十夜法話




 南無阿弥陀仏

 暑かった夏もどうやらどこかへ行ってくれたようで、2〜3日前から朝晩は涼しくなって参りました。

  
 さて、京都には東山三十六峰という言葉がありまして、京都の東の方には三十六と数えられる静かな山並みがそびえている

という意味でありますが、その三十六峰のふもとの一つに真如堂というお堂があります。

 その真如堂には、“真如堂縁起(しんにょどうえんぎ)”という物語が伝わっておりまして、

それが今からお話申し上げます『お十夜』という法要の起源になるのでございます。

 今から550年ほど前、この真如堂へ一人のお侍がやって来なさった。名前は平貞国(たいらのさだくに)といいました。

この方のお兄様は非常に偉い方で、平貞経(たいらのさだつね)様といい、当時の幕府の執権職をなさっていた方でありました。

このお二人は兄弟仲があまりよくなかったようで、弟の貞国は身を引こうと思い、

“これから三日間この真如堂の御仏の前で修行をして、四日目には頭を剃ってお坊さんになろう。”

そう考えを固めまして、この真如堂にやってきました。

そして3日間一生懸命にお念仏を申し修行をなさいましたが、3日目の夜、貞国さんの夢に一人の僧が現れ、こう言われました。

“貞国よ、そなたの心が純粋であり、仏につかえて皆を幸せにしたい、そのために出家したいという気持ちはよくわかった。

 しかしこの世の中にはいろいろな仕事があり、みなその仕事を通じて世のため人のために尽くしており、それも仏の道である。

 だから必ずしもお坊さんになることはなかろう。したがって出家するのはもう2〜3日待ちなさい。”

そういうお告げでございました。

貞国が不思議なことを申しつけていただいたものだと思っていましたら、朝になりお家から連絡がありました。

お兄様の貞経様が上意に背いて都を追われ、吉野の奥に謹慎処分となり、貞国様が家督を継ぐことになったのです。

それを聞いた貞国様は“昨日のお告げで出家するのは少し待てといわれたのは、このことであったか。”と感じ、

その後執権職にも就かれ、国家のために尽くしていかれたのでございます。

 そしてある日、貞国様は将軍様にその不思議なお告げについて話されました。すると将軍様は、

「貞国よ、それはありがたいお告げをいただいたのだな。そなた、3日3夜の間仏様の前で修行をしてそのお告げを受けたのであれば、

 もう7日7夜の間仏様の前で修行をしなさい」

とおっしゃり、貞国は7日7夜仏様の前で報恩感謝のお念仏をなさったということであります。

最初3日3夜、そして後から7日7夜でありますから、合計10日10夜、貞国様がこの真如堂の仏様の前でお念仏をなさった、

このことが十夜法要の始まりだと言われております。


 その後しばらく経ちました頃に、鎌倉の光明寺さんに観誉祐崇(かんよゆうそう)上人というお坊さんがいらっしゃいました。祐崇上人は宮中へ出仕して

天皇様に阿弥陀経の講義をなさっておられました。そして、その講義に天皇様が深く感心なさり、

「祐崇上人非常にありがたかった。ついては何かお布施をしたいのですが」とおっしゃり、

祐崇上人は「それではあつかましいですが、今真如堂で行われている十夜法要というのは非常にありがたいものです。

ですのでぜひ浄土宗でこの法要を行うお許しを頂きたい。」と申され、天皇様の勅許をいただき

鎌倉の光明寺での十夜法要が勤まることとなりました。

その後、浄土宗の中にその法要が伝わり、今日でも各地においてこの法要が勤まっているのでございます。


 さて、先日私四国の愛媛県に行ってまいりました。2〜3年前に浄土宗は法然さまが亡くなられて800年という法要を迎え、

皆が法然さまのご意志を継いでお念仏を広めていかなければいけない。それには各本山の法主も本山に留まるだけでなく

全国へ出向いて人々にお念仏の道を広めようということで、法主巡教が始まりました。私も北海道、東北、新潟など

色々な所へ参りましたが、今年は四国の愛媛教区にあたりましてそこに行ってきたのでございます。

 愛媛という所もなかなか山深い所でございます。ジャンボタクシーであちこち廻っている道中に一件の山寺がありました。

ふと見ますと、お寺の門前に掲示伝道があり、そこには

渋柿を 見上げて通る 十夜かな

と書かれてありました。

お十夜にちなんだ掲示伝道であります。ただし、この意味を

“あぁ、今年も渋柿が実る秋になったなぁ。この渋柿を見ながら十夜の勤まるお寺に急ぐのである。”

こう捉えるだけでは、浄土宗の教えは少し呑み込めていないのであります。

私という人間は、果たして柿に例えるなら甘柿だろうか、それとも人の嫌がる渋柿だろうか…どちらであろう

という所からこの一文を考えるべきであります。

浄土宗の元祖法然上人は、“私という人間は渋柿である。甘柿では決してない”と言われお泣きになったようであります。

その流れを汲んでいる浄土宗のものが、“私は人の好む甘柿のような人間です”とは言い得ないでしょう。

皆さんはご存じないけれど、私という人間は本当につまらない、柿に例えるなら渋柿のような人間です。

その渋柿のような私がしっかりとお念仏を申させていただこう
とお寺への道を急ぐ。しかしながらお寺には渋柿が収穫されて

たくさん吊るされている。それは一体どうなるのかというと、太陽に照らされ、風に吹かれている間に自然と渋味が甘味に変わっていく

のであります。

渋柿の 渋がそのまま 甘味かな

という世界があるのです。

世の中には五千四十八巻というお経がありますが、その中の『無量寿経』というお経の中に

「この世において善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において善をなすこと千歳するに勝れり」

という一節があります。“この世の中というのは善いことがしにくい、悪のはびこる世界であるから、ここで善い事を行うことは難しいだろうが、

そんなこの世の中で善い行いを10日10夜行ったならそれは他方諸仏の国土(すなわち阿弥陀様のお住まいの極楽浄土)において

善い事を千年するよりも功徳の大きい事である”ということであります。

 “この世の中で、なかなか善をなしえない我々ではあるけれども、せっかくご縁をいただいて十夜法要に出会うことができたのだから、

私もお念仏をしっかり申させていただいて、ありがたい御仏のお救いをいただいて極楽浄土に生まれさせていただこう。

この渋柿の私が甘柿に変身させていただこう。


という時が、お十夜法要でございます。

 渋柿である私が、阿弥陀様の本願であるお念仏を申すとき、その身そのままで自然と甘柿にならしていただけるありがたさ、

この十夜法要は渋柿である私が甘柿にならしていただける変身の時であると感じた次第でございました。

  
                                                               合 掌


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