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今朝台所を覗くと、甘い香りが漂っていた。あと何日もしないうちに訪れるイベントのために用意された材料たちが出番はまだかと訴えるかのように目に飛び込んできて、思わず顔を顰めてしまう。 「あ、お嬢さま。おはようございます」 悪いことをしているのを見つかった子どものようだ、と瞳子は自分を揶揄した。昔からいるこの料理人には頭が上がらない。それはただ幼少の自分を知りすぎているからというだけではなくて。 「お嬢さま。今年もやっぱり作らないのですか?」 毎年、こう聞かれるからなのだ。 *** 勉強に集中できないから気分転換のためにと両親にも自分にも言い訳をしてきた。実際、広げた問題集は一ページも進まなかったのだ。だがこの分では、その目的を達成することすら間々ならないかもしれない。 街中はふわふわとした空気に満ちていた。さまざまな年齢の男女がひしめく中に浮かぶはこの時期どこでも掲げるバレンタインデーの文字。正月が過ぎてしまえばすぐに表に出てくるそれは、目にするだけで甘い香りが鼻をつくような錯覚を起こさせる。これでは家を出てきた意味がない。 いかにも女性受けしそうな外装のチョコレートの店を避けて、瞳子は両親としか来たことのないデパートへと身を滑り込ませた。チョコレートが嫌いなわけではないが、今は香りにすらまとわりつかれるのはごめんだった。その点、デパートはどこもそうであるように、一階は化粧品売り場。粉っぽい匂いがしたとしても、遥かにマシに思えた。 冷やかすつもりは毛頭ないけれど、高校生が化粧品を必要とするわけもなくて、当然ウィンドウショッピングに徹することになった。知らない場所をひとりで見て回るのは思っていたより楽しくて、口紅やアイシャドウがひとつひとつきらきらと輝くのを見ているだけでもよかった。しかしせいぜい二周もすれば別のものも目に入れたくなるもので、瞳子は辺りを見回してエスカレーターを探した。 「あった」 しかし近づいてみればそれは地下へ向かって、音もなくするするとステップを生み出していた。それがまた滑らかに吸い込まれる先には全体的にピンクがかった光景があって、デパートに入る前横目でちらりとだけ捉えた店と同じ香り、同じ混雑ぶりを呈していた。瞳子は即座に回れ右をして反対側の上りエスカレーターへ駆け寄るように辿り着く。今度は上へ伸びていくステップに無事両足を乗せると、図らずも息が漏れた。 二階と三階は婦人服売り場で、それぞれ一周だか二周だか、とにかく店舗をひとつずつ見て回った。買う気もないのに見ているのは失礼に当たるかもしれないと最初は緊張していたが、ほかの客たちも見る限り本当に買うつもりで来ている人のほうが少ないように思えたので、瞳子も気にせず色とりどりの服や鞄やその他の小物たちを目に焼き付けて楽しんだ。ときどき店員に声をかけられても、今日はいいですなどとにっこり微笑めばそれで済んだ。そういったことは得意なほうだ。 さらに一階ずつ上へ上がっていって、男性ものや子供服のフロアなどはすたすたと迷いのない足取りで半周ほどし、それだけでまたエスカレーターに乗り込んだ。やはり見ているだけなら自分が興味のあるものでないとだめだ。ただひとつだけ、父に合いそうなセーターがあって、それを目にした一度だけは足を止めた。そのセーターを、頭の中で父に着せてみる。プレゼントできたらどんなによかっただろうか、柔和な顔をして喜ぶ父の顔が簡単に想像できて、瞳子は思わず想像の父に笑い返した。その笑顔は、さっき出かけてくると告げた瞳子に向けて浮かべた笑顔と同じだった。父はいってらっしゃい、あまり遅くならないように、と言って瞳子を送り出してくれた。それは瞳子がまた、あと数時間のうちには松平家へ戻るということを示している。当然だ、どこへ行くこともできるはずがない。それは昨年のクリスマス前に、既に証明されていた。だから今瞳子が考えたのは家を出たいということなどではなくて、帰る家が当たり前に松平家であるのだということだった。 「……何を、今更」 松平瞳子、と十六年の間ずっと名乗ってきたというのに。いや違う、そう言ったことでもないのだ。ただ、両親が待つ家が松平であるという、そのこと自体が大事なのだ――。 はっと気づくとエスカレーターは瞳子の乗ったステップが吸い込まれようとしているところで、慌てて瞳子は片足ずつそこから降りた。ぐるぐると巡っていた考えはこのエスカレーターが下から上まで行くのにかかる時間程度の短さで終始したのだと思うと、全身に入っていた無駄な分の力がふっと落ちていったように感じられた。後ろから瞳子と同じように上がってきた人たちのためにその場を空ける必要もあって、父の笑顔は瞳子の脳裏の隅のほうへ、一時的に仕舞いこまれた。
人を避けながらも天井から下げられた垂れ幕に書かれた文字を読み上げる。 「北海道、物産展」 そして視線を下ろせばそこにはジャガイモの山があった。通路を挟んだ隣のコーナーには、牛乳やバターといった乳製品が所狭しと並べられており。ぐるりと体を半回転させて斜め後ろを見てみれば、蟹や帆立などの海産物のコーナーの真ん中で販売員の伯父さんが、新鮮だよー、と声を上げていた。なるほど、確かに北海道の特産品ともいうべき品が勢揃いで、東京都内のデパートの一フロアに集結されていた。 瞳子はしばらくの間止まっていた足をそっと前に出して、積み上げられたジャガイモに近づいてみた。よく崩れ落ちないな、と感心してしまうほどの量がそこにはあって、このフロアにいる客たち全員が買ったとしてももしかしたら足りてしまうのかもしれないなんて思ったりした。これは、面白いかもしれない。これまでのフロアは服なら服、靴なら靴、化粧品なら化粧品、と有体に言えば同じようなものばかりが売られている場所だった。しかしこのフロアには、まったく違うものがひとつところにまとめて出されているのだ。瞳子は足が軽くなったかのようにくるくると、次から次へ品物を見ていった。乳製品のコーナーには牛乳、バターのほかにも、チーズ、ヨーグルトなんかもある。しかもそれらが何種類かずつ置いてあるものだから、どれが美味しいのかなんてまるで判らない。にこやかに、いかがですかー、なんて接客をしているバイトらしきお姉さんに聞いてみたとしても、どれも美味しいですよ、としかきっと答えてもらえないだろう。海産物のコーナーに立つ伯父さんはまるで市場のように声をかける人で、お嬢さんお嬢さん、と手招きするものだから、ついつい今朝の出来事を思い出してしまった。 「……作れないわよ」 ぽつりと口の中で呟いて、それでもまだまだと歩を進める。しかしようやく半周したくらいで、瞳子は自分の失敗に気がついた。その香りが、数年前の今より少し若い料理人の顔を呼び起こす。ひとたび押し出してしまえばそれに連なって、止めることが不可能なくらいにいろいろなことが頭を駆け巡っていく。 目に入ったのはチョコレートだった。目に入れるより先に、香りが漂ってきていたのかもしれない。野菜と乳製品と海産物、もちろんどれもが北海道の大地の恵であるけれど。チョコレートだって、忘れてはならない北海道の誇るべき品であったのだ。 瞳子は躊躇した。今背を向けてしまえば見なかったことにできる。別に連れや知り合いがいるわけではない、こんな場所にリリアンの生徒がいるとも思えない。高校生はここよりももっと華やかな場所に、たとえば地下のピンク色の光景に溶け込むほうを選ぶだろう。だから、今なら気づかなかったことにできる。 けれど瞳子は振り返りも後退りもできなかった。目にしたことのあるロゴのその店舗に、見たことのない商品が並んでいたからだ。いつだったか取り寄せを頼んだことがあったが、そのとき見た商品案内には載っていなかったように思う。新製品だろうか、店舗を囲む客たちが箱を手にとって上から、左右から、ある人は下からまで見ている。ほかの普通のチョコレートならば、きっと誰もそんなことはしないだろう。瞳子が視線を注ぎ続けてしまったのもそのせいだ。ただのチョコレートだったならば、どれほど綺麗な仕上がりのものだとしてもここまでじっと眺めたりはしない。今目を逸らせないのは、離れようと思ったのに近づいていってしまったのは、それがただのチョコレートではなかったから。瞳子は近づいても目にした箱の文字が一切変化しなかったことを確認してから言った。 「……ポテトチップ、チョコレート」 あまりの衝撃にポテトチップとチョコレートを区切って口にしてしまったけれど、これは紛うことなきひとつの商品だった。ポテトチップの上にチョコレートがかかった大きな写真の箱。瞬きしても、それは変わらない。 「おいしいのかしら」 独り言だったし周りは大勢の人がいて騒がしいから聞こえはしなかっただろうけれど、瞳子はぱっと顔を上げて店員を見てしまった。目が合うとその人は笑って、商品の説明を始める。チョコレートは服のように、今日はいいです、とすぐには断れないような気がして、瞳子は素直にそれを聞いていた。どんなものなのか興味が湧いたせいもあったかもしれない。 「ポテトチップの上にチョコレートコーティングがされていて、甘いんですけれどしょっぱくて、意外と癖になるんですよー」 甘くて、しょっぱい。そのフレーズが、瞳子の中で引っかかって通り抜けられずにいる。ああ、やっぱりと思った。この箱の写真を遠めで見たときから、数年前のバレンタインの記憶が表出してきて消えなかったのだ。 *** その日の朝も、瞳子は台所を覗いた。朝食の準備は既に終わっているらしいそこには料理人がひとり立っていて、何かの数を数えていた。 「あ、お嬢さま。おはようございます」 にこやかに言って、手招きをする。近寄っていくと、数えていたのはチョコレートだと判った。 「今年も腕を振るいますからね。楽しみにしててくださいよ」 瞳子は答えない。口を開こうとしてはつぐみ、逡巡する様子を見て、彼はどうかしたのかと尋ねてきた。そこでやっと意を決して、瞳子はまっすぐ言葉を吐き出す。 「あの、今年は、私も手作りがしてみたいの」 「手作り?」 手作りのチョコレートは、この料理人がバレンタイン近くになると作ってくれていた。それは男性だけではなくて、母も瞳子も、家に仕事をしに来てくれているお手伝いの女性たちにも振舞われる。それはとても美味しくて、瞳子は毎年その日を楽しみにしていた。それに不満があるわけではない。ただ。 「学校で、友達が、今年は手作りをするって言っていたから」 バレンタインとは女の子があげるものなのだと、言われてしまったから。自分が大好きだということを伝えるのには手作りが一番なのよ、そう言ったクラスメイトの顔が思い出された。別に対抗意識ではない、と瞳子は思う。けれど、もし手作りして、それを父が喜んでくれるなら。 「そうですか、手作りですか、お嬢さまが」 呆れるだろうかと思っていた料理人は、瞳子の想像とは裏腹にとても嬉しそうにしていた。チョコレートをあげたわけでもないのに。もちろん、作ったら彼にもあげようとは思っていた。けれどそれよりも、瞳子が作りたいと言ったことそれ自体を喜んでいるようだ。だから瞳子は逡巡を一気に追い払って、ありがとうと言えたのだった。 ただ、結果は散々だった。料理人はいつもするするとこなしてしまうから難しいことではないだろうと思っていたのに、実際初めて絞り袋を握ってみると大変な作業だった。思ったような形に搾り出せないし、文字をデコレーション用のチョコレートペンで書いてみても太さがバラバラ。カタログに載っている写真のような、店で売っている商品のようなそれらを思い浮かべて作り出しただけに、瞳子にはほんの僅かな失敗もショックで。なかったことにしてしまおうかとすら思った。父だってきっと、こんな簡単なことすら失敗してしまう瞳子のチョコレートよりも、いつだって美味しい料理人のチョコレートのほうがいいに決まっている。瞳子はがくりと肩を落として、彼には謝ってまたいつもどおり自分の作業に戻ってもらおう、これは自分で食べてしまおうと手を伸ばしかけた。すると、そこへ。 「おや、甘い匂いがすると思ったら今年ももうそんな時期か。あれ、瞳子。もしかしてそのチョコレートはお前が作ったのかい」 「え、ええと、これは、その」 ごまかせるわけがない、こんなにいびつで綺麗でないチョコレートを料理人が作るはずがない。見られる前に食べて片付けてしまいたかったのに、こうなってしまっては取り繕うこともできなかった。沈黙は肯定、というのはいつのときも同じこと。 「そうかそうか、瞳子がねぇ。これは誰にあげる分なのかな。パパもひとつもらっていいかい?」 いいも何も、と瞳子は思う。これは父にあげようと思って作ったものだ、けれど出来に納得が行かないから、食べてもらうことが躊躇われた。こんなものではなくて、もっと綺麗な、もっと喜んでもらえるものをあげたかったのだ。そう言えればよかったが、何かが胸まで上がってきて苦しくて、言葉を発せない。もう一度父がいいかどうか聞いてきたので、瞳子はひとつ頷くしかなかった。それを見て、父はひとつ摘み上げて口に運んでいく。どんな評価が下るのだろう、まるで刑の宣告を待つ身のようだ、と大袈裟に思った。けれど、そのときは必死だったのだ。噛み砕かれて喉元を通ったチョコレートを、父はどんな言葉でもって表すのか。瞳子が見つめる父の唇が、ゆっくりと開いた。 「……ママー、ママー」 しかし父が発したのはチョコレートへの批評でもなんでもなく、母を呼ぶ声だった。 「え、あの、パパ?」 「はいはい、どうしたの」 母がスリッパをぱたぱたいわせながらやってくる。台所を覗いて父と瞳子と料理人の順に姿を認め、そして瞳子の前に置いてあるチョコレートに気づいた。 「まあ、瞳子ちゃんが作ったの?ねえ、ママも食べていいかしら」 そう言うと母は瞳子の返事を待たずに手を伸ばしてきたから、瞳子は慌ててチョコレートを乗せた皿を母へ差し出す。よりによって一番出来が悪いと思ったひと粒を母は摘み、口へ放る。料理は見た目だって大事なのだ。これでは自分がチョコレートをあげる相手を大好きだなんて判ってもらえないのではないだろうか。母はチョコレートを飲み込んだ。父のときよりも、その口が再度開かれるのが怖い。目の奥が熱くなった。 *** 懐かしい。瞳子は息を吐きながら思った。あのとき、父や母はなんと言っていただろうか。確か、頭を撫でられながら。 「ごちそうさま。美味しかったわ、瞳子ちゃん」 「うん、美味しかったよ、瞳子」 そうだ、そう言われた。振り返って料理人のほうを見れば、よかったですねと微笑んでいた。 料理人が選んだいい材料を使っていたのだから、そう簡単に味が落ちたりするものではないのかもしれない。けれど味見すらしていなかった瞳子は父と母の反応が予想できなくてどきどきして、美味しかったと言われた途端に安心して泣いてしまったのだ。堪えていた涙が溢れるのを自分では止められなかった。周りにいた大人たちは当然驚いて宥め始める。 「瞳子ちゃん」 「瞳子」 「お嬢さま」 思い出すと少し笑ってしまう。ひとりは頭を撫で、ひとりはしゃがんで下から顔を覗き込み、ひとりは瞳子の手元からチョコレートをひと粒取ると、瞳子の口へ放り入れた。 「ね、美味しいでしょう。だから、泣かないで」 瞳子が涙を拭って顔を上げると、三人はほっとしたように笑った。元々父のために作ったチョコレートは、その場で四人で食べた。チョコレートは、甘くてしょっぱかった。泣き止んでもなお。 次のバレンタインが近づいて、今年は作らないのかと三人別々に言われて恥ずかしくなって、それ以来チョコレートを作りたいとは言えなくなった。言えば必ず、そのときのことを話題にされるに決まっているからだ。大人は子どもが恥ずかしがる話題を持ち出しては喜ぶものだと、昔から知っている。作らないから、次の年からはまた料理人のチョコレートだけが振舞われた。 瞳子は目の前の箱を手に取った。甘くてしょっぱい、ポテトチップチョコレート。これを食べたら、あのときのチョコレートの味が蘇ってくるのだろうか。店員は瞳子を見ている。これをくださいと言われるのを待っているように思えた。 買って帰ろう。瞳子は決めた。 「これ、ください」 料理人が毎年瞳子に尋ねるのは、面白がっているからというだけではないことを知っていた。旦那さまも奥さまも、お嬢さまが作ったチョコレートのほうが何倍も美味しかったに決まっています――うまく出来ないからと手作りを断ったとき、そう言われたのだ。せめて購入したものでもと勧めてくる彼は本当にそう思っているようだったけれど、それならばなおさら必要のないことだと言い返していた。彼が作るチョコレートは、いつだって美味しかったから。 でも、と財布を取り出しながら瞳子は思った。今年は買っていってもいいかもしれない。何も変わっていない、けれど変わってしまった松平家の空気。当たり前に帰る場所であるあの家で待つ人たちに、何年かぶりに形にして大好きを伝える。多分、料理人の言うとおり。瞳子がいることを喜んでくれる父や母なら、瞳子が差し出したものならなんだって喜んでくれるのだ。 「おひとつでよろしいですか」 「――はい、ひとつで」 甘くてしょっぱかったチョコレート、果たしてあれは美味しかっただろうか、瞳子はあまり覚えていない。涙を流していたのは瞳子だけだったから、ほかの三人は知る由もない。もしまずかったなら、優お兄さまの真似をしたのだと言ってみよう。そう思ったら笑いがこみ上げてきた。あのときこみ上げてきた涙を誘発するものとは違って、今回は心地がいい。そうだ、たとえまずかったとしても、母がまた美味しい食べ方を見つけてくれるかもしれない。 「ありがとうございました」 受け取って、まっすぐにエレベーターへ向かった。早く帰ってただいまと言いたい。帰ったらきっとちょうど三時頃だ、この箱を、早く両親の前に出したかった。今度はどんな反応をするだろうか、瞳子が泣いたときのように慌てるか、それとも珍しいとわくわくした様子を見せるか。どちらにしても、瞳子が買ってきたという点においては喜んでくれるはずだ。そして、もし美味しかったなら。 「来年も、ここで買えるかしら」 買えなかったなら、取り寄せよう。それから、それに紛れさせて、ひと粒かふた粒だけ、手作りのチョコレートを添えようか――それはとてもいい考えに思えて、瞳子は料理人の大賛成というような笑顔を思い浮かべながら、エレベーターに乗り込んだ。 [執筆:葉菊 夜月苺] |