこんだろくでもない連中が集まるようになる。
先輩達も志村と一緒にいれば動きが鈍い。先輩に睨まれるような奴らは志村に近づいた。
しかし、彼はどうにも一匹狼を気取りたいらしく、誰ともつるまない。
友達が一人もいない。
あの頃の彼は、はっきり言って、何を考えているか分からない宇宙人のような存在だった。
それでも喧嘩で何か頼まれると、嬉々として参加する。いかれている。
柏木がはじめて見た志村は、その頃の志村だ。
暗く鋭い目つきで世界を睨んで、言葉で交わせるものは何もなく、ただ暴力だけを好む。
狂犬と呼ばれていた。
今の志村は、あの時の狂犬だ。
「先輩、どうしたんですか?」
危ない。何故かそう思った。
「どうした?何がだ?」
何故か、柏木は彼から殺気を感じた。
昔に戻っている。
やれやれ、この人はまた、何か間違った方向へ突き進んでいるのか。
彼が三年生になるころには、仲良くしていた気がするというのに。どうしてしまったのやら。
昔を思い出す。
柏木は入学してすぐに、野獣のような先輩の噂を耳にしていた。
関わるな、と。
柏木は既にその頃リーダーシップやカリスマを発揮して、志村とは違う意味で一目置かれていた。
だから親切心から受けた忠告だったが、かえって柏木はその先輩と話そうと思った。だって面白そうじゃないか。
話してみると知的で、穏やかな先輩だった。
掃除当番も、クラスの手伝いもきちんとやる、見かけ上は問題のない先輩に見える。
何かが違う。
柏木はそう思った。
今まで見てきたグレた生徒とは違う。家族に問題がない。暴れない。ただ、抑えつけられることを異様に嫌う。
教師たちは今まで見てきたグレた生徒と同じように彼を扱おうとしている。愛が足りないか、何かそういう家庭問題の生徒として。
柏木はそこに誤りを感じた。
こいつは、思想犯だ。
犯人でもないのに変な呼び方だったが、柏木の中でしっくりと嵌った。
こいつに、情愛や、家族の愛の代替品を与えてまともな道に戻すやり方は通用しない。
何故なら、こいつはその家族の愛や、なにかそういう集団に帰属すること自体を否定しているからだ。
理由はわからない。だが何か偏った思想にこいつは凝り固まっている。
時代が違えばゲバ棒をもって火炎瓶を投げ、抜き差しならないところまで行ってしまうタイプだろう。
彼に必要なのは、彼の凝り固まっている思想が間違っていることを、論理かなにかで納得させることだ。
そしてそれは只の後輩である自分には出来ない仕事に思えた。
教師たちにも荷が重い、愛情で思想は切り崩せない、と思った。
(柏木、どんな気分かな、優れているというのは。柏木は、自分の力で生きられる。羨ましい限りだよ)
(皮肉に聞こえますけどね)
(羨ましいんだから、嫉妬してる風に聞こえても問題はない。金もあるし、頭も切れて、顔もよくて、腕っぷしも強い。どんな気分かな)
(案外、何があってもままならない、そんな気分ですよ。それに、腕っ節ではあなたにかなわない)
(そうか、そうだよな。みんな何かを背負ってるんだものな。それと、もしも俺が腕っ節で負けるなら、俺はお前とは話せない。全ての面で自分より優れている人間なんて、腹がたつ)
(優れているとかいないとか、他人と比べて意味がありますか?)
(結局、世の中はそういうものじゃないかな?社会は、優れていることを望んでいる。ね、『優』くん。はは、上手いこと言った?俺?)
結局、志村は二年の冬休みまで喧嘩に明け暮れ、この辺の高校で誰が喧嘩が強いかという話になると、必ず名前があがった。
その名声がより敵を呼び、志村はタチが悪いことに、そうなればなるほどキックボクシングの練習に打ち込み、練られた技が更なる敵を呼んだ。
少年漫画かお前は。
柏木はそう突っ込みを入れながら、バンテージを巻いて登校し、酷い時は腕だけプロテクターをつけてくる先輩を見ていた。
彼の周囲には柏木が絶対に関わりたくないような人間ばかりが集まり、しかもその中でさえ志村は孤立していた。
格闘家かヤクザになるしかない男だと柏木は思った。
物凄い勢いで間違った方向に進んでいる困った先輩だ。前歯のない友達が多すぎる。
しかし、彼は二年の三学期から徐々に変わっていく。 喧嘩をしなくなり、前歯のない友達と関わらなくなった(結果的に、誰とも関わらなくなる)

問題行動は殆どなくなり、学校の成績も飛躍的に上がった。
原因不明である。
柏木も不思議に思ったが、理由は分からなかった。
おかげで新入生は、志村甲之進がどれだけ恐ろしい人間か知らないままだっただろう。
三年生の彼は、ただの温和な先輩だったから。
そうなった彼を、柏木は嫌いではなかった。
なのに、今日の志村先輩は昔の狂犬に戻っている。
「人でも殺しそうな目をしてますよ」
志村は唇を歪めた。笑っているらしい。
「いまそこで殺してきたんだ」
「笑えないですね」
なんでこの男はこんなに殺気だっているのか、皆目分からない。
「志村先輩、今はもう、学校の先輩や後輩じゃないので、遠慮なく言いますが、また貴方は間違った方向へ走り出したんですか」
「間違った方向?柏木にそれが分かるなら、この世の善悪を決めるのは柏木ということになるな」
「余りにもとんでもない方向に行けば、さすがにわかりますね」
「なるほど、柏木にとってはそうかもしれない。お城でダンスパーティーをするような人間から見れば、歯のない奴らが裏路地でだべるのは間違った方向だろう。
しかし、俺から言わせれば、お前たちのダンスパーティーよりは、歯のない奴らの生き方の方がよっぽど人間として真摯だ」
「志村先輩、どうせあなたは、歯のない人達の喋りにだって参加できやしない。違う生き方をした方がいい。底辺の人間が分かるようなフリをしたって、欺瞞にしかなりませんよ」
「この世の全ては欺瞞だ。どこまで信じられるかが問題なだけだ」
バスが止まる。
「俺は用事がある、またな、柏木」
「志村先輩、あなたはどこまでも心配な人ですよ。しかも、心配してくれる人間を気にかけない」
「俺が頼んだ訳じゃないさ」
そのまま志村はバスを降りていく。
柏木は大きくため息をついた。


約束の時間に、祖父は噴水広場に現れなかった。
尾行を気付かれていたのかも知れない。しかし、場所は抑えているので、そこで張り込むしか俺に選択肢はない。
噴水広場で、俺は所在なく立っていた。
冷静に考えろ。
お前が祖父なら、どうする?
尾行されていて、のこのこ噴水広場に現れるか?
どうだろう…
微妙なところだ。俺なら、自分の都合で他人を待たせたくはない。
そこまでして見せたくない相手というのも怪しい。
もう少し噴水広場で待とう。
俺はぼんやりと周囲を見渡した。多くの人達が行きかうここでは、俺の姿は誰にも見えない。
祖父は手ごわい相手だ、尾行をまかれた時点で分かる。
しかし、一つ手を思いついた。
いくら祖父が相手を見せたくないにしろ、相手を無限に待たせる訳にはいかない。
三十分も待たせれば、さすがの祖父も焦るだろう。
そこで俺がまるで諦めたように噴水広場を去る。
おそらくはどこかで様子を見ている祖父は、好機とばかりに姿を現すだろう。
いける。
俺は時間を測って噴水広場を離れる、おそらく、祖父はのこのこと姿を現す筈だ。
「志村君?」
「え?」
いきなり声をかけられた。
声をかけた方も驚いた顔をしている。
「久しぶりじゃない、どうしたの?」
「なにがでしょう?」
「暗い顔をして」
彼女はそう言って微笑んだ。余り変わっていない華やぐような笑顔。
かつての俺の担任だった、遠山恵美。
何故だか胸が痛んだ。
「今、暇?」
暇ではない。祖父の監視を…
でも、まかれたことにしてしまえばいいか。結局、たいした用事ではない。
「何故ですか?」
「たまには恩師とお茶してもいいでしょう?」
「分かりました」
ごめん、母さん。
こっちの用事を優先する。
でも、俺は、たぶん。
あの頃、この人を愛していたんだろうから。


木の机が多数並ぶ喫茶店、古い音楽が流れている。
天井ではプロペラが回り、カウンターには樽が置いてある、全てが木製で、船室みたいな喫茶店だ。
俺と遠山は向かいあってコーヒーを飲んでいる。
「志村君、大学は楽しい?」
「全然。先生は楽しかったの?」
「全然」
そう悪戯っぽく言って先生は苦笑した。
「大学を楽しめる人間には二通りあってね、そこでの人間関係を楽しめるか、そこでの勉強を楽しめるか、どっちかしかないわ」
「俺にはどっちもできそうにない」
「私も出来なかったわ。それでもまあ、なんとか教師をしてる」
この人も、柏木のように俺に忠告したいのだろうか、確かに俺は、昔に戻りたいような気持ちにはなっていた。
「私の服、黒いでしょ」
言われてみれば、真っ黒だ、喪服の女性は何故かとても魅力的に見える。
「お葬式ですか?」
「そうなの、祖父が死んだのよ」
祖父、また祖父だ。
「仲が良かったんですか?」
「ええ、同居しててね、凄く優しかった」
彼女はコーヒーに口をつけた、赤い唇、口紅の跡がカップに残る。
「でも私、ある時から祖父と話さなくなった、凄く優しくて、良い人だったのに、上手く話せなかったの。何でか分かる?」
「世代の差、戦争の経験者と出来る共通の話題なんて、天気の話くらいしかないからでしょう」
「志村君にもお祖父ちゃんいるものね、分かるか」
「分かりますね」
遠山は疲れているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。少し違う気がした。
「先生、祖父が死んでも、余り悲しんでいないでしょう。そんな自分が不思議で、戸惑っている」
「志村君、心理学でも学んだの?」
「なんとなくです。なんだか、そうですね、孤独感や虚無感に襲われている」
「それ、志村君のことでしょ」
正解、10ポイント追加。
「そうかも知れない。先生、俺は他人と同じように笑ったりとか、出来ない。先生は、他人と協調することしか、人間に正しい道はないって言ってましたよね」
「そんなことも言ったかなあ」
「人間は、衣食住の全てが他人によってまかなわれている。来ている服は他人が作ったものだし、食べ物をつくってるのも、家を建てるのも、全て他人だと。ましてや、産まれるのに自分で産まれる人間はいない。根本的に全てを他人に依存しているのに、その恩義を忘れ、自分だけで生きるなんて傲慢だと」
「ああ、志村君ねえ、君は理屈しか聞かない子だったからそう言ったけど、本当に大事なのは、そんな理屈じゃないよ」
「でも、俺にはそれしかないんです」
「志村君、私ね、君が私に似てる気が、してたの」
「俺がですか?」
遠山が俺をじっと見た。俺は負けずに見つめ返す。
「私は昔、誰にも心を開かなかった。若い頃って、そういうことがあるのよ」
「今でも若いじゃん」
「もう28よ」
全然、そうはみえない。
「内緒にしてほしいんだけど、バツイチだし」
「知ってました」
「何で!?」
「親切な人が教えてくれたんです」
「あんまり知られたくなかったんだけどね。ほら、私、人間的に問題があるから」
「でも、先生、生徒に大人気だったよ、もてもてだった」
遠山は苦笑した。まあ、それはそうだろう。
「男子校だからね、そうなるよ。若い男の子と仲良くなる先生もいるみたいだった。私は出来ないけどね」
「俺と仲良かったじゃん」
「そういう意味じゃないよ」
あの頃、あなただけが、俺に論理を伝えようとした。
ウィトゲンシュタインも、あなたが教えてくれたものだ。
論理ではない生き方、他人に対する優しさ。それが大事なものなのだと。
そういえば…
「もしかして、俺に落語を薦めたのは、先生ですか?」
「落語?」
「違うのか…」
遠山がちらりと時計を見た。
何か用事があるのだろう。
そしてここで別れてしまえば、二度と会うことはない。
それはそれで正しい。
でも、俺は自分の学校生活に決着をつけたかった。
「先生、俺はあの頃…」
「そろそろ行かなきゃ、ごめんね、志村君、またね。あ、そうだ、言わなきゃいけないことがあったの」
「何ですか?」
遠山は少しはにかんだ。
「私、六月に結婚するの。懲りないのよね、私」
俺は何も言えない。遠山が立ち上がった。たぶん彼女は俺の好意に気付いていただろう。
もしかしたら、それを利用して俺を更生させたのかもしれない。
それを感謝こそすれ、恨む理由はない。
ないんだ。
「先生」
俺は彼女の腕をとって引っ張った。どうにでもなれ。
額に口付ける。
「餞別です。あなたが結婚するからといって、俺があなたが好きだった事実が変わる訳じゃない」
遠山も流石に驚いた顔をしていた。
ため息をついて言う。
「せっかく、振ったり振られたりする手続きを、省略してあげたのにね」
「逃げちゃいけない事もあるでしょう」
「君も、少しは大人になったのかな。じゃあ、言うけど、私は、あなたのことをそんな風に見ることは出来ない」
「OK、よく出来ました。声が震えているのは減点対象だな」
遠山は俯いて苦笑した、俺は見下ろしている、この人はこんなに小さかったんだな。
「もう、志村君さ、私を心配させないでよ。いい加減幸せになってよ。本当にそれは心から祈ってるんだよ?何で今日はそんな人を殺しそうな目をしてるのよ。私はね、あなたが真面目になってくれたこと、本当に嬉しかったんだからね」
「肝に銘じておきます」
「あなたを変えられたことだけは、私の人生で、唯一誇れるようなことなんだよ。ねえ、もう、お願いだから、ちゃんとしてよ」
「約束します」
遠山は俺から体を離して睨む。
「本当ね?」
「もちろん、でもこっちにも条件を出させてください。俺だけ約束するのは割に合わない」
「なにかしら」
俺はできるだけ真摯に、心の底から言った。
「あなたも、幸せになってください」
いつでも、それを祈ってます。本当に。
遠山が目を伏せた。
「教師を泣かせるようなこと、言っちゃ駄目だよ」
「少しは、俺もあなたにとって意味のある人間だったみたいで、光栄です」
「少しじゃないよ!」
潤んだ目で遠山が俺を見た。怒っている。
「私にとっては、本当に大事な生徒だよ。こんなこと教師が言っちゃいけないけど、一番気になる生徒だったんだから」
「ちょっとは好きだった?」
俺はそう言って笑顔をつくる、つられて彼女も笑った。
「ちょっとはね」
冗談めかして俺は言う。
「また離婚したら電話してください。いつでも待ってます」
遠山も冗談で返す。
「ほんと、それならまた離婚しても安心だわ」
涙を拭くためのハンカチを、俺は差し出した、少しためらったけど、遠山は受け取る。
「もう、駄目ね、年をとって涙もろくなって。もう、行かなきゃ、またね、志村君」
「はい、先生」
背を向けて歩き出す先生を俺はぼんやりと見送る、小さな背中だ。その背に、幾多の幸福がありますように。
「そうだ」
急に振り返る。
「あなた、落語はお祖父ちゃんに教えてもらったって、言ってたじゃない。それだけ」
勘定を払って先生は出て行く。俺は、落語のことをはっきりと思い出した。
(甲之進、お前は、固いなあ)
祖父はそう言って、俺に古いカセットテープを渡して…
(知り合いの坊主が、これを持ってた、聞いてみたらどうだ?)
そうだ、そうだったんだ。どうして忘れていたんだろう。
あの人が俺に渡してくれた落語は、伝説的な名演で、俺はそれで落語が大好きになったんじゃないか。
今思えば、あの人は生活の荒れた俺のために、たぶんその坊主とやらに相談したんだろう。
解決法が落語というのは物凄いけど。
ずっと祖父は、俺を気にかけてくれたいたじゃないか。
祖父と俺には、まだ繋がっている絆があるじゃないか。
俺は鞄からHPの資料を取り出した。
ここには、祖父が考えていることが書かれている筈だ。
少し努力すれば、本当は、楽しく過ごせる筈なんじゃないか。
ましてや、俺は今、先生と約束したじゃないか。
熱が冷める前に。
勇気を出せば、少しでも、何かが変わるんだと、もう一度信じてみよう。
そして僕はお祖父ちゃんのHPに、甲之進の八畳間を見つける。
資料にはHPのトップページしか印刷されていないので、漫画喫茶へ行ってアクセスした。

そこで俺は甲之進の八畳間をすべて見た。

やってくれるじゃないか、お祖父ちゃん。
祖父は、こんなに俺を気にしてくれているじゃないか。
先生は、今でも俺の幸福を祈ってくれている。
後輩たちは、俺のことをまだ忘れてはいない。
自分は他人と繋がっていて、たとえどんなに少ない繋がりでも、それを信じることが出来る。

俺が祖父と話せないのは、祖父は家の外の方が楽しいのだと決め付けたからじゃないか。
自分が相手に興味を持たないで、仲良くなろうなんて、虫が良すぎるじゃないか。

大学に行ったら、もっとちゃんと周りと話してみよう。
何がしたいのか、ちゃんと考えよう。

俺はプリントアウトした甲之進の八畳間を見ながら、帰ったら祖父と何を話そうか考えていた。



執筆:隠上荒人(隠上神社



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