ケメコの子育てと介護体験記 はじめに 結婚当初から同居していた義母(当時60歳)が脳出血で倒れ、私が介護に携わらなくてはならなくなったとき、三人の息子はまだ、1歳、3歳、5歳でした。あれから、かれこれ21年、幼かった子供は大人になり、私はもうすぐ50に手が届く齢となりました。そんな、子育てと、介護が同時進行だった日々を、振り返ってみたいと思います。
義母は、脳出血の手術で一命をとりとめ、身体に後遺症はなかったものの、ひどくいらだつ時期を経て、すさまじい徘徊の毎日を繰り返していました。義母60台前半のことです。なにしろ、徘徊が一番ひどかった時期は、朝から晩まで一日中歩き回るので、いつも一緒に歩いてやるわけにもいきません。私は義母が家から出た時間、戻った時間をいつも気にして、30分戻らないと探し回りました。大概一周20分の田んぼ道を歩くのですが、ひとたびコースを外れると、遠くまで歩いて行き帰れなくなります。また、転んで起きられなくなっていることも度々でした。田舎なので人通りもなく、何かあっても、誰にも見つけてもらえない土地柄です。鍵をかけても開けて出てしまうし、抱きついて止めても、この細いからだの何処から出てくるかと思う強い力で振りほどきます。雨の中も、日差しの強い日も、雪の日も。私一人では探し当てられなくて、夫や、義父を勤め先から呼び出したり、親戚動員や、警察のお世話になったこともあります。現在のような、痴呆老人徘徊ネットシステムなどまだ無い時代でした。 市役所の福祉課に問い合わせても、具体的な支援策はなく、年1回出る老人支援手当金も、お宅の場合はまだ65歳になっていないので支給されませんという、冷たいものでした。 ならば、保健課はと、問い合わせても痴呆に対する支援はなく、気の毒がって話を聞いてくれただけでした。 こんな折、痴呆について知りたくて読んでいた本の中に、「呆け老人をかかえる家族の会」のことが出ていて、早速会報を取り寄せました。「ああ、大変なのは、家だけじゃない。もっと大変な人がいる。」と気づき、頑張る力をもらいました。 病院の検査では、海馬の部分に萎縮がみられ痴呆症との診断が出たものの、「歩くのを止めさせる薬はありません。」とのこと。義母は、もののけに取り付かれたような険しい顔で、口数も極めて少なくなっていました。私は秘かに、あと3年頑張ろうと区切りをつけました。(この人は、こんな状態で、絶対そんなに生きられるわけがない。)こんなこと、誰にも言えないことでしたが、そう考えたときから気持ちがふっきれ、頑張りが沸いてきました。 このような状況下、どんな子育てをしていたか、記憶があまりありません。覚えているのは、「おかあさんは、ちょっとおばあちゃんを探しに行ってくるから、あんたたちはいい子で遊んでてね。」と言っていたことや、三男が幼いながら「おばあちゃん、そっちに行っちゃあいけないよ。」とおばあちゃんの手を引っ張っていた姿です。 でも、当時保育園の先生と交わした連絡長を探し出して見たら、正直驚きました。あんなに辛かった日々のはずなのに、そのノートには毎日楽しかったことや、子供の成長の嬉しかったことだけが、いっぱい書かれていました。 竹馬の練習を一緒にしたこと。子供が遊びに行かせてもらったお宅に迎えに行ったこと。絵本を毎日読んであげてから添い寝したり、頬ずりして子供が喜んでいる様子など克明に書かれていて、辛いことなんか、微塵も感じさせない記録でした。子供から、生きる力をもらっていたのでしょうか。それとも若い頃の私の方が、他人に伝える内容の、わきまえがあったのでしょうか。 やがて、義母の徘徊は減ってはきたものの真夜中まで及び、その気配に目が覚めた私は、心底こわくなりました。でも義父は気が付かず眠っています。翌日家中あらゆるところに防犯用の鍵を取り付け、義母の外出を阻止しました。義母は、この鍵は開けられず、土足で家の中を歩き回りました。そしてそれは幾日かするうち治まっていきました。3年弱の徘徊でした。最初から、この鍵をかけて閉じ込めればよかったかは、いまだに解りません。 その後義母には、いろんな痴呆による困った行動が出ましたが、私はあの頃に比べれば…と、何でも我慢ができました。
それでも、会いに行くと、ろれつの回らない口調ながら、喜んでくれました。 そんな、実父の病気が進行していく中、今度は義父までもが、難病指定の皮膚筋炎という膠原病になってしまいました。働き者で、それまでは病気ひとつしなかった丈夫な人です。この義父の入院に関しては、私は実父の娘である義姉に、今度は強気に出てはっきり頼み、おおいに関わってもらいました。義母が痴呆症になってからというもの、義姉は、実家である我が家にはほとんど寄り付かず、義母を看てくれたためしがなかったのです。義姉は、夫婦と子供だけで暮らしていたにもかかわらず、親を自宅に招いてくれたこともないような人でした。車で30分の距離というのに。そういう義姉との間に波風をたてるのが嫌で、義母の介護は頼めずじまいでした。 ここは田舎ですが、地域医療に熱意を燃やした先生が居られ、在宅医療の取り組みも、早くから始まっていた地域です。実父は、病院で無ければ受けられない医療の時だけ入院し、他は実母が家で、訪問医療、訪問看護を利用して、看ていました。母は、尿導カテーテルを入れる方法や、痰の吸引等の方法を学び、かなり病気が進行した父を在宅で看ていました。私は、たまに会いに行くだけで、そういう介護の力にはなれませんでした。母父は兄夫婦と同居していましたが、専門的な介護は母ができるだけでした。私は入院を勧めましたが、もう余命を告げられていましたので、母はどうしても家で看てあげたいようでした。そんなある日、父は、母がちょっと台所に立った間に、食べ物をのどにつまらせ、帰らない人となってしまいました。母は、自分を責め、嘆き悲しみましたが、やがて、「おとうさんは、私を助けてくれた。」と自分の心の中で折り合いをつけていきました。母は、血圧が上がり、いつ倒れても不思議でないくらい疲れきっていたのです。母の腰はすっかり曲がってしまいました。 父の死を、嘆き悲しんだ者が、もう一人いました。実祖母です。「わしが、先に逝きたかった。あんなにいい人が、何でこんなに早く死ぬだ…。」と、順送りでなかったことを嘆きました。父は婿養子でしたが、祖母とは本当の親子のようでした。 その祖母も、その4年後に、在宅医療を受けながら、老衰で亡くなりました。私は、親の仕事の関係で、おばあちゃん子で育ちましたので、辛い別れでした。 さて、話は我が家に戻ります。義父は膠原病の治療を受け、一時家の農業ができるまで、回復しました。義父は勤めを辞め、日中も家にいたので、義母の見守りをしてもらえ助かりました。私は子供の参観日にも、安心して出かけられました。 その義父も、肺癌、肝臓癌を併発し、また入退院。最後の入院ではとても家に帰りたがり、やはり在宅医療を20日間受け、亡くなりました。孫たちに、「おじいちゃん、おじいちゃん」と、名を呼ばれての旅立ちでした。義母は痴呆が進んで、涙すらこぼさないのが哀れでした。平成3年享年73歳でした。 こうして、わずか4年の間に、三人の肉親が逝ってしまいました。
義母は、連れ合いを亡くしてもそんなに悲しむでもなく、テレビを観て日を過ごしていました。やがて顔に表情が出、話もオウム返しではなく、短いながらも、自分の言葉で話せるようになりました。こんなエピソードもあります。歯の治療中のことです。 義母「いろいろやらせて、すみませんねえ。」 先生「いえいえ、仕事ですから。大きな口を開けてください。」 何回も繰り返す義母に、何回もこう答えてくれる先生。私は感激でした。 頻繁にトイレに行く音は、私の神経を逆なでしましたが、失敗はなくなりました。 お風呂は、痴呆に気づいた時から、一人で行かせることはできませんでした。入浴は、いろんな手順が組み合わさるので、むずかしいのだと思います。湯船に浸からせてもすぐ出てしまうので、一緒に歌を歌うとうまく沈んでいてくれました。(これは、今でもずっと20年間続いていて、何歌う?と催促されます。) 痴呆は治らないと言われていますが、義母の場合、日常生活を送る上での行動や、感情は明らかに良くなっていました。自然治癒力が働いたとしか考えられません。
私はこういった義母の様子に安心し、家から徒歩5分の小さな工場から頼まれ、働くことにしました。以前からここの内職をしており、うちの状況を知っていてくれ、義母や、子供に合わせ休んでもいいというのは、好都合でした。子供の成長につれ、なにかとお金もかかるようになっていました。私は義母の姿が目に入らない場所で、仕事に集中し、家族以外の人と話ができることで、気持ちが明るくなりました。
長男高校2年、次男中学3年、三男中学1年、どの子も順調に育っていたはずが、三男が、夏休み前から学校に行かれなくなってしまいました。きっかけは、朝どうしても起きられないこと。遅刻してもいいから登校させてくださいという先生。無理やり起こして連れていっても、本人は授業中にも、眠くて眠くて我慢ができないから、学校に行くのは嫌だと登校を拒否。まだ不登校は不適応児童と呼ばれていた時代でした。 かくして2年半の登校拒否が始まりました。私は、子育てに問題があったと自分を責め、気持ちが沈み人に会うのが嫌で、パートも辞めさせてもらいました。 そんな私を救ってくれたのは、不登校の親の会でした。この親の会の合言葉は「頑張らない」でした。ここでは、安心して愚痴がこぼせます。親の苦しい胸のうちを吐き出し、心の重りを軽くすること。また、原因探しをしないこと、見守ること、待つこと、聞くこと。みんなで学び合いました。そして、教育委員会に出向いたり、何十人もの教師を呼んで親の気持ちを訴える会等企画しました。この時ある若い教師は、いじめに合っている子の親の気持ちが、始めて解ったと言いました。リーダーの実行力、統率力には敬服です。こういった小さな活動でも、「不登校はどこの家庭にも起こりうる問題」といわせる、一投石となったものと思っています。 私はこの経験により、まるごと受容することが芯から身に付きました。なお、三男は中学最後の1ヶ月登校でき、無事高校に進めたことは、嬉しい限りでした。私たち夫婦は、それぞれの子のその後の進路のついても、本人の意思を尊重し、アドバイスはするけれど見守るだけとなりました。その子の人生は、その子のものだから。
平成8年、ようやく我が家でもデイサービスを週1回利用するようになりました。 (この4年前にも、デイサービスの前身に当たるような宅老会に連れて行ったことがあるのですが、痴呆患者を軽蔑するような言動が見受けられ、数回で止めたのです。) 今度はニコニコと嫌がらず行ってくれるので助かりました。やがて、翌年には、週2回利用できるようになりました。福祉の歩みはゆっくりだけれど、進んでいきました。まだ、介護保険ができる前のことです。やがて、ショートステイも利用しました。 あの、私がノイローゼになりそうだったころ、こういう制度があったら、どんなにか助かったのにと思いました。
義母はだいぶ白内障が進んでしまいましたが、元気でいます。この白内障の手術は、痴呆があるためにリスクが高いということで、見合わせました。義母は、歩調がおぼつかないながら、口癖が、「歩けてありがたい」と感謝の言葉、そして、「よく歩けるねえ。」と自画自賛。それに対して私は、いつも「そうだねー。」と明るく答えます。こんな、穏やかな日が来るなんて、かつては思ってもみませんでした。私はやっと義母を受容できたように思います。 ある日、三男に聞いてみたことがあります。 「お母さんは、おばあちゃんが唾をこすりつけたり、変な声上げて騒いでるのを、理性で我慢してるんだけどね、あなたは嫌じゃない?」 「ばあちゃんボケてるんだからしょうがねえじゃ。」と私よりもありのままのおばあちゃんを受け入れていました。そしてばあちゃんはああだった、こんなこともしたと、二人で話に花が咲き、笑い合いました。でも、「家って、あんまり遊びに連れてってくれなかったよね」と、子供の頃を言われてしまいました。 「ごめんね。あのころは、おじいちゃんに、『遊びに行きたいから、仕事休んでおばあちゃんを看て。』って、どうしても言えなかったの。今なら、お母さんも強くなったから言えるけどね。それじゃ、来月のショートのときお母さんと一緒に遊びに行く?」と言ったら、「俺は、仕事だ。」とあっさり断られました。そういえば、少年野球や子供会の集まりには、夫か私のどちらかが都合をして出ていましたが、泊りがけで、家族で出かけたことが3回しかないのです。子供に寂しい思いをさせてしまいました。 三人の身内の死を経験したことや、義母を看ていたことで、命はいただいているもの、生きているのは愛おしいという思いが強くなりました。あと何年続くか解からない介護ですが、何が何でも在宅でという気負いはありません。介護が生きがいという入れ込みもありません。義母の衰えていくこれからのほうが、私の正念場だと肝に銘じています。いろいろな介護サービス利用で、皆様に助けてもらいながら、義母を見守っていきたいと思っています。
長文になってしまい、最後までお読みいただきましたことを感謝申し上げます。 なお、家庭というのは、どこのお宅もそれなりに、いろんな事情を抱えていらっしゃるものです。誰もが悩み、最善策を模索しながら幸せを求めていくのではないでしょうか。福祉の歩みは遅いながらも、進んできました。しかし、自分で情報を集め、選択決定しなければいけない時代になっています。取り入れられるサービスを活用し、無理をしない、子育てや介護ができるよう努めましょう。皆様のご家庭に幸多かれとお祈り致します。 この「育児と介護の両立を考える会」が、悩める方々の救いとなり、社会を変えて行く力となりますことを、願ってやみません。 平成16年5月 ケメコ |
(2004.5.4掲載) |