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「あっ!」 2月12日午後4時17分、チョコレートの香り漂う島津家のキッチンに祐巳の声が響いた。 「な、何っ?」 由乃は凝視していた湯煎中のチョコから目を離し、恐る恐るといった様子で祐巳に訊く。左手には調味料入れの容器、右手に計量スプーンを持ったまま。 「それ、塩……」 言われて、由乃はすぐに手元の容器を確かめる。透明な容器に貼られたラベルには確かにSALTと書かれており、由乃はその場でうなだれた。 「ま、まぁもう一回頑張ろうよ、失敗しても良いようにチョコは多めに買ってきたんだし」 お菓子作りに慣れていない由乃は、バレンタインチョコレートを作る為に祐巳に助っ人を頼んでいたのだった。 とはいえ祐巳も、そこまでお菓子作りに自信があるわけではない。とりあえず溶かして型に入れるだけの作り方を教えたのだが、由乃がそれだけではつまらないと砂糖を加える事を提案した。 入れ過ぎにさえ注意すれば良いだろうと気を緩めていた祐巳は、塩と砂糖を間違えるという古典的なトラップを忘れており、このような悲劇と相成ったわけである。 「ねぇ」 塩の容器を小窓の近くの定位置に戻して、由乃が言った。 「ん?」 「これ、意外に美味しかったりしないかしら」 言いながら、由乃は今度こそ砂糖の容器に手を伸ばす。ちなみに、コンロの火はついたまま。 「え、由乃さん、もしかして……」 祐巳が言い終わるより早く、由乃が砂糖を放り込んだ。 「昔、食べた気がするのよ」 失敗してやけになった風でもなく、由乃は落ち着いた様子でチョコをかきまぜている。その様子に訝しげな視線を投げかけながら祐巳は言った。 「し、塩がたっぷり入ったチョコを?」 「違うわよ」 「じゃあ何?」 言われて、由乃が考え込む。 その間に、祐巳はとりあえず火を止めようとコンロに近付く。先程よりも少し濃厚になった香りが祐巳を包んだ。 「しょっぱいスナックに、チョコがかかっているお菓子」 「そんなのあったかな」 つまみをひねりながら祐巳が言う。カチッと微かな音がして、コンロの火は消えていった。 「あったのよ。しかも美味しかったの」 「えー?」 不信感を増していく祐巳の目線。由乃はそっぽを向くと、拗ねたように言った。 「いいわよ、信じてくれなくたって」 チョコレートはその日の内に完成した。 しかしその翌日も、何故か祐巳は島津家に呼ばれていたのだった。 そのうえ由乃は祐巳をこたつに押し込むと駆け足で部屋から出て行ってしまったので、祐巳は一人取り残されてしまった。 する事も無いので、本棚から池波正太郎の小説を取り出した。そして、読むでもなくぱらぱらとめくる。 そうこうしている内に、廊下から足音が聞こえてきた。 本を元の位置に戻したところで、入り口から不気味な声が響く。 「祐巳さーん」 声がした方を見ると、由乃が扉の影から顔を半分だけ出していた。 「な、なんですか?」 「チョコレートもう一種類出来たんだけど、食べてみてくれないかしら?」 祐巳が頷くと、由乃はこたつ越しの祐巳の正面に座った。 そうして、右手につまんだ一口サイズのチョコを、祐巳の口元に近づける。 髪を解いた由乃はいつもより大人びて見える。見慣れた制服ではなく、体のラインがうっすらと見えるセーターを着ていることも、そう思わせる原因かもしれない。 しかも前屈みになってこたつの上に肘をついているので、やけに顔が近い。 変に緊張してしまった祐巳は疑問を抱く余裕も無く、由乃の手から直接チョコを口にした。 由乃が腕を引き、祐巳はもごもごと口を動かし始める。 それを見て由乃がにやりと笑った。 嫌な予感がする。 由乃がこんな笑い方をするのは大抵、ろくでもない悪戯が成功した時だ。 そして次の瞬間にやって来た味覚の信号が、その予感が正しい事を示した。 「こ、これ……」 「塩入りチョコ、昨日の仕返しよ」 由乃が邪悪に微笑んだ。『塩入り』の部分を『毒入り』に変えても通用しそうな表情だと祐巳は思ったが、そんな事を考えている場合ではない。辺りを見回して、必死に口直しになりそうなものを探す。 はじめはにやにやとその様子を眺めていた由乃であったが、予想以上のリアクションに驚いたのか、すぐに麦茶とコップを持って来た。 「ごめんね。味見したときはそこまで酷くないと思ったんだけど」 「別に良いよ」 祐巳は、麦茶を飲んで一息ついた後に言った。 「でもこれをそこまで酷くない、って言えるなんてやっぱり……」 「私って、そんなに味覚おかしいかしら……」 「嘘だよ。何か塩が一箇所に固まって入ってたみたい」 「何だ」 そう言って二人で笑い合う。 「そういえばさ、令ちゃんに訊いてみたんだ。昨日言ってたお菓子のこと」 「うん」 「そしたら食べた事ある気がするって言ってた。でも何のお菓子だったかまでは覚えてないって」 「ふーん、でも令さまの事だから思い出して作ってきちゃったりしてね」 気になっていたお菓子の正体が分かったのは、奇しくもバレンタインデイ当日の事だった。 「それは多分ポテトチップチョコです」 放課後の薔薇の館、そういえばと思って祐巳が乃梨子に聞いてみたところ、拍子抜けする位にあっさりと答えが返ってきたのだ。 悩みが解決した由乃は「そう、それよ!」と言って喜び、祐巳はそんな親友の姿を尻目に「美味しいの?」と乃梨子に訊いた。 「えぇ、それが美味しいんですよ。普通にチョコを食べるよりも味が引き立つと言いますか」 予想外の意見に祐巳が驚いていると、更にその場に居た志摩子も同意を寄せた。 一挙に二人の仲間を得て、由乃は俄然強気になる。 「ほら見なさい、祐巳さんは食べたことがないから分からないのよ」 びしっと人差し指を突きつけられて祐巳が怯む。 このままでは分が悪い。 誰か仲間が来ないものかと祐巳が入り口の方にやると、扉が勢い良く開かれた。 そうして現れたのは令であった。バスケットボール位の大きさの包みを両手で持ち直すと、笑顔でテーブルの前までやって来る。 「ごきげんよう」とみんなで挨拶を交わす中、祐巳の視線は自然とその包みに向いてしまう。 いや、祐巳だけではない。その包みに興味津々なのがもう一人。 「ね、令ちゃんそれってもしかして」 いつの間にか席を立っていた由乃は、言いながら令の左腕に抱きついた。 その勢いで包みは傾いたが、こんな事態にも慣れているのであろう。令は笑顔を崩す事も無く、右手だけで包みをテーブルに置く。 「そう。由乃が言ってたお菓子ってこれでしょ?」 今やその場に居る全員が、テーブルの上の包みに集中していた。 期待に満ちた目がテーブルの上に注がれる中、令の手によってその包みが解かれる。 手作りの証である紙とビニールの包装の上で、そのお菓子は窓からの光を浴びてカカオの光沢を放った。 「あ」 誰かが発した声は、驚きと失望をブレンドしたような響きを持っていた。 「あれからすぐ思い出したから作ってみたんだ」 二年生以下の面々は気まずそうに顔を見合わせるが、一方の令は嬉しそうに喋り続ける。 「こんなの作ったことないからさ、あまり上手にできなかったかも。でも由乃、これ食べた時美味しくないって言ってなかったっけ?」 言って、由乃の方を向こうとした令は、そこでやっと周りの異変に気付く。 「どうしたの、みんな?」 訳が分からないと言った様子できょろきょろと辺りを見回す令。 「あの、大変言いにくいのですが……」 小さく手を挙げて、祐巳が言った。 「ん?」 「由乃さんが言っていたのは、ポテトチップチョコの事でして」 うんうんと頷く白薔薇二人。 由乃はテーブルの上を見つめており、表情は読めなかった。 「柿の種チョコの事ではないんです……」 祐巳はテーブルの上に目をやると、そういえばこんなお菓子もあったな、と思った。 そして思い出してみれば、祐巳に塩辛いものとチョコレートの組み合わせをここまで嫌いにさせたのは、このお菓子だったような気すらしてくる。 みんなの哀れみの目線が飛び交う中、令は寂しそうな瞳で包みを見つめた。 「あ、あははっ。ごめん由乃。私勘違いしちゃったみたい。そうだよね、嫌いだって言ってたもんね」 作り直すから、と令がテーブルの上に手を伸ばしたところで、由乃が口を開いた。 「令ちゃん」 強めの口調に、柿の種チョコを包み直そうとしていた令の手が止まった。 静まり返った薔薇の館に、秒針の音が響く。 ゆっくりと顔を上げた令と目が合ってから、由乃は続けた。 「このチョコ、食べていいの?」 「え、でも……」 戸惑う令に、由乃はわざと怒ったような顔を作った。 「食べたいって言ってるの。目の前に出しておいて今更引っ込めようなんて許さないわよ」 しばらく見詰め合った後に由乃が表情を崩す。それにつられて、令の顔も微かにやわらいだ。 「私たちも食べて良いですか?」 乃梨子がテーブルに乗り出しながら言った。 「うん、勿論」 「じゃあみんなで頂きましょう」 志摩子がそう言って立ち上がる。色素の薄い髪がふわりと揺れた。お茶の準備を始めるのだと察した乃梨子も席を立ち、二人で流し台へと向かった。 それを見送ると、由乃がテーブルの上に手を伸ばす。そして、お茶が入るのを待たずに柿の種チョコを口に入れた。 「どうかな?」 不安気に訊いてきた令に、由乃が息をついて答えた。 「……美味しいよ」 その言葉に、令がほっとしたような笑顔を見せる。 しかし由乃は、いつもの強気な瞳に気落ちしたような色を混じらせて、自分の鞄に顔を向けた。 「柿の種チョコすら美味しく作るなんて、流石令さま」 紅茶を持って戻って来た乃梨子が驚きの声を上げた。ティーカップを置き終えると、続けて作り方についての質問を始める。 乃梨子と向き合う為、由乃に背を向ける令。 「最初はね、どの柿の種を使うかって考えたんだ」 そんな声を聞き流し、由乃は鞄の中からチョコレートを取り出しテーブルに置く。 そして柿の種チョコをつかむと、令の後頭部に投げつけた。 宙を舞った柿の種は令の髪に乗っかったが、当人は気付かずにチョコの種類について語り続けていた。 (どうして柿の種チョコのくせに、私の作ったやつより美味しいのよ……) チョコレートの香り漂う薔薇の館の会議室、みんなの笑い声の中に由乃の溜め息が溶けていった。 [執筆:メイテイ ゆりびより] |