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『育児と介護の両立を考える会』
〜育児と介護の体験記〜

さわ(みるく)さん(No.49)の体験記

GWに会のHPをみつけたときには、「私はこんなに大変だったのよ!」と聞いていただきたくて張り切っていましたが(笑)、これまでの思い(実父が53歳の時、脳梗塞で倒れてからちょうど20年、実母が介護をしています)を文章にするのは難しく、また、私よりもっともっと頑張っている方の存在を知り、まだ書き込めずにいます。

私の場合、実父(徳島在住)は、結婚前から不自由で(当初は9ヶ月の入院後、左手でスプーンを使い自分で食事を取れるまでに回復)、義父母は、晩婚で40歳代で主人(一人っ子)を生んだため、結婚した時にはすでに80歳近く、いずれ岐阜に引き取るということで、介護はいつも、一番の心配の種でした。

子供の事ですが、二人目までは、とにかく義父母の元気なうちに早くと思い、年子です。
(二人目が生まれる1ヶ月前、実父が再び倒れ、15年間寝たきり)
三人目は、自分が一人っ子で寂しかったため、「有給を取ってでも僕が手伝うから!」という主人の言葉に騙されて?(予定日のその日に主人が入院していたが、10日遅れで生まれたため、セーフ)出産。
(三人目のつわりの真っ最中に、義父が肺ガンだといわれ大騒ぎをしたが、二ヶ月後に誤診だと判明)

・近くにいないため、思うように介護が手伝えないもどかしさ。
・何かあってもどちらの親にも育児を助けてもらえない不安。
・その頃の主人が仕事中心で協力をしてくれるどころか、僕はこんなに忙しい(主人は私立学校の教員で、学期中は授業以外に寮の生徒の世話や部活や補習等がある)といつも機嫌の悪かった事。
・夏冬の長期の休みは子供を連れて九州、四国への移動と両方の実家の手伝いでくたくた。それらを解決したいがために、私も長い間、一番欲しいものは、ドラエモンでした!

遠く離れている上、手元に小さな子供達がいるにも関わらず、介護疲れのせいか、実母からたびたび電話で
「今度帰ってきたら、何を食べさせてくれる?」
「今はお父さんのことを一生懸命やるけれど、私が寝込んだらあなたに面倒をみてもらうのが夢だ!」、
「せっかく女の子がいるのに、遠くに嫁にやったから役にたたん!」
等と言われるのはひどく負担でした。

主人も、引き取る前の何年かは、年に数回、九州の義父母の元へ通い、辛いようでした。
(父が佐賀からどうしても離れたくないと言うので、デイサービスやヘルパー派遣を頼んでいたが、母が病気や怪我で入院を何回かし、こちらにくる前は、半年間、二人で入院をしていた)

両方の両親がこの年までいてくれるのが解っていたならば、子育てを楽しんで、子供達をもっと伸び伸びと育ててやれたかもと悔やまれる時があります。
上の二人は、中高生になった今でも、何かと言うと我慢をしては我慢しきれずに泣いてしまいます。
胎教が悪かったのかな?! 二人がお腹にいる頃の私、そのものです。

自分の身体をすり減らすようにして(30歳代後半に自立神経失調症で苦しんだ)、三人の子供を産んで育てて、やっと少し楽になったら、今度は義両親との同居です。

・父の怒鳴り声と母の泣き声。(父が母の世話をしてくれるのはいいが、自分の言うことをきかないとひどく怒って、母が泣く。耳が遠いので日常の会話ほとんどが怒鳴っているように聞こえる)
・主人の非協力と無理解。(通うのが大変だったので、連れて来さえすれば楽になると思ったらしい。今は現実が解り、協力的になりました)
・父に感染症が見付かった為、ホームドクターの奥さんに診療拒否をされたこと。
・ケアマネさんとの相性の悪さ。(「何がそんなに大変なんですか?」と言われるたびに、一人大騒ぎをしているみたいで傷ついた。偶然、産休に入り、今は別の方です)
・長女(中2の冬に同居)の反抗期、受験。(塾、部活、人間関係の悩み等、自分の事で精一杯なのに、突然、宇宙人が二人舞い込んだ)
・次男(当時小3)が不登校になりかけたこと。(急に手間の掛かる弟と妹(父と母)が増え、自分はこれから何も楽しい事はできないと思ったらしい。春休みに初めてショートステイを頼み、家族5人で出かける約束をしたことで、元気が出て、3学期の半分を休んだだけですんだ)
・子供達にやりたい事もさせてやれないつらさ。
・嫁という立場。(娘のつもりでと思っても、一時期はまるで女中のような扱いでした)
・母の入院、薬疹、薬の副作用。
・まるで子供のような父と母。
・相手は90歳過ぎの年よりだというのに優しくしてあげられない自分自信への苛立ち。
・世代による価値観の違い。
・ただ、一緒にいるだで嫌で嫌で仕方が無かった時期があったこと。
・結婚してから、「私は家事がほんに嫌いよ!」とお味噌汁の一杯も作ってくれた事のない母の為に、食事を作る事への不満。
・限られた場所で7人が暮す窮屈さ。(特に長期の休み)
・自分自身の体調の悪さと無気力さ。
・これから先への不安。

etc... その時々で、悩みました。同居したすぐなら(一年くらい)、毎日のように、泣いて、叫んで(一人で夜、車を運転しながら)、大きなため息をついて「ストレスの固まり」だったので、山のようなカキコミをしていた事でしょう。

おかげさまで、長女がこの4月より主人が勤める私立高校の寮に入った事で(長男は先に中学校より入寮)生活のリズムがシンプルになり、義父母には月の2週間を介護老人保健施設(ショートステイ)で過ごしてもらうことで、こちらの方が心身のバランスを取ることができ、落ち着いています。

今まで、両方の実家と遠く離れていることで随分苦しんだけれど、今回、皆さんのカキコミを読ませてもらって、「遠く離れていたからこそ子供を三人も授かる事ができたんだなぁ〜!」(近くにいたら両方から毎日あてにされて、3人も無理だったでしょうから)、本当に有難い事だと感謝しています。

色々と書いてるうちに、かなり長く読み難くなってしまいました。

これまで、つらい時、同じ思いをしている人(した人)に愚痴を言い、「わかるよ!」「同じだよ!」と受け止めてもらうことで、随分楽になり、救われてきました。
だから、「育児と介護の両立を考える会」のHP、心より応援しています。
2004/05/17(Mon)
2004.5.20掲載)
※現在の状況(平成16年10月)

義両親には、9月から、車で5分の所にある老人保健施設に入所して、毎月5〜6日、通院も兼ねて自宅に帰って来てもらうという生活をお願いしました。

これに関しては本当に色々とあって、主人と随分話し合いました。

両親にしたら、
「嫁のあんたが家で世話してくれたらいいのに、何で他所へ行かなあかん?」
主人は、
「施設に入れるとおふくろの気力と足腰が弱るし、かわいそうだから、家で見てやりたいけど、僕は忙しいから無理。」
私は、
「両親の気持ちはわかるけれど、年中怒鳴っている父と、しょっちゅう泣いてため息をついてばかりいる母と、同じ部屋で一緒に生活するのは、もう限界を越している。」

ショートに行くのでも嫌がる義両親を、無理やり施設に入れることはできないし、かといって、これから先、家で二人を介護していく自身はない。

散々悩みましたが、主人が両親と夏休みの間ずっと一緒にいたことで、やっと大変さを理解してくれ、両親に「施設にいて欲しい。なるべく僕が会いに行くから。」ときちんと話し、どうにか老健で落ち着いてくれそうです。

「自分という息子がいるのに、親を施設に入れるのはやり切れない。」という主人の想いはよく解りますが、96歳の父と同じ高血圧の薬を飲む50歳の主人の側にいると、仕事も忙しいのに無理をして、実父(53歳で脳梗塞で倒れて20年。実母が自宅で介護しています。)の様にならないで欲しいと祈るばかりです。

また、私自身も先月は、ひどいめまいと倦怠感で家事も充分にできず、辛い思いをしました。毎日驚く程寝て、きままな生活をして、やっと少し楽になってきました。

入所してもらって一番助かるのは、小5の次男が父にジッと見つめられて色々と言われる事もなくなり、伸び伸びとしていることです。

いずれ自分達も行く道と、義両親の気持ちを大切に頑張ってきましたが、まるで子供のようにいつも自分中心でなくては満足してくれない二人と、限られた場所で暮らす事は容易ではありません。
二人が揃って老健にいてくれる間に、まずは、自分の体調を整えようと思います。
2004/10/10(Sun)
2004.10.10掲載)
※入院(平成16年11月)

11月18日夕方、義父が入院しました。肺炎と両方の大腿骨頚部の骨折のためです。
病院では、随分、看護婦さんを困らせている様子。夏休みに2週間、血液中にウィルスが入って入院した時も、何度も点滴を抜くは、バルーンを引っ張るは、大声を出すはで、ご迷惑をかけました。

明治生まれの九州男児、剣道5段。
独身の頃、満州で警察官をしており、身一つで引き揚げてきたという父。
老いた義母に対しても、「おなごのくせして、わしの言う事が聞けんかー!」と何かにつけて怒鳴る父。
その頑固さと気丈さゆえに、こちらにくるまで義母の世話をして、元気で暮してくれました。

そんな父にとって、両足の付け根の骨が折れていても、男として、立って用を足せないということは、納得できないようです。家にいるときは、主人が幾ら注意をしても、社宅の庭のあちこちで、立ち小○をして、悩まされました。「はい、はい、わかりました。」と言いながら、「わしは農家の出じゃけん、外でするのはあたりまえじゃ。」と。

病室で誰かが父の視界に入ると、「起こさんば(起こしてくれ)ー!!」と興奮するので、離れてそっと見ていました。手摺やロッカーや壁を手で触って、片足を立てて、何度も何度も起き上がろうとしては、「あいたっ〜(痛い)!」と顔をしかめています。
不自由に慣れている母と違い、ベッドにずっと寝かされるのは初めての父。
来月には97歳という年齢からして、どこまで良くなるのでしょう?

「もう少し落ち着いたら、子供達を連れてお見舞いにくるから、おじいちゃん、どうか元気になってね!!!」
2004/11/22(Mon)
2004.11.22掲載)
※義父の死

前回体験談を書いたすぐ後から意識が無くなり、11月28日、義父が亡くなった。日曜日の昼間、家族7人揃って病室で3時間あまりを過ごし、父は旅立って行った...
もう意識がないというのに、身体を擦りながら呼びかけると、心拍数や呼吸数が増える。お医者様が言われるには、耳は最後まで聞こえるそうだ。
父は金曜日の夜から痙攣をおこしながら、次男のひどい下痢と嘔吐が治まって、日曜日の皆が集まれる時まで、待っていてくれた気がした。
大切な人の死を初めて目の当たりにした子供達。抱き合って、思いきり泣いた。

夫は一人っ子のため、悲しんでいる暇はなく、喪主として様々な事を決め、連絡しなければならない。
迷ったあげく、義母を中心に考えて、親族で見送る事に決めた。

通夜の日の朝、母がお風呂に入れて欲しいとねだる。
「もう2週間以上、入れてもらってない。昨日はお風呂の日だったのに、おじいさんの所へ行ったから、入れてもらえんかった。痒くて痒くて仕方がないよ。」と。「今はそれどころでない。」と、母をなだめたものの、もし母に何かあったら悔やまれるので、夫に入れてもらった。
誰かが母の相手をしている間は、落ち着いているけれど、少し離れると、「お父さーん、連れて行ってよ〜!」と大泣き。

通夜も葬儀も、初めてでわからないことだらけのまま、どうにか終わった。
通夜の時にはオロオロとしていた子供達も、葬儀の日には、母の車椅子を押し、側にいて手伝ってくれた。式の間、母は驚く程、しっかりしていた。

自宅に帰ってから、母を一人にすると、「おとうさ〜ん、おとうさ〜ん!」、「毒を飲んで死ぬよ〜!」、と唸るように泣く。
そうかと思うと食事中にはピタッと泣き止み、出されたものをぺロッとたいらげ、もっと欲しがる。
また号泣した後、おまんじゅうを美味しそうに食べる。その繰り返し。
最初は、「おばあちゃん、かわいそうだね。」と言ってた子供達も、母が泣き出すとあきれて私の顔を見るようになった。

家族皆でいる時は、我慢できたものの、上の子達が寮に帰り、慌てて夕飯の仕度をする私の後ろで、母の泣き叫ぶ声を聞いた時、私はいたたまれなくなった。
「おばあちゃんは、あれだけ泣いても食べれるからいいよね。」と言う私に夫が、言った。
「おふくろは、おまえとは違うんだ。若い時から、食べたい時に食べて、泣きたい時に泣いて、自分のしたいようにする女なんだ。」「かわいそうだから、当分の間、老健には戻さず、家に置く。僕は、これ以上休めないから、すぐにでも仕事に行くけれども。」と。
私はぶち切れた。台所で狂ったように泣いた私は母や子供の聞こえる所で言い争いをしたくなかったので、車の助手席に乗り、携帯で夫を呼び出した。

「いやだー!」
「もう、無理だーー!!」
「私はこれ以上、できなーい!! やれなーい!! やらなーい!!」
その他、もろもろ... 車の中で思いっきり叫んだ。

「子供がいるから、家には出入りするけれど、私はいないものと思って下さい。」と宣言して、家事・介護を放棄して、4日間出歩いた。
留守の間に夫は母を老健に連れて行ったようだ。

結婚してから、何かあっても、どちらの両親にも手伝いに来てもらえず、夫はいつも「僕はこんなに忙しいのに」と仕事優先で、心細くても、「私がしっかりしなきゃ!」と頑張ってきた。義両親のお世話も、人として、嫁として、精一杯やってきたつもりだ。

やってきた事に悔いはない。でも、私は疲れた。

小さい頃からいつも、実母に、「もっと頑張りなさい。」と言われ続けた私にとって、頑張り過ぎないことは難しい。けれども、これからは、自分自身のことも大切にしていこうと思う。

※少し落ち着いて

義父からは、意識が無くなる前に、優しい言葉をもらった。
寝ている父に「おじいちゃん」と声を掛けたら、「ああ、みるくさんかねぇー。」という返事。
「もう少ししたら、子供達を連れてくるけんね。」と言ったら、「ほんに良か孫ばっかじゃもんね。」とニコッと微笑んでくれた。
日頃私を呼ぶ時には、「あんたー!!」か「おばちゃん」。同居した頃には、「女中さんはどこ行ったかね?」だったので、嫁の私を最後に名前で呼んでくれたことは、感激だった。

父がこんなに早く亡くなるのだったら、老健には入れず家で看てあげたかったけど、入院する前、二人を総合病院に連れて行って3時間待ちをした時、それぞれ手が掛かって、これから先どうしたらいいんだろう?と途方にくれていたので、父が何もかもわかって、助けてくれたような気がした。
子供達が小さい頃、父にはとても大事にしてもらった。
平成8年に母がクリプトコッカス肺炎で入院し、骨折で長期療養しても、「あんたの所は子供達がまだ小さくて大変だから、ばあちゃんのことは、わしがする。心配せんでよかー。」と毎日の自転車でのお見舞いや家事等、本当に頑張ってくれた。
ただ、「ありがとう」の気持ちで一杯だ。

年内に慌しく35日の法要を済ませた後、よく眠れず、あまりの体調の悪さに病院へ行った。
「年齢の割にはまだ早いのだけど、更年期障害でしょう。」とのことだった…

義母は、父がいる頃からよく泣いた。
何かお世話をすると、「すみません。すみません。私がいるから迷惑かけて。」と。
「家族だから当たり前だよ。」と何度言っても、優しい言葉をかけても泣く。
そうかと思うと、こちらの都合全く関係無しに、「あれしてちょうだい、これしてちょうだい。」と突然ひどく命令口調で用事を言う。
しっかりしている時と不安定な時のギャップが激しくて、自分中心で、それに振り回されて、クタクタになった。
父を亡くした母に優しくしてあげたいと思うのに、今までに言われた言葉が頭の中で渦を巻いて、母の泣き顔を見るだけで、胸がドキドキとして、カ−ッとなって、苦しくなる。

最近は、母の所へ夫がよく面会に行ってくれている。
数日の自宅帰りの際、病院へも、時間のやりくりをして、夫が連れて行ってくれた。母は、おめかしをして、ニコニコと出かけた。
相変わらず、状態にムラがあるけれど、少しでも長くこのままでいて欲しいと祈る。

夫や子供を送り出した後、家の中で一人になって、ボッ〜と時間が過ぎて行く。
家事をするのも、化粧をして出かけるのも億劫で、急に歳を取って、自分だけが取り残されてしまった気がする。
義両親を引き取る事が決まって、両立はできそうもないとパートも辞めてしまった。
元気になって、何か始めなきゃと思うが、気持ちが焦るだけでエネルギーが湧いてこない。

今は、まだ、こんな時間が必要なのかもしれない。
もう少し、ゆっくりと休む事にしよう。
2005.2.12掲載)
※引っ越し

3/16、同敷地内で引っ越しをした。
夫の仕事は担当が代わると家族が家を変わる。担当によっては、近くに持ち家があっても、敷地内に住む必要がある。前回の改修のためのものも入れて、結婚してから6件目。
2/15に発表があった時には、この体調でまた引っ越しかと思うと、「義母の事があるのに、なんで我が家が?」とひどく落ち込んだ。社宅内で親と同居しているのは、我が家だけである。

2年半住んだ前の家は、水回りの改修のためバリアフリーにしたばかりで、社宅の中では偶然1部屋多い家だった。おかげで、「家族皆で一緒に暮したい」という夫や母の長年の夢を叶えることができた。
今度の家は、玄関に6+1の階段(高さ約1m)とお風呂や家の中にも段差がある。車を降りてから母のベッドまで、随分距離がある。高校は家から通う事にした長男の部屋も必要だ。2、3階では中学生の男の子達が寮生活をする。夫は夜や休日も仕事がある。
義母はこの家では暮し難くなった。

ちょうど、4月から、母のいる老健が増床され、方針が変わり、長期入所が可能になった。夫は母のために、ユニットケアの個室を申し込んだ。

前の家は、父と母のための家だった。子供達や私にとって、心安らぐ場所ではなかった。
実父に比べると、義父も義母も元気で有り難いといつも自分に言い聞かせたが...合わせて190歳の二人といるだけで、気が狂いそうになり、生気を吸い取られるようだった。

義父を見送り、家から5分の施設に義母がいる。一人っ子の嫁として、やっと大分肩の荷が軽くなった。これからも、通院のために自宅泊は必要だが、今度は私達の家に母に時々帰ってきてもらって、家族でいつも笑顔で過ごしたいと思う。
2005/3/16(Wed)
2005.5.23掲載)
※実父のこと

昭和59年6月19日、父53歳、母51歳、私24歳の時。
父は、大阪への出張の帰りの高速船の中で意識不明となり、港から救急車で運ばれた。脳梗塞であった。
緊急に手術をし、一命を取り止めたが、意識のはっきりしない日々が続いた。
ICU(集中治療室)を出てから、母は24時間病室で付き添った。私は心配で、毎日仕事が終わってから、母のお弁当を作り、病院へ届け、洗濯物を持ち帰った。

7月の終り頃、母から弾んだ声で電話があった。「お父さんが桃の汁を舐めたよ。」と。物を食べれる状態ではなかったのに、こっそりと父の大好きなものを舌の上に垂らしたそうだ。
この事をきっかけに、父の身体は少しずつ回復して行った。
母が協力してリハビリに励み、9ヶ月後、父は退院した。

右手足の麻痺、言語失調、視野の障害が残った。
それでも、倒れた当時は命も危ぶまれたのに、足に装具を付け、杖をつけば自分で歩けるようになった父、言葉は忘れても、オウム返しをして私の名前を呼んでくれる父がいてくれるだけで、とても嬉しかった。

※結婚

父が落ち着くと、母は私が痩せて嫁に行きそびれてしまったのは自分達のせいだと悲しむようになった。
その頃田舎では(母の価値観では)、女はクリスマスケーキと一緒で25を過ぎると売れ残りだという。

20代前半では遠くへ(県外へ)嫁に行く事をひどく反対した両親だったが、ちょうど弟夫婦が結婚して初孫が生まれ、義妹が家事をしてくれるようになったこともあって、知人の勧めで結婚を決めた。
ちなみに弟夫婦は3年後に独立をして、その後養子に行った。

余談だが、結納の日、義両親や仲人さんからは「1日も早く孫を。」と言われ、母は79歳と76歳の義両親が帰った後、「老後の面倒を見るために嫁に行くようで...」と心配した。

※実父の再発

平成元年12月。長男(二人目)出産の1ヶ月前、再発、入院。この時も、母はずっと病室で付き添った。
1年11ヶ月で退院後、在宅介護。
後遺症で、父はもう自分では起き上がれなくなってしまった。放っておけば寝たきりになる。母は父を毎日車イスに座らせ、リフトを使ってトイレも使用させた。身体が硬くならないよう訪問リハビリも頼んだ。
当時は布オムツを使っていた。かろうじて動く手で父がオムツをはずす。バスタオル、シーツ、寝まきetc...洗っても洗っても洗濯物が山のようにたまった。
時間通り、3度の食事を作って食べさせ、薬を飲ませるのも大変だった。

倒れたのがまだ50代であったため、65歳になるまでは老人医療の枠には入れず、今のように色々なサービスが使えなかった。母が主な介護者となり、自営業を営む傍ら、兄が介護を手伝ってくれた。

※出産・育児

おかげで3人の子供を授かる事ができた。ただ、どの子の時も安心してとはいかなかった。
長女の時は、病院から「できてたよ。」と夫に電話をしたら、喜んでくれるどころか、「これから僕のご飯はどうするの?」という返事だった。つわりで気持ちが悪くても、台所まで這って行って食事を作った。
里帰り出産をしたが、産後は、2歳になる子を連れた臨月の義妹にお世話になった。母は介護疲れで腎臓を悪くしており安静が必要だと言われていた。遠いので岐阜までなかなか帰れない。産後20日を過ぎると実家で手伝いをした。

長男の時もつわりがひどく4〜5キロ痩せた。長女を預ける所がないので、検診の時も連れて行った。
年末に実家に帰ったが、生まれたのは予定日より2週間早い1月3日。父は入院中、母付き添い。夫は九州。兄も留守。
早朝、陣痛が始まった。明るくなるまで待って、近所に住む弟に病院に連れて行ってもらった。
後になって、1歳の娘と二人きりで、何かあったらどうしていたんだろう?と心配になったものだ。

年子で生まれても、夫は仕事一筋だった。
そのころ毎日のように、「僕がこんなに一生懸命働いているのに、お前はこんなものしか作らん!」と怒られていた。食事のたびに、文句を言われ、まるで、試験を受けているようだった。住宅は山の中にあり、不便だ。牛乳1本買うにも車で山を下りて行かなければならない。下の子が生まれた年までは、夫の仕事も手伝っていた。私なりに頑張っていたつもりだが、仕事で疲れていた夫にはそれが通じず、年中当たられていた。
夫と義母は、どんな時でも、しっかりたくさん食べる。食べる事が楽しみでもあり、ストレスも発散する。それに比べ、実母と私は、暑い時期や体調が悪いと、とたんに食欲が落ちる。忙しいと、自分は食べ損なうこともある。両家では、食に対する価値観や味付けが全く違う。
今思えば、実父の事があり、身体に良いものをと思って作った食事は、濃い味や油物が好きな夫の口には合わなかったようだ。

この頃、周りの人達がとても羨ましかった。
両方の親が元気で、何かあれば駆けつけてきて、子育てを手伝ってくれる人が多かった。そんな人に限って、ご主人も家庭的で優しい。私にはどれもない。
夫がキレルたびに、行く所もなくてひどく悲しかった。
病気の父や介護をして大変な母に心配をかけることは、とても言えなかった。

実家を頼るわけにはいかず、3人目はとても無理だと思っていた。しかし、一人っ子で寂しかったと言う夫は自分が有給休暇を取って手伝うからどうしてももう一人欲しいと言い、授かった。
上の二人は春から揃って保育園に入れ(3、4才児は保育園、5才児は幼稚園しかない)、予定日はちょうど夏休み。これでどうにかなると思った。
ところが、予定日の5日前、やっと仕事が一段落して明日から少しは手伝えるといってくれた矢先、夫は痛みで1歩も動けなくなり、入院した。尿管結石であった。
本来ならそれほど心配はないらしいが、夫の場合、2個ある腎臓のうち1個が奇形して、片方しか使えない。ほおって置くと透析が必要になるという。あせった。
手伝いは頼めないし、もし入院中に生まれたら、上の子達二人をどうしよう?と。
私は、お腹の子に、「もう少し待ってね。」と頼みながら、保育園の送り迎えをし、夫の病院へ通った。
バイパスで仮処置をして、夫は退院。

予定日より10日遅れの平成5年8月13日、次男は首に臍の尾を巻いた状態だったが、無事出産した。
今でも忘れない事が色々ある。
出産の日は、金曜日。土、日は園が休みで、子供達二人は、産院の個室のフロアにシートをひき、ブロックで遊び、私の横でお弁当を食べ、ずっと過ごした。夫はソファーでほとんど寝ていた。普段しないので、どうやって子供の相手をしたらよいのか解らなかったようだ。
おまけに私が入院中に九州に出張もした。事前にあれほど誰かに代わってもらうように頼んであったのに忘れていたと言う。どうにか主人の実家から行ける所で、子供達を連れて行ってもらう事にした。
朝、「長男が下痢をしているからどうしよう?」と言う電話が病院にあったが...
夏休みで仲の良い友達は留守。急にはどこへも頼めない。「置いて行かれても困るから、連れて行ってちょうだい。水分だけはしっかり取ってね。」と答えた気がする。

2学期に入り、行事の時に2度ほど短期入院をして、どうにか石を砕く事ができた。
夫は、死ぬほど痛い思いをしたのに、授業を休まず誰にも迷惑をかけていないとよく自慢をしていた。
この事は、義父の葬式の後、義母のことで私が泣き叫んだ時に一番腹が立った理由だった。
「誰にも迷惑をかけてないというけど、私が今までどれほど迷惑をかけられ、我慢をし、嫌な思いをしてきたのか、あなたはわかってないでしょう!大好きなお母さん(義母)には優しくても、私に対してはは、思いやりの欠片もなかった!つわりの時も、産後も、病気の時も、実家の工場が火事で全焼した時も、引っ越しの時も...」と。勢いに任せて、これぞとばかりにぶちまけた。

次男出産後は、ソファーに座って授乳をしていても、まるで船に乗っているように、身体が揺れてめまいがした。随分長い間続いた。体調が悪いままで、乳児を連れて、上の子達の園の行事参加や送り迎えは負担だった。
夫に協力を求めても、その頃の夫の頭の中では、男は仕事でお金を稼ぐもの。家事、育児は女がするものだという考え方が変わる事はなかった。
次男には申し訳ないが、「もしこの子を産んでいなければ、私はもっと元気だったかもしれない。」と何度も思った事がある。

そんな思いで育てたのに、義両親を引き取って、うつ状態だった時、次男にはどれほど助けられたか。
台所に立つ私の側にそっと来て、「お母さん、大丈夫?」と背中を擦って行く。食欲をなくした私に「僕が大きくなったら、お母さんに美味しいものを作って食べさせてあげるからね。」と。
また、笑う事を忘れた私の耳元にフ〜ッと息を吹きかけていく。思わず肩の力が抜ける。
6年生になり、さすがに最近は「別に。」「やる気ねぇ(ない)。」と反抗期に突入してしまったが...
本当にいてくれて良かった。

※義母入院

平成8年の夏休み。
九州へ帰ったら、義母が病院の看護婦詰所のすぐ隣のベッドで、オシメを当てられ、寝まきも袖を通さず上から掛けられたままで寝ていた。事前に義父から手紙で、特殊な肺炎で入院し、退院間際に転んで肋骨を折ったということは知らされてはいたものの、呼び掛けても、あまりにもうつろで驚いた。
予定を延ばし10日余りの間、子供達を連れて、毎日お見舞いに通った。皆で声を掛け、車椅子に座らせ、病院内外を散歩した。
帰る日の朝には、食堂でお誕生日のケーキを一緒に食べることができ、生気を感じるようになった。

ただ、この頃から、もうこれで最後かもという心配や、もしいつ何があっても後悔しないようにという思いが強くなった。

※次男入園の頃

平成10年春。末っ子が入園。
これで、いつでも好きな時に病院と美容院に行ける。嬉しいはずだった。それなのに、時間ができると、両方の親の事が気になって頭から離れない。
どちらの親も介護を必要としている。私には時間がある。でも、遠くて行けない。
特に、実父の状態がだんだん悪くなり、母はとても苦しそうだった。毎日のように電話がかかってきた。

私は小さい頃から自他ともに認めるお父さん子だった。父が大好きだった!
近くにいれば毎日手伝いに通えるのにと、ひどく切なかった。そんな思いを誰とも分かち合う事ができなかった。

※実父、気管支炎で入院

平成11年4月入院。3ヶ月余りで転院を断って自宅へ。
退院の日は、母方の祖母のお通夜の日だった。
父は熱があり、母はお通夜も葬式も出席できなかった。
今のように市販の介護食がなく(知らなかっただけかもしれないが)、痰を取りながら、柔らかいものを作って食べさせる事が容易ではなかった。父は充分な栄養が取れずに随分痩せていた。夜中の体位変換や薬の吸入もある。褥そうとも戦った。昼夜逆転もした。

母は、自分がやらないと父が生きていけないので、どんなに具合が悪くても、やめることできない。けれど、あまりにも辛くて、母自身が、朝目が覚めなければいいのにと毎日思っていたそうだ。
私は、病気の父も、介護している母もあまりにも苦しそうで、「人はこれほどまでして生きなければいけないのか?」「なぜ父は元気でいてくれなかったのか?」と悶々とした。

私達兄弟や親戚はたびたび入院を勧めたが、老人病院に一人で入院させる事は、父がかわいそうでできないと母は断った。

※実父、気管切開

平成12年3月、呼吸困難で入院。院内感染もした。そしてとうとうそれまで何度も断り続けてきた気管切開をした。
父の状態が悪い上に、総合病院ですぐ大部屋に移され、同室の付き添いの人と相性が悪く、母はひどく落ち込んで気力を無くしていた。
この頃、小学生だった3人の子供達に留守番をさせて、何度か帰省した。夫は忙しく長居をするわけにはいかない。岐阜から徳島まで日帰りをした事もある。
離れていても少しでも心の支えになりたいと、毎日一方的にではあるが、母の携帯に励ましのメールを送った。

2ヶ月後、退院。
「今から救急車で運ばれても仕方がないような重病人を家に連れて帰って、どうやって生活するのですか?」と看護婦さんから随分反対されたそうだ。
それでも、母自身がもう病院にいることができなかった。
退院の時には手伝いに来て欲しいと頼まれていた。けれど、私は数日前から風邪をひき、熱があった。母の気持ちが解るだけに、その事をどうしても言い出せなかった。
前日、娘も熱を出した。私はホッとした。これで断る理由ができた。「娘が風邪で行けない。ごめんなさい。」と伝えてもらった。母はひどく困惑していたそうだ。
退院の日はちょうど娘の12歳の誕生日。修学旅行の前の日だった。
同じ敷地内には兄夫婦が住む。車で10分の所に弟夫婦もいる。
私にも家庭がある。3人の子供がいる。父の事で精一杯の母にもそれを解ってもらいたかった。

幸いにもこの年から介護保険が始まった。
すぐ、要介護5、身障1級の認定がおり、訪問医、訪問看護、ヘルパー、訪問リハビリがお願いできた。
安定するまでに時間が掛かったが、特に、看護婦さんには、今までの頑張りを認めてもらって、相談相手になって下さり、母が孤独感から救われたようで、感謝している。

※九州四国大移動

両親の事がどんなに心配でも、離れている私ができる事は限られていた。
子供達が小さい頃は、九州には写真、ビデオ、手紙を送り、実家へはなるべく電話をした。そして、休みになると両方へ毎年家族5人で帰省した。
夫は学期中は仕事のない日はほとんどなかった。そのかわり、夏は2週間、冬は10日間ほどは、お休みがもらえた。それ以外にも随分帰った。どちらも子供達の成長を見てはとても喜び、「今度はいつ?」と会えるを楽しみにしてくれた。
ただ、同じ西方面だが、遠い。しかも、お盆や正月の移動は帰省ラッシュにかかる。

夫の実家へ着いたらまずコインランドリ−で自分達のシーツを洗濯。腐ったものをこっそり処分して、買い物して食事作り。
夫は義父と親戚への挨拶回り、お墓参り、義母の病院巡り。その間に私はひたすら家の掃除。子供はほったらかしで、たまった家事をする。義母は帰る前の日になると必ずといっていいほど用事や必要な物が出
てくるので、自転車で走り回る。
何日いても義父に、「来たばっかりなのにもう実家に行くのか?」と言われながら、四国へ。

実母が待ちかねている。まず荷物を下ろしたら、実父に風邪など移しては命取りだと、皆でうがい手洗いをしてから、「ただいま」を言う。またひたすら家事をして、母の愚痴を聞く。

帰省のたびに子供達はよく熱を出した。具合が悪くても、残るわけにはいかず、風邪をこじらせて、帰ってくるなり肺炎で入院した事もある。
どちらの実家でも、神様とご先祖様に、「今度来るまで、どうぞ両親をお守り下さい。」とお願いをし
て、後ろ髪を引かれながら帰った。

子供達が小さい頃には、まだよかったが...
大きくなるにつれ、5人の予定を合わせるのは難しく、体力、時間、お金とだんだんとしんどくなってきた。長期の休みに残るのは、疲れと子供の宿題だった。
帰宅してから、「いいわね。そんなに実家でゆっくりできて。」といわれるたびにため息をついた。

義両親を引き取って大変だったが、近くにいることは安心で、もう九州へ行かなくていいだけでも何よりだ。

※大好きなこと

義両親との同居が決まって3ヶ月は、不安と憂鬱で押し潰されそうな日々だった。
そんな気持ちを前向きにしてくれたのは、両親が来る前の日(クリスマスの頃)の深夜にあった音楽番組だった。
独身時代好きだったアーティストが一人で歌っていた。美しい照明と観客の笑顔。その透明な声が心に響いた。「私もあんなコンサートに行きたい!」そう思った。
さっそくCDを買って、車の中で聞いた。唯一のホッとできる時間であった。そして、ネットで追っかけをした。
今まで、家族の事で頭がいっぱいで、自分自身の事を後回しにしてきた私。これから先元気でいるために、何か楽しみを見付けたいと思っていた頃だった。

一年後、またクリスマスに放送する番組のための公開録画があり、900人を招待するという。私は応募した。
何と・・・10万通のハガキの中から、当たった!
コンサートの素晴らしさは言うまでもないが、当日は、義両親が家にいたのに東京まで行けた。
この事は、それまで何かと諦めてばかりだった私に、『願えば叶う』という事を教えてくれた。

今年は、3年ぶりに全国ツアーが行われている。58歳になったその人は、会場中を所狭しと走り回って歌う。仲間を大切にして、エネルギッシュで、歳を取るという事を自然に受け止めている。
8月の終り、名古屋での野外コンサートに参加した。
移り行く雲と夕焼けを見ながら、心地良い風に吹かれて、歌を聴いた。こんな時間がある事が信じられなくて、感動で何度も鳥肌が立ち、涙が溢れた。

※おまじないの言葉

義両親を引き取って半年位経った頃、以前お世話になった人から、お便りを頂いた。それには、
『毎日何もかもが どんどん良くなっていく。
 ありがとう、ありがとう、ありがとうございます。』
朝起きた直後と夜寝る前に、2分ずつこの簡単な言葉を繰り返す(小さくてもいいので声に出して)ことによって、色々な事が上手くいき、元気になれます。と書かれていた。
お礼の電話をして、せっかくだけれども、今の生活がどうにもならないことばかりで、感謝などできないと伝えた。思えなくてもいいから、言葉に出すだけで本当にそうなるからやってごらんと教えてくれた。
毎日車で子供の送り迎えや買い物に行く時など、呪文のように繰り返した。

あれから何かと、結局は良い方へ向かっているような気がする。
ずっとマイナス思考だった私の心がプラスに働くようになり、日々の生活に感謝ができるようになった。
もちろん今でも落ち込む事はあるけれど。少しづつ、元気になれそうだ。

※現在の実両親

父74歳。要介護5、身障1級。脳梗塞で倒れてから22回目の夏を無事過ごせた。
何も食べれない。話せない。身体を動かす事も、体温調節もできない。「お父さん」と呼び掛けても特別な反応を示すわけではない。
鼻から管を入れ栄養を送り、気管を切開して酸素吸入をしながら、72歳の母が在宅で介護(看護)をしている。介護保険の枠一杯のサービスを使っても介護しきれずに、3年ほど前から、夜は家政婦さんをお願いしている。その費用には驚くが、命には代えられない。
おかげで、母も夜はぐっすり寝られるようになり、落ち着いた。

今、父に一番必要な事は、24時間、頻繁な痰の吸引をすることだ。
夏休みも呼吸困難で、一瞬の間に目の前で痙攣を起こした。私は何もできず、ただじっと、母のする事を見ていた。母は、緊迫した表情をしながらも、喉、口、鼻から黙々と痰の吸引をした。痙攣止めの薬を入れていても時々起こるそうだ。電話では聞いていたが、実際に間の当たりに見ると怖かった。
少しでも気を抜けば、痰が喉に貼り付いて息が苦しくなる。

父は母によって毎日生かされている。
二人を見ているのが苦しい時期も長かったが、こんなにも母に大切にしてもらえる父は、誰よりも幸せだと思う。
2005/10/10(Wed)
2005.10.13掲載)
※義母、在宅? 施設?

平成17年11月2日、義母は入所先で嘔吐を繰り返し、総合病院に入院。
よほど苦しかったのか、「殺してちょうだ〜い!」と泣き叫び、何度も点滴を引き抜き、「死にたい。」と初めて食事を拒否した。
お医者様からも、「いつ急変するかわかりません。覚悟をしておいて下さい。」と念を押された。
ちょうど一年前の11月に、義父が入院して10日間であっけなく逝ってしまったこともあって、電話の音にビクビクしながら過ごした。

2週間を過ぎた頃には...
先生も驚く程の回復ぶりで、身体能力は落ちたものの、いつ退院しても良いと言われた。

その頃、ふとした拍子に夫からこんな言葉を聞いた。
「おふくろには、いつも我慢してもらっている。みるくが具合が悪いから、仕方なく施設に入れたけど、毎回会うたびにそう言って、ちゃんと謝っとる。」
私は耳を疑った。
「えっ、じゃあ、私が元気だったら、おばあちゃんをまた家でみるの?」
「そりゃあそうだろう。みるくが体調を壊して、二人を施設に入れたわけだし。親を嫁が家で見るのは当たり前だろ。」
体調が悪かったのは事実だが...
もともと、義両親を九州から引き取る時に、「今まででさえ、仕事が忙しいといつも機嫌が悪かったのに、90代の二人と同居して、これから先、私一人で介護することはできない。」と言う私に、「お前が反対しても、連れてきさえすれば、施設か病院に預けるから。」と約束したのは夫の方だった。
それに、入所の直接のきっかけは、在宅の時、お世話になっていた老健のショートのベッド数が減り、他の施設に変更するか、慣れた所へ入所するかを迫られたからだった。
それを、私の体調のせいだけにされて、情けなかった。
「これまでやってきたことは、いったい何…?」ひどく空しかった。

子供達と話をした。
次男は、「ただでさえ、お父さんの仕事の都合で、毎晩遅くまでうるさいのに、おばあちゃんも居て、いつも泣かれたら、僕は気が狂う。」
長女は、「おじいちゃんだったら、皆でごはんを食べるだけで喜んでくれたけど、おばあちゃんは、ごはんの時間まで待てないし、毎日家にいたら、退屈で溜め息ばかりついて、かわいそう。」

悶々としている時、スーパーで介護友達にあった。
「夫はいつも母中心で、他の家族のことは頭に無い。」と息巻く私に、「ご主人の気持ちがよく解る。もし、自分の親だったら、施設には入れられないし、入れた後もずっと後悔すると思うよ。」と。
彼女は認知症の実母様の介護に疲れ、ケアマネさんのすすめで、施設に入れたものの、帰りたいと泣かれるたびに、これでいいのかと身を切られる思いだと言う。

「自分の親だったら〜」この言葉は効いた。
もしも、実父や実母だったら…
また、家に居たいと望んだ義父を施設に入れて、3か月で亡くなってしまった時も、生きる気力を私が奪ってしまったようで、申し訳なくて、苦しかった。
おまけに、施設費も10月から、毎月5万近く値上がりをした。これからの子供達の事を考えると、我が家にとって、この出費は痛い。
悩んだ末、夫に、「もしどうしてもあなたが家でみてあげたいなら、そうしたら。」と言った。「ただ
し、私が愚痴を言うことは我慢して欲しいし、実際にどういう生活をするのか、おばあちゃんにとってそれが一番幸せか、しっかり考えて欲しい。」と頼んだ。
夫は、「おふくろは昔の人間だから、家で嫁に世話してもらいたいと思っとるに決まっとる。」と即答した。

毎月何日か帰宅する時でさえ、普通に接するために努力をしているのに、義母と「ずっといる」と思っただけで、動悸が激しくなり、吐き気がした。
一人っ子の夫にとって、特別な存在の姑。95歳になった今も、夫といる時は、『母』であることの方が多い気がする。こう思うのは、嫁である私のひがみであろうか?
義両親のために一生懸命頑張って、優しくできていた頃の気持ちに戻れたら、自分自身もどれほどいいだろう...

夫は、病院で、母に聞いた。「みるくが家でみるというけど、どうする?」と。
母は、自ら、今までいた老健に戻ると言った。夫はとても不思議そうだった。

年末年始、帰宅した義母は、おせちを珍しがって食べ、お正月番組を見ながら、声を出して笑っていた。穏やかな時間だった。

※実父の最期

平成18年1月19日、実母から、電話があった。
父が、喘息がひどく、尿が出ず、浮腫んできているという。ベテランの看護婦さんによると、「この状態だと、あと一週間位かもしれない。」と。
12月20日は、両親の結婚記念日だった。兄弟夫婦に声を掛け、年末にどうにか徳島へ帰り、娘として心ばかりの金婚式のお祝いをした。
この頃から、母は、「不自由でも、お父さんと50年間寄り添えたから、もし今度何かあっても救急車を呼ぶつもりはない。病院でこれ以上の延命をしても苦しむだけだから。」と繰り返していた。
数日前から発熱し、今回はどうしても痰が上手く取れないということも聞いていた。
だから… 何となく予感はあった。
「お父さんと話をして。」と、母は受話器を父の耳元にあてた。
いつもは、返事のない電話に向かって一方的に話すのだが、父のあらい息遣いがはっきりと聞こえた。
「お父さん、長い間お母さんと一緒に頑張ってくれてありがとう!」心を込めてお礼を言った。

1月21日、10時過ぎ、父が亡くなったと連絡がきた。
少し前に、父のそばにいた母と電話でたわいもない話をして、二人で笑ったばかりだった。
母が丁寧に痰を取った時、とても楽そうになって、その後ふっと息を引き取ったと言う。
ちょうど、父の弟も、その場にいてくれたそうだ。
何度も覚悟してきたはずなのに... 号泣した後、しばらくぼんやりとしていた。
翌22日は次男の受験だった。夫の勤める学校で、本人の希望だ。一緒に受験をする友達のお宅に慌ててお願いし、おかげで無事合格する事ができた。

21日にお通夜、22日にお葬式。
父の事で余裕がなく、ずっと不義理をしてきたのに、どちらもたくさんの方が来て下さったと、母は喜んでいた。
親族の挨拶では、伯父から「この場で、身内の事を誉めるのはおかしいけれど、姉は長い間、本当によくやってくれました。兄に代わって言います。ねえちゃん、ありがとう。」と、何よりの言葉をもらった。
最後のお別れに、父にいとおしそうに頬ずりする母をはっきりと覚えている。私は、崩れてしまいそうで、父の顔を直視することさえできなかった。

父を見送ってから毎日、母のもとへ、隣に住む小4の姪っ子と兄夫婦が通って来て、食事を共にしてくれると聞く。
実父はとうとう亡くなってしまったんだという寂しさと引き換えに、長い間あった大きな心配事が、一つ消えた。
2006/02/16(Thu)
2006.02.18掲載)
※義母逝く

実父が旅立った前後3週間ほど、義母は入院していた。義母がいたのは老健で、口から十分な栄養が取れなくなると、入院を勧められる。
この時は、点滴をし、何とか食べれるようになり、施設へ戻った。

4月の終わりに再度入院した義母は、胃癌で、レントゲンで見ても胃の形が変形している程だった。入院先では、とても良くしてもらったが、95歳という高齢で、詳しい検査も積極的な治療もしないことにしたため、一ヶ月も経たないうちに、転院を考えておくようにと言われた。
食べ物を全く受け付けなくなり、静脈からの24時間の点滴と輸血によって、母の命があった。医師からは、「いつ何があるかわかりません。覚悟をしておいて下さい。」と繰り返された。
着替えを持って病院に通うたび、顔をしかめ、苦しそうなうなり声をあげる母に会うのがいたたまれなかった。
どこにいても、何をしても、母のことが頭から離れなかった。

「せっかく長生きをして、こんなにまでして、まだ生きなければならないのか・・・?」「自然な形で、家族皆で見送ってあげた方が母は幸せではないか・・・?」心の中で自問自答したが、夫は、母に、どんなことをしてでも少しでも長く生きて欲しいと願っているのがわかるだけに、黙っていた。
あれこれ決めるのは、実の息子である夫。一人っ子の夫が少しでも悔いが残らないように、支えていこうと決めた。

度々の下血に加え、7月に入ってからは、吐血もした。痛み止めを頼んだが、即、命に関わるからと、一度きりの使用だった。
亡くなる3日前であったか、さすがの夫も「おふくろには一日でも長生きして欲しいけれど、これ以上苦しむのはかわいそうで、複雑やな〜」と大きなため息をついた。また、「親父はあっけなく逝ったけれど、その方が幸せだったかも」と。

平成18年7月11日3時39分、病院から「心停止しました。」と電話があった。あちこちから出血をして、ダムが決壊するように亡くなる可能性がありますと言われていただけに、その前に心臓が止まったことは、幸いだったそうだ。
このあたりはちょうどお盆にあたる。父が迎えに来たのだろうか。母はやっと楽になった。
子供達も寮の生徒も、期末テストの2日目。高3の長女は、推薦のかかった大切なテストだったが、動揺して受けられない科目もあった。
次男は、1学期の間に、インフルエンザ、水疱瘡、胃腸風邪、葬式と続けて休んだ。私の心の不安定さが影響しているような気がして、申し訳なかった。

お通夜では、母が知っている人は、家族だけ。九州にいたら、親戚や知人が来てくれたのではないか?寂しい思いをさせたのではないか?と涙が止まらなかった。
お葬式が終わってから、東の山にとても綺麗な虹を見た。この虹に夫は救われたと言う。

育児と介護は似ているという人がいる。けれど、育児は未来があるのに対して、介護はいくつになっても先は見えず、どんなに好きな人であっても終わりは一つ。

義父は、頑固だったけれど、優しかった。「あんたのおかげで孫ができて、あんたのおかげで美味しいご飯が食べれて、あんたのおかげでばあちゃんの世話がしてもらえて・・・」といつも笑顔で労ってくれて、がんばることができた。
義父を見送ってからは、母に死にたいと泣かれ、在宅介護をしなかったことで、「おまえのせいでおふくろがかわいそう」と夫に責められ、辛くて長い日々だった。
「嫁が、家で、親(嫁ぎ先の)の世話をするのが当たり前。」夫のこの考えは結局変わらなかった。

夫の望むような介護はできなかったかもしれないけれど・・・
結婚してから、九州へもずいぶん通い、義母が喜んでくれるよう心を込めてきた。実父の方が、生死を彷徨っていても、夫の両親と過ごした時間の方がずっと多かった。子供達にもずいぶん我慢させた。
義父享年98歳。義母享年97歳。まさか2人揃って、これほど長生きしてくれるとは思わなかった。
53歳で倒れ、何年も何も食べられず寝たきりで、享年75歳で亡くなった実父と比べると、幸せだったと思うのだが・・・
「おまえのおかげでおやじもおふくろも長生きすることができた。」もしも夫からこんな言葉や気持ちがもらえれば、それだけで報われたのに。

何度も介護放棄をしそうになっては、「育児と介護の両立を考える会」や介護を通じて知り合った人達の頑張りに励まされて、どうにか最後までたどり着いた。
心から、感謝します。
2006/02/14(Wed)
2007.03.12掲載)


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