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自分を裏切り恐れて生きるのは、夜の荒野を一人で歩くよりも恐ろしいことだ。 もしも、自分の感情を完全に制御して生きる人間がいるならば、彼は生きる意味を見つけることが出来ないだろう。 人間は理不尽に襲われ、己を制御できないからこそ、生きていくことが出きるんだ。 僕を襲い続ける理不尽は僕に僕自身を裏切らせ、いずれ犯す罪を恐れさせ続けている。 誰にも制御できない感情を、恋と呼び、あるいは、愛と呼ぶならば、それこそが僕の罪だろう。 つまりは 福沢祐麒は、福沢祐巳を愛していた。 『夜の向こうへ』 アリスは服を着替えるため、鏡を見ている。 細い、40キロ代の体、薄い胸、ダイエットの成果だ。 女の子に見せる為には痩せなければならなかった。 肩を出す服を着る時、少しでも肉があれば女の子には見えない。 華奢な肩幅がどうしても必要だ。 マスカラを塗って、できるだけパッチリとした大きな眼に見えるように化粧をする。 時間はかかる、髭が余り伸びない体質なのが救いだ。 ファンデーションを塗り、色んな角度から自分の顔を鏡に映す。 大抵の場合、顎の骨格で男と女は明確に見分けることができる。 アリスの未発達な骨格は、まだ少女の丸みを残していた。 鏡で自分の顔をチェックし、確かに少女に見えるのにアリスは安心する。 でも、いつまでこんな事が続けられるのだろう。 もっと年をとれば、自分は変わってしまうかも知れない。 何故ここまでして少女であろうとしなければいけないのか。 しかし、辞めることなど出来はしない。 制御できない衝動だけが、アリスを支配している。 レヴィ・ストロースは『親族の基本構造』の中で、インセストタブーは女性の交換を円滑校正にするための数学的規則に従っていると述べている。 ジグムント・フロイトは原初の罪がインセストタブーの基礎になっていると述べた。 近親婚は遺伝子の劣化や奇形を産むから、という説も根強い。 あるいは、もっとも身近にいる異性だから、性行為が出来ない年齢での自分の不能を思い出すからというような説もある。 しかし、福沢祐麒はこう思う。 そういう理由なら、現代ならもう別に、近親婚を禁止しなくてもいいじゃないか。 女性の交換なんて今時古い、原初の罪なんて知った事じゃない。遺伝子の劣化は今のところ完全に証明された訳じゃない。不能を思い出すも何も、ほっといてくれ。 退屈な社会科の授業を聞きながら、福沢祐麒は窓の外を見ている。 眼を瞑ると、姉の笑顔が浮かぶ。 昔からずっと一緒で、守ってやりたい女の子だった。 でもいつの間にか、追い抜かれていた。 そして、いつの間にか愛していた。 許されないからと、想いを捨てようとしたり。 別の女の子に想いを向けようとしたり。 ここから抜け出そうともがいた。 でも出来なかった。 出来る訳がない。 自由に愛を捨てたり、得たり出来るなら、人は人を愛したりしない。 じゃあ、祐巳を愛し続けて、僕はどこにたどりつけるというのだろうか。 どこへも行けない想いばかりが、溶けない雪のように積もっていく。 いつかそれに潰される時、僕はどうなるのだろうか。 あるいは、それに潰されるのを僕は待っているのかも知れない。 見えない雪は、今も降り積もっている。 アリスは両親に女装の事を隠している。 父親は嫌いだ。 滅多に家に帰ってこないし、帰ってきたらお酒の匂いをさせている。 お母さんをすぐに殴るし、近寄りたくない。 下品で、醜くて、尊敬できるところのない父親だった。 父親が帰ってきた日は欝になる。何もかもが嫌になる。 金太郎という名も、父がつけたそうだ。 ふざけた名前。 いまやそれは呪いのようになってアリスを苛む。 女装という行為の滑稽さ、醜さと、金太郎という名の滑稽さが重なっているように思えた。 自分の姿が滑稽にならないよう、女の子になればなろうとする程、自分の名が真実を突きつけてくるように思えた。 自分がいかに滑稽な存在なのか。 金太郎だって? 女の子の格好をする金太郎、まるでタチの悪いジョークだ。 アリスは入念に化粧をして、スカートを履き、秋だからシックな格好がいいか、それともミニにしようか迷った。 細い足、とにかく痩せなければ女装はできない。 女の子であることをとにかく強調しなければ駄目。アリスは自分に言い聞かせる。 詰め物をしたブラジャーを着けて、上からフリルのついたカットソーを着る。 ミニスカートを履いて、靴は膝まであるブーツにしよう、とアリスが思った時だった。 いつかはそうなる運命であり、避けることができないものが確かに存在する。 彼の父はプライバシーなどという言葉の存在は知らない。 「何してるんだ、お前…」 父親は、女装した息子を愕然と見ていた。 そして、手を振り上げた。 家に居て、姉の顔を眼で追ってしまうのは一つの病だった。 一つ屋根の下に愛する人がいて、何も出来ないのは幸福だろうか、不幸だろうか。 父も母も家庭を愛していて、凄く良い家庭だと客観的にも思う。 その平和を乱しかねない獣がいるとするならば、それは僕なんだ。 柏木に会ってから、祐巳は悩んでいた。 遊園地に行ってからだ。 夜の台所で、僕は眠れずに俯いている祐巳にキスした。 分かっている。それがどれくらい許されないことなのか、分かっている。 でも祐巳は祥子さんを愛していて、僕には入る隙間がなくて、それで、それで。 気付いたら、家を出ていた。 月明かりが照らす深夜に。 家の外の街灯の下、少女がいる。 フリルをあしらったカットソーにミニスカート、ブーツを履いている。 「祐麒、一緒に遊びに行こう」 「何でここにいるんだ」 「たまたま通りかかったの」 「何時だと思ってるんだ」 「祐麒も出かけるとこだったんでしょ」 「何で…」 泣いた跡があるんだ。 見事に少女に変身したアリスの顔には、涙の跡と、殴られた跡があった。 「行こう?」 「どこへ」 「えーと、もう電車も動いてないかな、歩いて行けるところ」 「歩いてどこへ行くんだ」 「ここじゃないどこかに」 「ここじゃないどこか、ね」 悪くないのかも知れない。 深夜に2人で、ここではないどこかを目指して歩くのも、全然悪くない。 だって僕には、もうどこにも居場所がないんだ。 いつか、より深い罪を犯す前に、どこか遠い場所へ行けたなら、それは… 「高くて、遠い場所へ行こうね」 「そうだな」 「どこよりも高くて遠い場所がいいよね」 「そうだな」 「じゃあ行こう」 アリスが手を差し出してくる。思わず握り返した。冷たい手。 「女の子の格好で、男の子と手を繋いで歩くの、夢だったんだ」 「夢をかなえる手伝いが出来て嬉しい限り」 「祐麒は、もっとムードを出す練習をしたほうがいいよ」 「それはお前じゃない誰かと一緒の時に練習するさ」 誰と? 誰もいない。そんなことをすべき相手は、もはやいないんだ。 アリスは僕を引っ張るみたいに歩いていく。 その体は軽やかで、月明かりの中で跳ねているようだった。 ミニスカートの裾が揺れている。 暗闇と、転々と続く街灯と、月明かりだけが僕達を見ている。 中等部の頃、アリスは一人だった。 男の子であることを受け入れられない自分を隠して 俯いて心を閉ざして 心から笑うことも出来なかった。 山羊の中に混じった狼。 醜いアヒルの子。 白鳥になんかなれはしない。 童話のような救いはどこにもなかった。 家では父が暴れ、憎しみだけが渦巻いている。 学校では自分を隠し笑うこともない。 この世界のどこにも居場所はなかった。 あの頃のアリスは世の中を斜に見て、皮肉な笑みを浮かべていた。 福沢祐麒に会うまでは。 夜になると世界は変わる。 子供の頃、福沢祐麒は夜が来るたびに、街が秘密に包まれた別の世界になるように感じていた。 今、アリスと手を繋いで歩く夜の街は見たこともない世界に思える。 いつもにぎわっている駅前の広場に人影はなく、噴水の中の水は黒い水に見えた。 全てが何か秘密めいて見えて、鼓動が高鳴る。 「いつも人が居るところに人がいないと、不思議な気分だな」 「そうね」 とアリスは微笑んで、祐麒に目配せして言う。 「ねえ、この世界で2人だけになったみたいじゃない?」 祐麒は少し迷ってから言う。夜の空気に酔ったせいにして。 「本当に2人だけになったのかも知れない」 アリスが少女らしい仕草で髪をかきあげた。頬を染めたアリスは少し嬉しそうで、悪戯っぽく祐麒に尋ねる。 「私達が知らない間に?」 夜の空気に、アリスのコロンの匂いが混じった。 「そう、僕達が知らない間に」 繋いでいるアリスの手は、祐麒の温もりが移ってもう温かい。 「どうして2人だけなの?」 祐麒は少し考えてから答える。 「他の人たちは朝の世界に行ってしまったんだね。僕達は誰もいない夜の世界に迷いこんだんだ」 アリスが噴き出した。くすくす笑っている。 「驚いた、祐麒、ロマンチストね」 「きっと、深夜になると変なポエムを書きはじめるんだよ」 「そういう経験があるの?」 アリスはまだ笑っている。 「たぶん、みんなあるんだと思うよ。深夜にラブレターを書いちゃいけない。この世の鉄則だ」 「誰にラブレターを書くの?」 「誰だろうね?」 姉の笑顔が浮かぶ。 祐麒は言葉を切って、何かを振り払うように歩き出す。遠くでピアノの音が聞こえた。 「ピアノ?」 「何かしらね?」 駅前広場の端に、エレクトーンが置かれていて、その陰に少女がしゃがみこんでいた。 路上で歌う多くの人々の仲間なんだろう、と祐麒は思う。 でも少女はまるで歌う気がないみたいに眼を瞑ってしゃがみこんでいる。 「ねえ、あなた、ここで何してるの?」 とアリスは無邪気に少女に聞いた。 「朝が来るのを待ってるの」 と少女は答えた。夜の空気みたいに冷やりとして静かで、水晶みたいに透明な声。 「ここで?」 「そう、ずっと待っているけど、朝が来ないの」 少女は青い目をしていた。夜の海みたいに暗い青色。 「私達のために歌ってくれる?」 「いいよ」 少女は立ち上がり、エレクトーンに触れた。ピアノの音が夜の空気に溶けていく。 彼女が歌いだす。どこまでも染み込んでいく透明な声。 夜みたいな声だな、と何故か祐麒は思った。 朝をずっと待ち続けて、朝を夢見るけれどたどり着かずに消えてしまう。 そんな歌だった。 でも、哀しいとか、寂しいとか思わなかった。 夜みたいな歌だと、祐麒は思った。 「じゃあね」 そう言うと少女はまたしゃがんで目を瞑った。 「風邪ひかないようにね」 アリスはそう言って祐麒の手を引く。 何だか夢の中にいるみたいだった。 中学校の修学旅行の時だった。 アリスは男子とお風呂に入るのが嫌だったし、ずっと団体行動をするのも辛かった。 一日目の夜、体を隠すアリスを周囲がはやしたてた。 下品で、野卑で、まるであの男みたいだ。 全てが嫌になる。 「やめようぜ」 言ったのは福沢祐麒だった。 彼が止めなければ、アリスは修学旅行という行事を、永遠に嫌ったままだったかも知れない。 それから、少しづつ祐麒と話すようになった。 たぶん、その時、既にアリスは祐麒に惹かれていたんだと思う。 夜の空気は青い。 冷たくて、透明で、水みたいだ。 どこまでも歩いていける気がした。 「祐麒…あれ」 「あれ?」 自転車に乗った、制服を着た男が見えた。警官だ。 「隠れなきゃ、補導されちゃう」 「隠れるったって」 祐麒は周囲を見回す。駅から離れた商店街、アーケードもなく、大きな道路の両側に店が並んでいる。 今は殆ど行き交う車もなく、遠くに自転車のライトが見えるだけだ。 アリスは素早く手を引いて、店と店の間の狭い路地に入った。 大きな業務用のゴミ箱がある。アリスが蓋を開けた。 「空みたい」 「まさか」 「入っちゃう?」 「そこまでしなくても見つかり…」 自転車が止まる音がした。 「決定ね」 2人で入って蓋を閉める。携帯の明かりでアリスを見る。 「路地までは入ってきてないんじゃないか?」 小声で囁いた祐麒に、アリスが口を寄せて囁き返す。 「分からないじゃない、そんなこと」 体と体が密着する。何故か祐麒はどぎまぎした。 携帯の明かりはミニスカートから覗く、すらりと伸びた細い足を見せている。 「かくれんぼしてるみたい」 「まったくだ」 「ねえ、捕まったら、私達どう思われるかな」 「どうって?」 「駆け落ちしたカップルみたいに思われそうじゃない?」 足と足が触れる。使われていなかったゴミ箱は思ったほどに異臭はせず、アリスの匂いと祐麒の匂いで満ちている。 「かも知れない」 「ほんとに駆け落ちしちゃおうか」 そう言ったアリスの表情は見えなくて、本気なのか冗談なのか分からなかった。 「悪くないな」 「ほんとに?」 不安そうな、すがるような声。 「ああ」 自転車を動かす音が聞こえた。もう大丈夫だろう。 「出ようか」 「もう少しこのままでいない?」 「どうして?」 「もう少しだけ」 アリスがそう言ったから、二人は手を繋いで少しの間だけそこに居た。 アリスは眼を閉じて、祐麒は眼を閉じずに。 「携帯の明かり消して」 「なんで?」 「いいから」 「??分かった」 完全な暗闇になったとき、アリスが動く気配があった。 ちゅ 「え?」 何が起こったのかは、分からない。 その日は父親がとても荒れていた。 殴られて、顔が腫れたまま登校して、鞄を空けたら割れたガラスの破片が入っていた。大きい奴だ。 その頃には祐麒と随分親しくなっていたけど、皮肉屋の男の子という仮面は崩せずにいた。 「その怪我、どうしたんだ?」 「なんでもないよ」 祐麒は気になってたみたいだけど、それ以上は踏み込んではこなかった。 それが残念なような、嬉しいような、複雑な気持ちだった。 アリスは自分の気持ちに気付かない。 昼休み、屋上で三人で弁当を食べた。祐麒は浮かない顔。 小林はのんびりとパックのコーヒーを飲んでいる。 「小林、お前、告白されたことあるか?」 「はあ?」 祐麒に言われて小林は眼鏡がずり落ちる勢いで返答する。 「告白されたことなんてあるわけねーだろ!告白されたら俺は彼女持ちになってお前達とはつるまずに毎日彼女といちゃいちゃしてるっつーの」 「うん、お前に聞いてもしょうがなかった」 「ひでえ!?」 「有栖川はある?」 ある訳がなかった。仮に女の子に告白されても、上手く付き合えないだろう。 「ないよ。僕はあんまり恋愛に興味がないね」 「そっか、だよな」 その頃のアリスは、恋愛なんて幻想であるという説を支持する人たちの仲間だった。青臭い恋愛否定論。 「それで、なんでそんなことを聞くんだ?」 小林のもっともな質問に、祐麒はこう答えた。 「俺、バイト先で告白された」 潮の匂いがする。 「海?」 「そうだよ、海を見下ろせる場所がこの先にあるの」 人家もまばらな坂道は、月明かり以外の明かりがない。 アリスは動きにくそうなブーツなのに、スカートをひらひらさせて歩いている。 「ねえ、祐麒、覚えてる?」 「何を?」 「初めて会った頃のこと」 「覚えてるよ」 本当は覚えていなかった。印象的な出会いではなかった筈だ。 坂道は殆ど山道に代わり、周囲には木々が増えてくる。 こんな場所があっただろうか。 全て夢ではないかと思うほど、月は明るく、夜は深い。 「お前は男だった」 「そう、でも今は女の子」 どこへ行こうとしているのか。 波の音が聞こえる。 「祐麒、バイト先の女の子と付き合ったことがあったでしょ」 「あったな」 忘れていたこと。 祐巳を忘れようとして、結局は彼女を傷つけた。 「びっくりしたわ」 「だろうな」 アリスが笑った。 「びっくりし過ぎて、私、手首を切ったでしょう」 祐麒は思わず息を呑む。 それはずっと禁忌になっていた話題だった。 小林も、祐麒も、その話に触れるのを避けていた。そして忘れようとしていた。 祐麒が女の子と付き合いだして暫くして、アリスは、何故か持っていたガラスの破片で自分の手首を切った。 床に出来た、真っ赤な血溜まり。 今でも覚えている。 はっきりと。 それを見つけたのは祐麒だった。 驚き過ぎて大きな声が出ない。 「何してるんだよ…」 「意外と、切れない」 そう言ってアリスが笑う。力の無い笑い。 祐麒が消毒して包帯を巻き、救急車に一緒に乗った。 弱弱しい声。 「お願い、ずっと一緒にいて」 祐麒はアリスの手を強く握る。 「…分かった」 病室で祐麒は、ベッドの傍に座ってアリスの話を聞いた。 一緒に遊んで楽しかったとか、そんなたわいない話ばかりだ。 何故とか、どうしてとか、説明はない。 それでも祐麒は何も聞かずに傍に居た。 教師が来て、小林が来て、母親が来て、でもアリスが一番求めていたのは祐麒が傍にいることだった。 そして父親が来た時、アリスは泣きながら、父親を追い返してくれと祐麒に懇願した。 祐麒は短く答えた。 「分かった」 分別くさい大人達は、なんだかんだ言っても親と話をさせない訳にいかないと言って、それは正論だとは祐麒も思う。 しかし、病室に来た酒臭い男を見て、祐麒は正論なんてくそ食らえだと思った。 親との間には情愛がある? 親とは仲良くしなければいけない? そういう偏狭な常識を押し付けることが、今のアリスをどれだけ傷つけるか、教師や医者には分かりはしない。 「酒を抜いてから出直してください」 祐麒は断固とした態度でおい返した。教師は真っ赤になって怒ったし、色んな人が祐麒の非常識を責めた。 でも常識なんてくそ食らえなんだよ。 そうだろう、アリス? 祐麒はそうして、アリスの閉じられた心を開いた。 ずっと誰にも言えなかったこと。 自分の滑稽さ。 醜さ。 言ったら嫌われる。 軽蔑される。 気持ち悪いって思われる。 でも それでも たとえ世界の全てが信じられなくても 白鳥になれない黒いアヒルのままでも 祐麒だけは自分を許してくれる 祐麒だけは自分を嫌ったりしないって そう、信じたい。 だからアリスは全てを語った。 父親の事。 女の子になりたい事。 ずっと孤独だった事。 泣きながら色んなことを喋った。胸につかえていたものを全て吐き出すみたいに喋った。 祐麒への想い以外は。 そうして、福沢祐麒はアリスにとっての特別になった。 次の日からアリスは女の子になりたいのを公言するようになり、小林と祐麒ができるだけ偏見から守った。 それが全ての始まりだ。 今、それをはっきりと思い出す。 「ねえ、祐麒」 アリスの声が祐麒を現実に引き戻す。 「私、祐麒に隠していたことがあるの」 だいぶ離されている、アリスは山道のずいぶん先にいて、祐麒を見下ろしている。 月光を背にしたアリスはうっすら光ってるような気がして、怖いくらい綺麗だった。 「どうして手首を切ったか、知りたい?」 「ああ」 「私に追いついたら教えてあげる」 アリスが駆けていく。 祐麒も駆け出した。 息が上がる。ゆらゆらと揺れる淡い月の光。潮の匂い、波の音。 少女の姿をした美しいものを、祐麒は追いかける。 2人はそうして、夜の中へと入っていく。 『この先、危険』という看板を追い抜くと、急激に視界が開ける。 アリスが立ち止まった場所は崖だった。海を背にしたアリスが微笑んでいる。 この世のものではないみたいに見えた。 「まるで世界の果てね」 夜の海が眼下に広がっている。波が寄せては返し、月がその姿を水面に映していた。 「アリス、追いついたぞ」 「知りたいの」 「知りたい」 「それならもっとこっちへ来なきゃ」 崖は高く、海面までは遠い。祐麒は意を決して踏み出した。 「吸い込まれそうだな」 「そうね」 近くで見るアリスはハっとするくらい美しかった。危ない、と何故か反射的に祐麒は思う。 「手首を切ったのは、祐麒が女の子と付き合ったから」 「どういう意味かな」 「あの頃の私には、祐麒しかいなかった。家には居場所がなくて、男の子のふりが辛くて、祐麒が世界の全てだった。祐麒が女の子と付き合って、初めて気付いたのよ」 何にかな?とは聞けなかった。 「祐麒、私ね、あの頃からずっと」 体が震える、言葉が喉から出るのをためらう、それでも意を決して、アリスはまっすぐに祐麒を見て言う。 「祐麒のことが好きなの」 祐麒は言葉をなくして立ち尽くす。アリスは続けた。 「だから祐麒が女の子と付き合いだした時、何も言わずに消えてしまおうと思ったの。あの頃の私は男の子だったから、自殺したって理由は誰にも分からないだろうから」 「俺が止めた」 「そうよ」 いきなりアリスは祐麒を抱きしめた。 アリスの温もり。 コロンの匂い。 なんて小さくて細い肩だろう。 僕はどこに行こうとしているのか。 ここは確かに世界の果てだ。 「愛しているの、どうしようもない程好きなの。自分でも止められない」 「アリス…」 「私、ずっと祐麒だけを見てた。祐麒」 アリスが祐麒を見上げた、驚くほど澄んだ眼をしている。 「一緒に、降りよう?」 夜の海を指差してアリスは誘うのだ。その暗い死の淵へ。 深く青い夜の海は、飛び込めば二人を包んで溶かし、誰もいない場所へ2人を運び去るだろう。 「アリス、どうして、今日も泣いていたの?」 祐麒は現実感を失って、決断することが出来ずに質問をする。 まるで全てが、夜の幻だ。 「この格好をしているのがあの男にばれたの。もう二度と、家に帰れない」 家に帰れば祐巳がいる。 触れてはいけないものに触れた。 僕も帰ることが出来ない。 夜の海は、静かに僕とアリスを包んでくれるだろう。 一歩、僕達は崖に近づいた。 最初から 最初から分かっていたじゃないか。 こうなることは見えていた。 行くあてもなくて 帰ることも出来なくて 街灯の下で握った手の冷たさ。 僕達は最初から死を目指して歩いていた。 誰も届かない高くて遠い場所は、そこしかない。 死の匂いは、2人で歩き出した時からずっとそこにあったじゃないか。 朝を夢見ながら、星は消えていった。 少女がそう歌っていた。 僕は 僕は… 2人で海へ飛び込む姿が眼に浮かんだ。 僕はアリスを抱いたまま、崖から離れる。 「アリス、お前は、俺のことをずっと想ってくれていたんだな」 アリスは頭を祐麒の胸板に押し付けて呟く。 「誰よりも」 祐麒はアリスを上向かせ、額にキスした。 「ありがとう」 「祐麒…」 「でも、俺はアリスの想いに答えることは出来ない」 アリスが表情をなくしていく。崖へ行くのを防ぐために、祐麒はアリスを強く抱きしめた。 「俺もずっと隠していたことがあるんだ。聞いてくれ」 アリスは祐麒の腕の中で泣いている。 「あのバイト先の女の子と別れた理由でもあるんだ。俺はね」 上手く言えない。言葉が出ない。しっかりしろ、アリスはあんなにハッキリ言ったじゃないか。 「姉を愛してるんだ」 「祐巳、さんを?」 「俺は福沢祐巳を愛している。だからあの子と恋人同士にはなれなかった」 そうだ。 産まれてからずっと、ずっと愛し続けているたった一人の女の子なんだ。 「今日、祐巳にキスして、俺は怖くなって家から逃げ出した。帰ることなんて二度と出来ないと思った。だからアリスが一緒に死のうって言った時、それでもいいとも思った。でも」 ふと、周囲の青が薄くなっていくのに気付く。夜の空気がなくなっていく。 「それじゃ駄目なんだ。たとえどんなに惨めでも、ちゃんと生きなきゃ駄目なんだ。アリス、女装がばれたら人生終わりなのか?お前は俺に女の子になりたいと言ったら、世界が終ると思っていただろう?でも現実はどうだ?全然続いてる。生きていける。帰って父親にぶちまけろよ、これが自分なんだって。それで勘当されたら、また俺のところでも小林のところでも来ればいい。頼まれれば絶対何とかするさ」 「祐麒…」 「俺も、祐巳に自分の想いがばれたら何もかも終わりだと勝手に決め付けてた。でも、告白したって死ぬ訳じゃない。何も終わりはしない。気まずくなったり、家にいられなくなったりするかも知れない。でも生きていける。アリス、お前が俺に勇気をくれたんだ。お前が、こんな俺のことを好きだって、勇気を出して言うのを見てたら、まだ生きていけるって思ったんだよ」 ほんの少し勇気を出せば、きっと世界は変わるはず。 「だからこれで終わりじゃないんだ。幻みたいな高揚とか、一瞬の美しさとか、そんなものに溺れちゃいけないんだ。アリス、生きていこう。一緒に生きていこう。また辛くなったら、何度でも夜を歩こう。いつだって付き合うからさ」 たとえ辛くて寂しくても、一緒に誰かがいるなら歩いていける。 「行こう」 祐麒はアリスの手を握る。 ためらうアリスの背に、朝日が差してくる。 「日の出…」 振り返ったアリスは、海の向こうから太陽が出てくるのを見た。 海は光を反射してキラキラと輝き、朝の空気が周囲に満ちてくる。 「行こう。何があっても、朝は来るんだしさ」 祐麒はアリスの手を引いて歩き出す。 アリスはその手を握り返した。 2人は帰っていく、朝の街へ。帰るべき場所に。 「アリス」 「なに?」 「俺、決めたよ」 「何を?」 「帰ったら俺、祐巳に告白する」 祐麒は、帰ったらなんて祐巳に切り出そうか考えはじめていた。 |